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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
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旅立ちのアリア

ついにその朝が来た。

十八歳になった春、私が生まれ育ったこの町を離れ、本土の大学都市へ旅立つ日が。

荷物は一週間も前からトランク一つにまとめ上げてあった。

高校の教科書も制服も、好きだったはずのCDのほとんども、すべてこの町に捨ててきた。

私が持っていくのは最低限の着替えと声楽の楽譜、そして響子先生からもらったお守りだけだ。

惨めだった自分との訣別。

過去のすべてを、この潮の香りがする町に置いていく。


その決意とは裏腹に、最後の夜、私はほとんど眠れなかった。

自分の部屋のベッドに横たわり、天井を見つめる。

この天井を見上げるのも最後。

窓の外から聞こえてくる遠い波の音を聞くのも最後。

明日、私はここを出ていく。

もう二度とこの場所には「住人」として戻ってくることはないのだ。

そう思うと、あれほど憎かったこの狭い世界さえもが、たまらなく愛おしく思えた。


明け方、階下から台所の物音が聞こえてくる。

母が私の最後の朝食を作ってくれている音。

その日常の音が、今日だけは非日常の響きをもって私の胸を締め付けた。


食卓には私の好きだった甘い卵焼きと、あさりの味噌汁が並んでいた。

「…いただきます」

家族四人、最後の食卓。

誰もが口数少なく箸を動かす。

父も祖父も新聞に目を落としたまま何も喋らない。

母だけが「ちゃんと食べんね」「忘れ物なかね」と、無理に明るい声を作っていた。

その声が震えていることに気づかないふりをしながら、私はご飯を喉に流し込んだ。

味は、しなかった。


「…じゃあ、そろそろ行くけん」

私が玄関でトランクを手にすると、三人がついてきた。

長距離バスが停まる国道沿いのバス停まで歩く、十分の道のり。

それがこの家族で歩く最後の道だった。


祖父は家の門の前で止まった。

「奏」

「…なに、じいちゃん」

「…お前は、よう頑張った。それだけは忘れんな。…いってこい」

それだけを言うと、祖父は私に背を向け、家の中に戻っていった。

その背中がこの一年でまた少し小さくなったことに、私は気づいていた。


父と母と三人でバス停へ向かう。

春の朝の空気はまだ少し冷たく、海の匂いがした。

見慣れた田んぼ道。

見慣れた自動販売機。

見慣れたカーブミラー。

そのすべてに「さようなら」と心の中で別れを告げた。


バス停には私以外誰もいなかった。

すぐに遠くから大型バスのエンジン音が近づいてくる。

時間が来た。


「…じゃあ、お父さん、お母さん、…行ってきます」

「ああ、身体、気ぃつけろよ。金が無くなったら言えよ」

父が不器用な笑顔で私の頭をぽんと叩いた。

「奏…!」

母が私に抱きついてきた。

「ちゃんと飯食うんぞ!夜遅くまで起きとったらいかんよ!たまには、たまには、電話してこいよ…!」

「…うん…わかってる…」

「もう…!馬鹿…!」

母は私の胸で子供のように泣きじゃくっていた。

その温もりと涙の熱さに、私の決意も鈍りそうになる。


プシュー、という音と共にバスのドアが開いた。

運転手が怪訝な顔でこちらを見ている。

「…お母さん、もう行かないと」

「…うん…!」

無理やりその腕を引き剥がし、私はトランクをバスの腹に押し込んだ。

そして二人に一度向き直る。

「…じゃあね」

深々と頭を下げ、私はステップを駆け上がった。


バスの窓際の席に座る。

窓の外で父と母が並んで立っていた。

母はまだ泣いている。

父はそんな母の肩をただ黙って抱いていた。


バスがゆっくりと走り出す。

二人が小さく手を振る。

私も見えなくなるまで手を振り返した。

姿が見えなくなる。

私の十七年間のすべてが、あのバス停の向こうに消えていった。


私はもう二度と泣かないと決めていた。

しかし涙は次から次へと溢れて止まらなかった。

でも、それはもう悲しみの涙ではなかった。


さようなら。

私の惨めだった昨日。

さようなら。

私を守ってくれたすべて。


バスは速度を上げていく。

車窓の景色が見慣れた田園風景から、知らない街並みへと変わっていく。

私は涙を拭い、前を向いた。

胸のポケットには一枚の紙切れが入っている。

神様が待つ街の住所。


不安はなかった。

あるのは確信だけ。

本土のあの街には彼がいる。

私の本当の人生が、ようやく始まるのだ。

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