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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
3/50

決戦前夜のアルペジオ

じっとりとした熱が、港町の空気を支配し始めた頃、私たちの運命を決める日がやってきた。

夏の吹奏楽コンクール。その出場メンバーの発表だ。


放課後の音楽室は、異様な緊張感に包まれていた。

湿度と、松脂と、金属の匂いが混じり合い、息が詰まる。

全部員が固唾を飲んで顧問の鈴木先生のその口元を見つめていた。

「A部門(コンクール選抜メンバー)に出場する生徒を発表する」

先生の静かな声が響く。

私は祈るような気持ちで固く、目を閉じた。


一人、また一人と名前が呼ばれていくクラリネットパートの先輩たちの名前。

そして、

「一年、望月奏」


自分の名前が呼ばれた瞬間、心臓が喉から飛び出しそうになった。

信じられない。

私が?

全身の血が、沸騰するような、高揚感。

隣にいた同級生の渡辺さん、鈴木さんも名前を呼ばれていた。

私たちは顔を見合わせ、声にならない甲高い息を漏らし、手をきつくきつく握り合った。


しかし、その喜びも束の間、すぐに現実に引き戻される。

同じパートの親友である、高橋さんの名前は最後まで呼ばれなかったのだ。


選ばれた喜びと、選ばれなかった悲しみ。

ほんの数秒前まで、喜びを分かち合っていたはずのパートの仲間たちの間に、残酷な、一本の線が引かれた。

俯き、固く唇を噛みしめる高橋さんの、震える肩。

私はかける言葉を見つけられなかった。

「おめでとう」と、涙声で私たちを祝福してくれた彼女の笑顔が、痛々しくて、直視できない。


これが、アンサンブル(調和)を掲げる部活のもう一つの現実。

勝負の世界の厳しさなのだと、初めて痛感した瞬間だった。


その日から、練習は「過酷」という言葉が生ぬるく感じるほど壮絶なものになった。

コンクールまで、あと一ヶ月。

私たちは、学校の合宿所に泊まり込み、文字通り朝から晩まで楽器を吹き続けた。


朝六時に起床し、山の空気を吸い込みながらの発声練習とランニング。

朝食をかきこみ、午前中はパート練習。

昼食後、午後はずっと合奏。

夕食後、夜はまた個人練習とパート練習。

そして、短い入浴時間とミーティング。

布団に入るのは日付けが変わる頃。

私の生活は音楽室と食堂と 合宿所だけに塗り潰された。


唇はリードの振動に耐えきれず、すぐに切れた。血の味がする。

左手の親指は楽器の重さを支え続け、タコができ、やがて潰れた。


腹筋は、息を支えるために常に緊張を強いられ、痙攣に近い筋肉痛が続いた。


しかし、肉体的な苦痛よりも、私を追い詰めたのは、精神的なプレッシャーだった。

特に、パートリーダーの佐藤先輩の指導は、一切の妥協がなかった。彼は、A部門のクラリネットパートの中で、一年は私一人だけ、という状況を、決して、良しとしていなかった。


「望月、音程がぶれてる!」

合奏中、彼の鋭い声が飛ぶと、鈴木先生の指揮棒が止まる。五十人全員の視線が、私一人に突き刺さる。

「そんな薄っぺらい音で、他の楽器と混ざると思ってんのか!」

「すみません…」

掠れた声で謝る私に、彼はさらに容赦ない言葉を浴びせる。

「謝るな。音で示せ。できないなら、そこをどけ」


悔しくて、情けなくて、何度もトイレに駆け込んでは一人で泣いた。

私の生まれ持った「声」の世界では、こんな挫折は、こんな屈辱は、味わったことがなかった。

なぜ、私だけがこんな目に。


しかし、不思議と「辞めたい」とは思わなかった。

佐藤先輩は、誰よりも練習し、そして誰よりも美しい音を持っていたからだ。

夜、自主練習の時間。

彼が一人、音楽室の隅で吹くソロの練習。

その音色は、厳しさとは裏腹にどこまでも温かく、深く、そして、切なかった。

私は、あの音が出したい。

あの音の、隣で吹きたい。

その一心だけが、私の折れそうな心を支えていた。


ある夜の個人練習の時間。

どうしてもあるパッセージが上手く吹けずに、半泣きになっていると、不意に背後から声がした。

「そこ、力みすぎだ」

佐藤先輩だった。

彼は、私の隣に無言で椅子を持ってくると、自分の楽器を構えた。

「俺の音をよく聴け。息の、流れだ」

彼は手本を示してくれた。

その音は、まるでビロードのように滑らかで、豊かな響きを持っていた。

「もっと息を深く、身体のずっと奥から、音を出すイメージで。お前の、あの『声』みたいに、芯のある、響く音が出せるはずだから」


その言葉は、私の心の奥深くに温かい光を灯してくれた。

私の「声」を、彼は覚えていてくれた。

そして、このクラリネットという楽器で、それを表現できると信じてくれている。


「…はいっ」

私は涙を拭い、もう一度マウスピースを咥えた。


合宿所の夜、消灯時間後。

懐中電灯の小さな明かりを頼りに、同級生の渡辺さんや鈴木さん(同級生)と、三人で、布団に潜り込む。

「佐藤先輩、厳しいけど、奏のこと絶対買ってくれてるよね」

「うん、わかる。あの人、不器用なだけだよ」

仲間たちの囁き声が、昼間の緊張を解きほぐしてくれた。

私は、カバンから一枚のくしゃくしゃになった便箋を取り出した。

合宿所に来る日、高橋さんがそっと、私の楽譜の間に、挟んでくれた手紙だった。


『奏へ。メンバー選出、おめでとう。自分のことみたいに嬉しい。私の分まで頑張って、とは言わない。奏は、奏の音を、ホールいっぱいに響かせてきてね。客席で聴いてるから』


一人じゃない。

渡辺さんがいる。鈴木さんがいる。

そして、客席には、高橋さんが、待っている。

みんなの想いを背負って、私は、あのステージに立つのだ。


コンクール前夜。

全ての練習が終わり、私たちは楽器をケースに仕舞った。

シーンと静まり返った音楽室はまるで嵐の前の静けさだった。

私は、自分のクラリネットをそっと指で撫でた。

この黒檀の管は、もはや私の第二の「声」だった。

明日は泣いても笑っても、一度きりの、十二分間。


私は、窓の外の、濃い夏の夜の闇に向かって、ただ、深く、深く、息を吸い込んだ。

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