神様の音色
あの日、佐藤先輩から一枚の名刺を受け取ってから、私のモノクロだった世界にほんの一滴だけ色が落ちた。
それはまだ希望と呼ぶにはあまりにも頼りなく、そして恐怖に満ちた色だったけれど。
学校と家の往復。
教室の隅で息を潜める日々。
その灰色の日常は何も変わらない。
健太先輩に裏切られた心の傷も、もちろん癒えてはいない。
ただ一つだけ違っていたこと。
それは私が制服の胸ポケットに、あの小さな紙切れを「お守り」のように忍ばせていたことだ。
時折、誰もいない廊下でそれにそっと触れる。
「歌うんだよ」
あの下駄箱での彼の低く力強い声が蘇る。
そのたびに私の心の奥底で、死んでいたはずの何かが小さく疼くのを感じた。
春休みが近づいてきた。
私は震える手で、その名刺に書かれていた番号に電話をかけた。
掠れた聞き取りづらい私の声。
電話の向こうの女性は一瞬戸惑ったようだったが、「佐藤くんからお話は伺っていますよ」と穏やかな声でレッスンの日程を組んでくれた。
本土のあの街へ行かなければならない。
母にどう切り出そうか悩んだ。
「春休みに、本土の音楽教室の体験レッスンを受けてみたい」
そう言うと、母は驚いたように目を丸くした。
「音楽…?…奏、あんた、また…」
「今度はクラリネットじゃ、ない。…歌、なの」
私のそのか細い決意を、母はどんな思いで聞いたのだろう。
彼女は何も聞かずに、「わかった。お金のことは心配せんでよか。行っておいで」と私の背中を押してくれた。
春休み。
私は一人列車に乗った。
窓の外を流れていく見慣れた海の景色。
しかし私の心は、あの夏、健太先輩との祭りに向かった時の甘い高揚とは全く違っていた。
これはデートじゃない。
これは戦いだ。
私が私としてもう一度生きるための、最後の戦い。
その始まりの場所へ、私は今向かっているのだ。
本土のターミナル駅は人で溢れ返っていた。
その雑踏の中で彼は立っていた。
佐藤先輩。
私服のコートを羽織った彼は、やはり私の知っている誰よりも大人びて眩しく見えた。
「よお。来たな」
彼はぶっきらぼうにそう言った。
「先生、もう待ってるぞ。行くぞ」
彼が前を歩き出す。
私はその大きな背中を必死に追いかけた。
まるで迷子の子供のように。
教室は古びたビルの一室にあった。
ドアを開けると、防音壁に囲まれた小さな空間に一台のグランドピアノが鎮座していた。
そしてそこに一人の初老の女性が立っていた。
「君が、望月さんね。お待ちしていました」
柔和な笑顔。しかしその目は私のすべてを見透かすように鋭く光っていた。
彼女が佐藤先輩の師事する声楽家だった。
「じゃあ、まずは何か歌ってみてくれる?何でもいいわよ。校歌でも、童謡でも」
先生はピアノの前に座り、私に言った。
佐藤先輩は部屋の隅で腕を組み、黙って私を見ている。
頭が真っ白になった。
歌う?
今ここで?
健太先輩に裏切られて以来、いや、もしかしたらあの文化祭のステージで燃え尽きて以来、私はまともに歌など歌っては
いなかった。
ましてやこんな掠れた醜い声で。
「…あの…私……」
「大丈夫。わかっています。まずはあなたの今の声を聴かせて」
先生の声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがあった。
私は観念した。
震える息を深く吸い込む。
何を歌おうか。
頭に浮かんだのは、幼い頃、祖母がよく歌ってくれたあの子守唄だった。
私は目を閉じた。
「…ねんねん…ころりよ…」
喉から漏れ出たのは、やはりひどい音だった。
掠れて震えて、音程も定まらない。
恥ずかしくて情けなくて、すぐにでも逃げ出したかった。
しかし先生は「やめなさい」とは言わなかった。
それどころか私のその拙い音に、ピアノの和音をそっと寄り添わせ始めた。
私の震える声が、ピアノの豊かな響きに包まれていく。
不思議な感覚だった。
一人ではこんなに頼りない音が、ピアノと一緒になることで確かに「音楽」になっていく。
私は祖母の温もりを思い出しながら、最後まで歌いきった。
歌い終わると部屋には沈黙が落ちた。
私は怖くて目も開けられなかった。
「…ふふ」
先生が小さく笑った。
「ありがとう。…ひどい歌ね」
その言葉に私の心臓は凍りついた。
「でも」
先生は続けた。
「あなたのそのひどい歌、私、嫌いじゃないわ」
「…え…?」
「技術はゼロ。発声も呼吸もめちゃくちゃ。でもあなたのその『声』そのものに、…聴く人の心を惹きつける不思議な『音色』がある。…佐藤くんが嫉妬するのもわかるわ」
先生は立ち上がり、私の喉にそっと触れた。
「大丈夫。あなたの声はまだ死んでない。ただ歌い方を忘れてしまっているだけ。…もう一度ゼロから磨いてみる気はある?」
涙が溢れて止まらなかった。
健太先輩に裏切られたあの絶望とも、下駄箱での佐藤先輩との再会とも違う、温かい涙だった。
私はまだ歌ってもいいんだ。
私のこの声は、まだ価値があるんだ。
私は泣きじゃくりながら、何度も何度も頷いた。
その日、レッスンが終わった帰り道。
「どうだった?」
佐藤先輩が隣を歩きながら尋ねた。
「…ありがとう…ございました…」
「俺に礼を言うな。やるのはお前だ」
彼はそうぶっきらぼうに言った。
私たちは駅前の公園のベンチに並んで腰掛けた。
夕日が街をオレンジ色に染めていく。
「…先生、厳しいぞ。俺も毎日死ぬほどしごかれてる」
「…はい」
「でもお前ならやれる。…お前には俺にもない『それ』があるからな」
彼は空を見上げながら言った。
その横顔があまりにも綺麗で眩しくて、私はまっすぐに見ることができなかった。
この人が私を見つけてくれた。
この人が私の「声」を信じてくれた。
健太先輩が私から奪っていった自己肯定感。
それをこの人は何倍にもして私に与えてくれている。
私の心のコンパスは、今この瞬間、この人だけに向かってその針を定めた。
この人が私の神様だ。
私の新しい太陽だ。
私はこの人のために歌う。
この人に認められるために。
この人の隣に立てる私になるために。
十七歳の春。
私の第二の人生は、恋とは似て非なる、もっと絶対的で盲目的な「信仰」と共に、その幕を開けた。




