原初の光
十六歳の冬は終わらないかのように思えた。
失恋と裏切りが残した心の傷は、瘡蓋になるどころか、冷たい空気の中で生々しい痛みを放ち続けていた。
私は空っぽのまま、十七歳になった。
部活は辞めた。
「受験勉強に集中したいから」
母にはそう嘘をついた。母は何も聞かず、ただ「そう」と寂しそうに頷いただけだった。
音楽室に近づくことさえできなかった。あの場所は私の栄光と絶望のすべてが詰まりすぎていて、息が詰まりそうだったからだ。
学校と家を往復するだけの日々。クラスメイトたちの会話の輪にも入れない。彼女たちがきゃっきゃと盛り上がっている恋愛やおしゃれの話は、もう私とは別世界の言語のようだった。
健太先輩とあのA組の女子生徒の噂話も、とっくに消費し尽くされ、誰も口にしなくなっていた。
私は教室の隅で窓の外を眺めながら、ただ時間が過ぎ去るのを待っていた。
音のない、色のない、世界。
クラリネットのケースは、部屋の隅で固く口を閉ざしたまま、埃を被り始めていた。
もう、あの哀しいレクイエムさえ、吹く気力もなかった。
私にはもう何もない。
そう本気で思っていた。
そんなある日の放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から不意に声をかけられた。
「…望月さん?」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が氷の手で掴まれたかのように止まった。
忘れるはずがない。
私が心の底から憧れ、尊敬し、そして心のどこかでずっと恐れていた、あの声。
クラリネットパートの絶対的なリーダーでありながら、誰よりも美しいテノールの歌声を持っていた人。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのはやはり彼だった。
佐藤先輩。
今はもう制服ではなく、少し大人びた私服のコートを羽織っていた。
都会の空気を纏った彼は、私の記憶の中にいる高校生の彼よりもずっと大きく、眩しく見えた。
「…さとう…せんぱい…?」
掠れた声で、それだけを言うのが精一杯だった。
どうして彼がここに?
彼は春から本土の音楽大学に、それもクラリネットではなく「声楽科」に進んだと聞いていた。
「久しぶり。…いや、本当に、久しぶりだな」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「たまたまこっちに帰省する用事があって。鈴木先生(顧問)に挨拶に行ったら、望月さんの噂、聞いたからさ」
噂。
その言葉に私の血の気が引いた。
ああ、彼も知ってしまったのだ。
私が健太先輩に捨てられた、あの醜聞を。
軽蔑されただろうか。
それとも同情されているのだろうか。
どちらにしても、彼にだけは、知られたくなかった。
この惨めな今の私を。
「…元気、なかったんだってな」
彼は私の目をまっすぐに見つめて言った。
その視線に射抜かれて、私は俯くことしかできなかった。
「…別に…元気、ですよ…」
「嘘つくなよ。部活、辞めたんだって?」
「…受験、ですから…」
「お前が?」
彼は心底意外だというように、少しだけ笑った。
「お前が音楽を辞めて、受験勉強ねぇ。…まあ、それも人生か」
その突き放したような、諦めたような口ぶりに、私の胸がちくりと痛んだ。
「…健太と、色々、あったんだってな」
彼は続けた。
「あいつは馬鹿だよ。…でも、お前も馬鹿だ」
「…!」
「あんな馬鹿な男一人のために、お前が、お前の『声』を捨てること、ないだろうが」
「…え…?」
私の、声?
クラリネットの音、じゃなくて?
「忘れたのか?お前の本当の武器が何か」
彼は私の心の、一番奥を見透かすように言った。
「俺は、お前のクラリネットの音なんて、どうでもよかった」
「…!」
「俺がずっと嫉妬してたのは、お前のその『声』だよ。文化祭の時、聴いたあのソロ。あれは反則だ。技術はまだまだ荒削りだったが、音色そのものが…人の心を鷲掴みにする何かを持っていた」
才能。
私がずっと心の奥底に封印していた、私の原点。
私のすべてが始まった、あの保育園のお遊戯会。
あの小さな自信の種。
「俺は、お前もこっちの道に来るんだと、勝手に思ってたよ。クラリネットなんて器用な真似、しないでさ」
彼は声楽科の学生として、言っていた。
「それなのに、男にフラれたくらいで全部捨てて、受験勉強?…笑わせるなよ」
彼の容赦のない言葉が、私の胸を抉る。
でもそれは、不思議と健太先輩に裏切られた時の痛みとは違った。
それは死んでいたはずの何かが、無理やり叩き起こされるような、熱い痛みだった。
「…だって…もう、私には…」
「ないわけ、ないだろ」
彼は私の言葉を遮った。
「お前が捨てただけだ。お前が持ってる、一番デカい才能から、逃げてるだけだ」
「…」
「…なあ、望月」
彼は初めて、優しい声で言った。
「お前の心の傷がどれだけ深いか、俺にはわからねえよ。でもな、もしお前が本気で、もう一度立ち上がりたいなら…もう一度、『声』で勝負してみる気はないか?」
彼は手を差し伸べてはいなかった。
ただそこに立ち、私に道を示していた。
健太先輩に裏切られた、この汚れた空っぽの私が、まだあの神聖な「歌」を歌ってもいいというのだろうか。
そんな資格が、私にあるというのだろうか。
涙が溢れてきた。
安堵では、ない。
ただ、怖かった。
もう一度期待して、そしてまたすべてを失うことが、死ぬほど怖かった。
でも。
でも、この人は、違った。
彼は私の醜聞も惨めな現実も、すべて知った上で、なお私の「声」だけを信じてくれている。
「才能がある」と、断言してくれた。
「…どうすれば…いいか、わかりません…」
私は泣きじゃくりながら、かろうじてそれだけを言った。
「今、何をどうしたらいいのか…もう、何も…」
「決まってるだろ」
彼は呆れたように、しかしその目には確かな熱を宿して言った。
「歌うんだよ。まずは、そこからだ」
彼はコートのポケットから、一枚の名刺を取り出した。
そこには彼が師事しているという声楽家の名前と、本土にある教室の電話番号が書かれていた。
「俺が口利きしてやる。春休みにでも一度レッスン受けてみろ。…まあ、お前が本気なら、だけどな」
本気。
その言葉が私の頭の中で反響する。
私には、もう、これしかない。
クラリネットも、部活も、恋も、失った。
でも、私には、まだ、「声」が、残っていた。
私はその名刺を、震える手で受け取った。
これが私の心の氷を溶かす、最初の音。
私の本当の第三楽章は、ここから始まるのだ。




