祝祭への序曲
大学に入学して数ヶ月が経った初夏。私の世界は彼の色だけに染め上げられていた。現実の大学生活は才能豊かな同級生たちとの差を痛感させられる灰色の時間だった。しかしその灰色の日々があるからこそ、夜、彼と繋がる仮想世界の輝きはより一層増して感じられた。
私たちは毎晩のように明け方近くまで、その美しいファンタジーの世界で言葉を交わし共に冒険した。彼の声を聞き彼のアバターが隣にいる。ただそれだけで私の孤独は癒され満たされた。私は彼という太陽の周りを回る忠実な惑星だった。彼なしでは一瞬たりとも生きてはいけない。そう本気で信じ始めていた。
そんなある日、彼から現実世界での「提案」があった。
「奏さ、俺、月に一回くらいそっちに行こうかと思ってるんだけど」
ヘッドセットの向から聞こえてきた彼の少し照れたような声。私の心臓が大きく跳ねた。
「え…?」
「だって奏、頑張りすぎてるだろ。たまには俺がちゃんと現実で奏のこと甘やかしてやらないと」
その言葉は蜂蜜のように私の心に甘く染み渡った。彼がこの六畳一間の私の城に来てくれる。それも一度きりではなく毎月。それは私が想像していた以上の夢のような出来事だった。あの日、私がこの街に来て初めて部屋に入れて以来の彼の訪問。今回はもっと特別な意味を持つような気がした。
「…でも…先輩、忙しいんじゃ…」
「奏に会う時間くらい作るよ。それに俺だって奏に会いたいんだから」
その日から私の日常はその「最初」の訪問の日を中心に回り始めた。指折り数えカレンダーに印をつけその日を待った。それはただの訪問ではない。私たちの仮想世界での完璧な関係が現実世界でも定期的な「祝祭」として繰り返される、その始まりの儀式なのだと私は感じていた。
彼が来るその週末までの数週間。私はまるで大切な神事を控えた巫女のように心を整え身体を清めた。
まず部屋を完璧に磨き上げた。普段は散らかり放題の六畳一間。それを隅々まで掃除し埃一つない空間にした。なけなしのお金をはたいて新しいカーテンと小さな花瓶を買った。彼を迎えるにふさわしい神聖な場所にしたかったのだ。
そして自分自身も磨いた。いつもより丁寧に髪を洗い肌の手入れをした。彼に触れられるかもしれないその瞬間のために。彼に「綺麗になった」と思ってもらうために。鏡に映る自分は恋する乙女の不安と期待に揺れていた。
どんな服を着ようか。どんな料理を作ろうか。どんな言葉を交わそうか。
私の頭の中はそのことでいっぱいだった。それは甘美な悩みであると同時に、彼という「神様」を失望させてはならないという強迫観念にも似たプレッシャーでもあった。
仮想世界での彼は完璧だった。優しくて強くて私のすべてを受け止めてくれる。しかし現実世界の彼は?
あの日、初めてこの部屋で会った時感じたあの圧倒的な存在感。彼の体温、彼の匂い。それは画面越しの彼とは全く違う生身の男だった。
その生身の彼を私は本当に満足させることが出来るのだろうか。
期待と不安が交互に押し寄せ私の心はまるで振り子のように揺れ動いた。
しかしその揺らぎさえも彼を待つという一点に収束していく。
彼が来る。
その事実だけが私のすべてを支える絶対的な光だった。
梅雨の晴れ間の空のように私の心も晴れたり曇ったりしながら、その「最初」の祝祭の朝を迎えようとしていた。




