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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
16/50

独りのレクイエム

世界が壊れてもコンクールはやってきた。

あの日からたった三日後。

私はバスに揺られ、決戦のホールに向かっている。

あんなに焦がれていた金賞。

あんなにみんなで泣いて笑って目指したステージ。

それなのに私の心は、真冬の湖面のように静まり返っていた。


バスの窓から見える流れる景色は、すべてが色褪せて見えた。

隣に座る渡辺さんが緊張した面持ちで「…奏、大丈夫?」と声をかけてくれる。

私はただ力なく笑ってみせた。

「大丈夫だよ。緊張、してるだけ」

嘘だった。

緊張さえできなかった。

私の心はあの日あの屋上で死んだのだから。


ステージ袖。

スポットライトの眩しさ。

チューニングの不協和音。

そのすべてが私とは無関係な、遠い世界の出来事のようだった。

「大丈夫」

あの日私を救ってくれた佐藤先輩の手が、私の肩に置かれる。

私は振り返ることも頷くこともできなかった。


ステージに上がり自分の席につく。

客席は満員だった。

その中に高橋さんの姿を見つけた気がした。

みんなの想いを背負って私はここにいる。

なのに。

私は空っぽだった。


指揮者の鈴木先生がタクトを振り上げる。

息を吸う。

しかしその息は胸の浅いところで止まり、身体の奥まで届かない。

音が鳴り響く。

無我夢中で指だけが動いていた。

練習で何度も注意されたパッセージ。

みんなと何度も合わせたハーモニー。

すべてがただの記号の羅列として、私の身体を通り過ぎていく。


私のクラリネットから漏れ出る音は薄っぺらく、何の感情も乗っていなかった。

ただ正しい音程を正しいリズムでなぞっているだけ。

それは音楽ではなかった。

ただの作業だった。

早く終われ。

早くこの地獄から解放してくれ。

そう祈りながら私はこの十二分間を耐え抜いた。


最後の音がホールに響き渡り消える。

割れんばかりの拍手。

しかしその拍手は分厚いガラス壁の向こう側から聞こえてくるようだった。

私は深々と頭を下げる。

仮面を貼り付けた顔で。


結果は銀賞。

去年と同じ銀賞。

ゴールド金賞には届かなかった。

先輩たちが泣き崩れる。

渡辺さんや鈴木さんも悔しそうに唇を噛んでいた。

「ごめん…」

誰かが言った。

私も泣かなければならなかった。

悔しがらなければならなかった。

なのに私の目からは一粒の涙もこぼれなかった。

何の感情も湧いてこないのだ。

ただ「ああ、終わった」という虚無感だけが私を支配していた。


夏休みが終わり二学期が始まった。

私の地獄はここからだった。

学校は噂で持ちきりだった。

「聞いた?パーカッションの伊藤先輩、学校辞めたらしいよ」

「相手のA組の子もだって」

「なんでもできちゃったらしいよ…」

ひそひそと交わされる囁き声。

そのすべてが私には聞こえていた。


そしてその囁き声は、必ず私へと繋がった。

「てことは…望月さん、可哀想…」

「浮気されてたってことだよね…」

「あんなにラブラブだったのに…」


好奇と憐憫。

その二つの視線が毒矢のように私の全身に突き刺さった。

私は「浮気されて、相手に子どもができて、捨てられた、可哀想な後輩」として、腫れ物のように扱われた。

部活の仲間たちも同じだった。

渡辺さんも鈴木さんも高橋さんも私を気遣い、誰もその話題に触れようとはしなかった。

その痛々しいほどの優しさが、逆に私を孤立させた。

私はみんなの輪から弾き出された異物だった。


音楽室はもはや私の居場所ではなかった。

あれほど私を救ってくれた場所が、今は拷問部屋に変わっていた。

どの曲を聴いてもどのメロディーを吹いても、健太先輩との思い出が蘇ってくる。

そして何よりも耐えられなかったのは、部屋の一番奥に並べられたパーカッションの楽器たちだった。

彼が叩いていたティンパニ。

彼が鳴らしていたシンバル。

そのすべてが彼の不在を私に突きつけ、私の傷口を抉った。


私は部活を休みがちになった。

「体調が悪い」

「家の用事で」

そんなありきたりの嘘をつき、学校が終わるとまっすぐ家に逃げ帰った。

部屋に引きこもり誰とも話したくなかった。

食事も喉を通らず、体重は見る見るうちに落ちていった。

母が心配して何度も部屋のドアをノックしたが、私は「大丈夫だから、一人にしておいて」と繰り返すだけだった。


あの春の体育館で、私のすべてだった「声」の未来が、一度、完全に砕け散ったあの日と同じだ。

いや、それ以上の絶望かもしれない。

あの時はまだ音楽という、新しい希望があった。

でも今は、信じていたすべてに裏切られ、心が完全に死んでしまった。

私にはもう何もない。


そんなある日。

部屋の隅で埃をかぶっていた一枚のCDが目に入った。

佐藤先輩が十五歳のあの冬に私に手渡してくれた、クラリネット奏者のアルバム。

「奏の音は人の心を動かす力がある」

そう言ってくれた彼の声を思い出した。

私は何かに導かれるように、そのCDをコンポに入れた。


スピーカーから流れ出してきたのは、深く哀しいクラリネットの独奏曲だった。

技巧的でありながらその音色には、人間の声のような慟哭と痛みが満ちていた。

それはただ美しいだけの音楽ではなかった。

絶望を知っている音だった。


私はその音楽を聴きながら声を上げて泣いた。

あの日屋上で走り出して以来、初めて流す感情の伴った涙だった。

止めどなく溢れてきた。

可哀想な私。

馬鹿な私。

捨てられた私。

すべてが終わってしまった私。


泣きじゃくりながら私は無意識のうちに、自分のクラリネットを手に取っていた。

ケースを開け、冷たい黒檀の管を組み立てる。

リードを震わせ、息を吹き込む。

CDの音に合わせてその哀しいメロディーを必死に追いかけた。

音はかすれ、震え、何度も途切れた。

でも私は吹くのをやめなかった。


音楽は私の痛みを受け止めてくれた。

私の悲しみを代弁してくれた。

そうだ、私はまだ一人じゃなかった。

私にはこのクラリネットがある。


それはもう十五歳の頃のような、明るく澄んだ音色ではなかった。

裏切りと絶望を知ってしまった、暗く重く歪んだ響き。

でもそれは紛れもなく、十六歳の私の魂の音だった。

冬が来て世界が色を失くした頃。

私はたった一人で自分のための葬送曲レクイエムを奏で続けていた。

失われた恋と死んでしまった心に、別れを告げるために。

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