神様の声
夜が明けた。
冷たい床の上でトランクを背もたれに、コートを着たまま縮こまっていた身体は石のように強張っていた。
窓の外からは昨日と同じ無関心な街の騒音が容赦なく部屋に染み込んでくる。
現実は変わらない。
私はまだこのがらんどうの冷たい部屋にたった一人だ。
携帯電話の液晶画面はもうとっくに暗くなっている。
しかし私の指先は昨夜何度も何度もなぞった、あの『佐藤先輩』というたった四文字の感触を覚えていた。
昨夜は押せなかった。
もし拒絶されたらという恐怖が勝っていた。
でも今はどうだ。
このままここで座っていても誰も助けには来てくれない。
この街に来た目的を果たさなければ。
私は震える指でもう一度彼の名前を呼び出す。
指が通話ボタンに触れた。
押した。
無機質な呼び出し音が耳元で鳴り響く。
一回。
二回。
心臓が喉の奥で大きく脈打つ。
出ない。
ああやっぱり彼はもう私のことなど…。
『…もしもし?』
その声を聞いた瞬間、全身の血液が逆流した。
間違いない。彼だ。
私がこの一年間その声だけを道標にして生きてきた、神様の声。
「…あ…」
声が出ない。
掠れた息の音しか漏れない。
『…もしもし?誰?』
不審そうな寝起きの声。
まずい、切られる。
「…かなで…です…!望月、奏…!」
私はありったけの力で叫んだ。
それは私の耳にさえひどく醜い音に聞こえた。
受話器の向こうで彼が息を飲む気配がした。
『…望月か!』
その声の響きが変わった。
『今どこだ!?着いたのか!?』
「…はい…昨日…アパートに…」
『わかった。すぐ行く。住所、メールで送れ。すぐだ』
一方的に電話は切れた。
私は言われた通り震える手でアパートの住所を打ち込み送信する。
すぐに「既読」の文字がついた。
どのくらい待っただろうか。
五分か十分か。
永遠のようにも感じられた。
私はその場で立ち尽くしたまま動けなかった。
アパートの安っぽいチャイムが甲高い音を立てた。
ビクリと身体が跳ねる。
心臓が張り裂けそうだった。
私は夢遊病者のようにふらふらとドアに歩み寄る。
震える手で鍵を開けドアノブを回した。
ドアを開けるとそこに彼が立っていた。
息が切れている。
制服ではないラフな私服の彼は、私の記憶の中にいた高校生の彼よりもずっと大人びて眩しく見えた。
「…先輩…」
「よぉ」
彼はそう言って私のぼさぼさの頭を、あの時と同じように不器用な笑顔でぽんと叩いた。
「…よく来たな」
その手の温かさが私の全身に広がった瞬間、一年半張り詰めていた何かが切れた。
涙が溢れて止まらなかった。
私はその場に泣き崩れた。
みっともなく子供のように声を上げて泣いた。
彼は何も言わず黙って私の小さな背中をさすってくれていた。
どれくらいそうしていただろう。
涙が少し収まった頃、彼は私の腕を引き立たせてくれた。
「ほら立て。こんなとこで何してんだ」
彼は私の部屋を見渡しそして眉をひそめた。
「…荷物これだけか?」
「…はい…」
「…そうか。とりあえず中入るぞ。身体、冷え切ってる」
彼は私のがらんどうの部屋にためらいなく足を踏み入れ、乱暴に私のトランクを開けた。
「着替えどこだ。とにかく温かいシャワー浴びてこい。話はそれからだ」
私は言われるがまま、彼が放り投げたスウェットを掴み、ユニットバスへと向かった。
熱いシャワーが、冷え切った身体と強張った心をゆっくりと解かしていく。
ドアの向こう側から彼が誰かと電話で話しているくぐもった声が聞こえた。
彼は私がここで生きていくための準備を始めてくれていた。
私はもう一人ではないのだ。
その実感が再び涙となってシャワーの湯と共に頬を伝った。
シャワーから上がると部屋には芳醇なコーヒーの香りが満ちていた。
彼はいつの間にか小さなコンロをどこからか持ち込み湯を沸かしていた。
「ほらよ」
差し出された紙コップ。
その温かさが凍えていた指先にじんわりと染みる。
私はその黒い液体を一口含んだ。
苦くて熱い。
でもそれは私の身体の芯まで温めてくれる命の味だった。
「…これからよろしくな、望月」
コーヒーを飲みながら彼はぶっきらぼうにそう言った。
「俺は、お前の先生でも神様でもない。ただの先輩だ。だから自分の足で立て」
「…はい…!」
「大学の履修登録とかわかんないことだらけだろう。明日また来る。しっかり飯食って寝ろよ」
彼はそう言うとあっさりと部屋を出て行こうとした。
「あ…あの、先輩!」
私は思わず呼び止めていた。
「…ありがとう、ございます…!」
彼は振り向かず片手だけをひらりと上げてドアの向こうに消えていった。
私は一人残された。
しかし昨日とはまったく違っていた。
部屋はまだがらんどうだったけれど、そこにはコーヒーの温かい香りが残っていた。
私の新しい人生。
佐藤先輩というただ一人の先輩を道標にした本当の戦いが、その日静かに幕を開けた。




