酩酊と奈落
飲み会の場所は大学近くの学生で賑わう安っぽい居酒屋だった。ドアを開けた瞬間タバコの煙とアルコールの匂い、そして若い男女の嬌声が渦巻く熱気にむせ返った。それは私が普段息をしている清潔で静謐な世界とはかけ離れた猥雑でしかし強烈な生命力に満ちた場所だった。まるで異世界に迷い込んでしまったような感覚。一瞬、踵を返そうかと思った。
「おお、望月さん!よく来てくれたね!こっちこっち!」
一番奥の座敷で男、田中が大きな手招きをしている。もう引き返せない。私は覚悟を決めて靴を脱ぎぎこちない足取りで座敷へと進んだ。
「ささ、飲んで飲んで!」
田中が私のグラスになみなみとビールを注ぐ。初めて口にするアルコールは想像以上に苦くて不味かった。けれど場の空気に逆らうことはできず私はそれを一気に呷った。喉を通る冷たい液体が胃の腑を焼くような感覚。身体がカッと熱くなる。
最初は緊張でうまく話すこともできなかった。ゼミの仲間たちの他愛ない会話にただ曖昧に頷き作り笑いを浮かべるだけ。彼らの世界と私の世界の間には分厚い透明な壁があるようだった。彼らが話すサークルの合宿の話もアルバイト先の面白い客の話もどこか遠い国の出来事のように聞こえる。けれどアルコールが身体に回り始めるとその壁が少しずつ溶けていくような気がした。
「望月さんってさ、なんかミステリアスだよね。いつも一人で静かだし」
誰かが言った。
「だよなー。彼氏とラブラブなんだろ?羨ましいぜ、ちくしょう!」
別の男が囃し立てる。
彼らは私を「ゼミの仲間」としてではなく一人の「女」として見ていた。その無遠慮で好奇心に満ちた視線が普段なら不快なはずなのにその夜はなぜか心地よかった。佐藤先輩に守られ支配されている私ではない。ここにいるのはただの「望月奏」なのだという解放感。その解放感は危険なほど甘美だった。
私は次々と酒を飲んだ。差し出されるグラスを拒まなかった。ビールの次は甘いカクテル。レモンサワー、カシスオレンジ。何杯飲んだのかもう覚えていない。世界がゆっくりと、しかし確実に回転し始め音が心地よく反響する。周りの男たちの顔がどれも同じに見えてきた。彼らが話す下らない冗談や教授の悪口。その一つひとつがどうでもよく、そして最高に面白く感じられた。
「奏ちゃんって笑うと可愛いね」
田中がすぐ隣で顔を赤らめながら言った。彼の膝が私の膝に触れている。「奏ちゃん」という馴れ馴れしい呼び方さえその夜は気にならなかった。私は自分でも驚くほど大きな声で笑った。心の底からこんな風に自分を解放して笑ったのはいつ以来だろう。彼との関係が始まったばかりの頃以来かもしれない。孤独も不安も彼への罪悪感もアルコールという名の甘い毒が一時的に全てを麻痺させてくれていた。思考の霧が晴れ代わりに酩酊という名の濃い霧が立ち込めてくる。
どれくらい時間が経ったのか。時計の針はもう終電の時間をとっくに過ぎていた。現実への帰路は断たれたのだと、どこか他人事のように思った。
「二軒目、どうする?」
「カラオケでも行くか?」
男たちの声が水中で聞こえるようにくぐもって遠くに響く。私はもう自分の足で立つこともままならなくなっていた。頭がぐわんぐわんと揺れている。視界が定まらない。
「望月さん、大丈夫?」
田中が私の腕を支えてくれる。彼の体温が妙に熱く感じられた。拒絶しようという意志さえもう湧いてこなかった。
「…うん…だいじょうぶ…かも…」
呂律が回らない。自分が何を言っているのかもよくわからない。ただ流れに身を任せるしかないような無力感。
居酒屋を出たことは覚えている。夜風が火照った身体に心地よかった。けれど足元がおぼつかずまっすぐ歩けない。誰かが私の両脇を抱えるようにして支えてくれていた。それが田中だったのか別の誰かだったのかもう判別がつかなかった。複数の男たちの体温と匂いが私を取り囲んでいた。
次に覚えているのは見知らぬアパートの一室にいたことだ。ワンルームの狭い部屋。床にはコンビニ弁当の容器や漫画雑誌が散乱している。男物の服の匂い。煙草の匂い。誰の部屋なのかわからない。ただ複数の男たちがそこにいて私を見ていた。その目が暗闇の中でギラギラと光っているように見えた。獲物を前にした獣の目だ。
怖い、と思った。帰らなければ。彼に知られたら大変なことになる。
しかし身体は鉛のように重く言うことを聞かなかった。アルコールが全身の神経を麻痺させている。ソファにぐったりと凭れかかる私に誰かが近づいてくる。
「大丈夫だって、奏ちゃん。少し休んでいきなよ」
優しい声。でもその声には抗えない力がこもっていた。拒絶の言葉を紡ごうとしても声にならない。抵抗しようとする私の腕を誰かが掴んだ。別の誰かが私の脚に触れた。
嫌だ。やめて。
心の中で叫んでも声にならない。身体も動かない。まるで金縛りにあったように。
男たちの手が私の身体をまさぐる。服の中に侵入してくる。その感触だけが生々しく意識に焼き付く。息遣い。汗の匂い。下卑た笑い声。
そして心のどこかで感じていた奇妙な諦念。
ああこれで楽になれるのかもしれない。
もう完璧な私でいなくてもいいんだ。
彼のために聖女でいることに私はもう疲れてしまったのかもしれない。
自ら堕ちていくことでしか私はあの息苦しい金色の鳥籠から逃れることはできなかったのだ。
それが何人の男だったのかも定かではない。一人、二人、三人…?意識が朦朧としていく。視界が霞む。男たちの顔が歪んで見える。最後に私の上に覆いかぶさってきた男の顔がいつも仮想世界で冷静な声を聞かせてくれるあの彼に似ていたような気がした。でももうどうでもよかった。そんなはずはない。
痛みと屈辱。そして、なぜか涙も出ないほどの、深い、深い、虚無感。
私の身体は、もう、私のものではなかった。ただの、物のように扱われている。
意識が、遠のいていく。
暗い、底なしの沼へ、沈んでいく。
もう、何も、感じたくない。
何も、考えたくない。
ただ、この悪夢が終わってくれることだけを願って、私は、意識を手放した。




