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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
19/50

新しい道標

十七歳の春。

あの運命の体験レッスンは私のすべてを変えた。

私はあの初老の女性教師、響子きょうこ先生に弟子入りすることを決めた。


週に一度、本土の教室へ通う日々が始まった。

それは私にとって、初めて経験する「本物」の世界だった。

「あなたの声は天賦の才。でも、あなたはそれに胡座あぐらをかいて溺れているだけ」

響子先生は火のように厳しく、そして水のように正確だった。


「息が浅い。身体が鳴っていない。小手先で歌うな!」

彼女の鋭い叱責が飛ぶたびに、私のちっぽけなプライドは粉々に打ち砕かれた。

健太先輩に裏切られた傷口よりも深く痛む傷。

しかし、それは不思議と心地よい痛みでもあった。

誰も私を誤魔かしてくれない。「声が綺麗」という安っぽい慰めもない。

ただ、音楽という絶対的な真実の前で私は裸にされていた。


「本土の音楽大学に進学します」

高校の進路指導室で私がそう宣言した時、担任の教師は持っていたペンを落とした。

「望月が?…本気か?」

彼の目はそう言っていた。

「お前のような、教室の隅で息を殺していた幽霊みたいな生徒が、何を馬鹿なことを」と。


「本気です」

私はただ短くそう答えた。

声はまだ掠れていたが、その音には自分でも驚くほどの揺るぎない意志がこもっていた。

教師は呆れたようにため息をつき、「親御さんの承諾は得ているのか」とだけ言った。


その夜、私は初めて両親にすべてを話した。

食卓を囲む父と母。

私は震える手で、響子先生の教室のパンフレットと、音楽大学の資料をテーブルに置いた。

「私、ここへ行きたい」


父は黙って箸を止めた。

母は不安そうに私の顔と父の顔を見比べた。


「…奏」

父の低い声。

「…お前は、自分が何を言っているのか、わかっているのか」

「わかってる」

「音楽で飯が食える人間が、どれだけいると思ってるんだ。ましてや、お前は一度道を踏み外しかけた」

健太先輩の件。父の言葉が古傷を抉る。


「わかってる!」

私は叫んでいた。

「でも、私にはこれしかないの!これしかやりたいことがないの!このまま、この町でなんとなく就職して、なんとなく生きていくなんて、絶対に嫌なの!」

「…奏…」

母が泣きそうな顔で私の名前を呼ぶ。


「お願いします!」

私はテーブルに頭を擦り付けんばかりに下げていた。

「私にチャンスをください。もしこれで駄目だったら、私、どんな仕事でもするから。一生仕送りだってするから。だから、お願い…!」


長い沈黙。

テレビの音だけがやけに大きく響く。

やがて父は深いため息を一つついて言った。

「…わかった」

「…え…?」

「ただし、条件がある。本土の大学へ行くんだったら、国立以外は認めん。私立の音大なんかに行せる金は、うちにはない。それと、万が一落ちたら、お前の言う通り、地元のスーパーにでも就職してもらう。それでも、いいか」


国立。

それは私立の音大よりも遥かに狭き門。

しかし、私に選択肢はなかった。

「…うん…!うん…!ありがとう、お父さん…!」

私は泣きながら何度も頷いた。


その日から私の生活は一変した。

地獄のような、しかし希望に満ちた一年間の戦いが始まった。

学校の授業が終わるチャイムが鳴ると、私は一目散に教室を飛び出す。

クラスメイトたちがカラオケやファミレスでの他愛のないお喋りに興じる、その楽しそうな笑い声を背中で聞きながら、私は一人バスに飛び乗り本土のレッスン室へと向かった。

彼女たちは別の世界の住人。

その圧倒的な孤独感が私を強くした。


響子先生のレッスンは妥協というものを知らなかった。

「違う!喉で歌うな!全身で息を吸って、その身体全部を、共鳴させろ!」

彼女の厳しく正確な指導が、私の十数年かけて作り上げてきた安っぽい「声」を根本から破壊し、再構築していく。

何度も酸欠で頭が眩暈めまいがした。

何度も自分の不甲斐なさに涙がこぼれた。

しかし、その苦しみの先にほんの一瞬だけ、自分が今まで出したこともないような澄んだ「音」が出ることがあった。

その瞬間の快感だけが私を支えていた。


家に帰れば今度は受験勉強が待っている。

国立大学のセンター試験は、音楽以外のすべての教科を要求した。

英語、数学、国語、理科、社会。

もう何年もまともに向き合ってこなかった、それらの分厚い参考書。

深夜、睡魔と戦いながら私は鉛筆を握りしめた。

「こんなんじゃ、先生に、笑われるぞ」

佐藤先輩の厳しい声が頭の中で響く。


唯一の支えは、その佐藤先輩との夜の数分間のメッセージのやり取りだった。

「今日はこれを練習した」

「発声練習はこうやれ」

「国立は甘くないぞ。勉強も怠るな」

彼からの短いアドバイスが、私にとっては神の御言葉みことばだった。


彼は決して私を甘やかさなかった。

その厳しさこそが、私には何よりの愛情表現だった。

彼は私を、対等な音楽の道を目指す「同志」として扱ってくれていたから。

彼が「健太先輩とは違う」と思える、唯一の理由だった。


あっという間に季節は巡った。

制服のスカートの下に、分厚いタイツを履く冬が来た。

センター試験が終わり、二次試験の声楽の試験も終わった。

すべてを出し切った。

もう一滴も残っていない。


私は合格発表を待つ数日間、ただひたすらに眠り続けた。

まるで一年間のすべてをそこで使い果たしてしまったかのように。

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