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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
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屋上のアダージョ

携帯の硬質な光が、目の奥を刺す。

「わかった。屋上で」

たった六文字。

そこには弁解も動揺も疑問さえもなかった。

あまりにもあっさりとしたその受諾の言葉は、それ自体がひとつの「答え」だった。

A組の女子。

赤ちゃん。

その悪夢のような単語が真実であることを、彼はこの六文字で認めてしまったのだ。


心臓が冷たい石になったかのように重くなる。

それでも私は行かなければならなかった。

この目で確かめなければ。

この耳で聞かなければ。

そしてこの、どうしようもない怒りと悲しみを、あの人に叩きつけなければ。


楽器をどうやってケースに仕舞ったのか覚えていない。

ただ震える指で、金具を閉めたことだけを覚えている。

音楽室のドアを開け一歩踏み出す。

放課後の騒がしいはずの廊下が、まるで水の中のように静かだった。

生徒たちの笑い声が遠く歪んで聞こえる。

誰も私のことなど見ていない。

誰も私が今、人生の処刑台へ向かっていることなど知りもしない。

私だけが、この平和な日常から、たった今、追放されたのだ。


一歩、また一歩と階段を上るたびに、足に鉛が巻き付いてくるようだった。

三階の渡り廊下。

窓から見えるグラウンドでは、サッカー部が練習をしている。

平和な、昨日までの世界。

たった数時間で、私はあの平和な世界から完全に切り離されてしまった。

あの輪の中にいたはずの自分は、もう、どこにもいない。


屋上へ続く最後の階段。

ここを上りきれば、すべてが終わる。

すべてが、真実になってしまう。

私は一度立ち止まり、深く息を吸った。

泣くな。

泣いて彼に縋るな。

私は被害者だ。

裏切られたのは私だ。

堂々としていればいい。

そう自分に強く言い聞かせた。

なのに、奥歯が、カタカタと、小さく震えているのが、わかった。


錆びた鉄のドアを押し開ける。

キィ、と耳障りな音がした。

生ぬるい夏の夕方の風が、一気に頬を撫でた。

汗ばんだ肌に、その風は、不気味なほど、優しかった。

茜色の空が、皮肉なほど美しく、視界いっぱいに広がっている。


彼は、そこにいた。

フェンスに寄りかかり、一人ぼんやりと遠くの山並みを眺めていた。

私が来たことに気づいているはずなのに、彼は振り返ろうともしなかった。

その背中が、私の知らない誰かの背中に見えた。

私が恋した、あの、少し猫背で、不器用で、優しかった背中じゃない。

私を拒絶する、冷たく、固い、他人の背中だ。


私は彼から数メートル離れた場所で立ち止まった。

何を言えばいいのか。

あれほど頭の中でぐるぐると回っていた怒りの言葉が、いざ本人を前にすると喉の奥に詰まって出てこない。

言いたいことは、山ほどある。

「どうして」

「いつから」

「あの子は誰」

「私のことは何だったの」

言葉が、喉元で、渦を巻いている。


「…全部、本当なの?」


私の喉から絞り出されたのは、我ながら情けないほどか細く掠れた声だった。

問い詰めるというより、何かの間違いであってほしいと祈るような声。

最後の、最後の、望みだった。

「違う」と、「何のことだ?」と、彼が、いつもの、不器用な顔で、笑ってくれること。

その、万に一つの、可能性に、私は、まだ、縋っていた。


彼は何も答えなかった。

その沈黙が、私の最後の望みを無慈悲に打ち砕いていく。

肯定しているのだ。

夕焼けの、赤が、彼の、Tシャツの背中を、まるで、血のように、染めていた。


「どうして…っ」

涙が滲んできた。

ダメだ、泣くなと思うのに、視界が歪む。

「どうして、私に、嘘ついてたの…っ」

「私とのこと…遊びだったの…?」

私の声が、震えているのが、わかる。

情けない。

こんなことを、言いたいんじゃない。


彼はゆっくりと私の方を向いた。

しかしその目は私を映してはいなかった。

彼の、あの、不器用だけど優しかったはずの瞳は、今は虚ろで色を失い、何もかもを諦めているようだった。

それは、すべてが、面倒で、すべてが、どうでもいいと、思っている、死んだ魚の目だった。


そして、小さな、本当に小さな声で言った。


「…ああ」


肯定。


「ごめん」


その蚊の鳴くような、たった一言。

謝罪。

違う。

違う、違う、違う!

私が欲しかったのは、そんな言葉じゃない。

「嘘だ」と言ってほしかった。

「望月だけだ」と言ってほしかった。

せめて、せめて、苦しそうに、弁解してほしかった。

なのに。

この、あまりにも、軽い、「ごめん」は、何だ。

私と、過ごした、あの日々は、この、たった、一言で、片付けられてしまうほど、軽いものだったのか。


その瞬間、私の中で張り詰めていた最後の何かが、ぷつりと切れた。

思考よりも早く、身体が動いていた。


パシン、と乾いた音が夕焼け空に響き渡った。

私の右の手のひらが、ジンと熱かった。

私は彼の頬を、ありったけの力で、平手打ちしていた。


彼を殴ったという事実よりも、殴ってしまったという、その制御のきかない自分自身に驚いていた。

健太先輩は呆然と私を見ていた。

その頬はみるみるうちに赤く腫れ上がっていく。

彼は何も言わなかった。

痛いとも、何するんだとも言わなかった。

ただ無抵抗に、それを受け入れた。


その、何も言わない姿が、私をさらに絶望させた。

ああ、本当なんだ。

すべて、本当だったんだ。

彼はもう私の彼氏じゃない。

私ではない誰かのもので、そして、もう遠いどこかへ行ってしまったのだ。

この平手打ちさえ、彼には、もう、届いていない。


「最低…」

私の口からこぼれたのはそれだけだった。

彼への罵倒であると同時に、こんなことしかできない自分への罵倒でもあった。


私は彼に背を向け走り出した。

屋上のドアにぶつかるように開け、階段を駆け下りる。

涙が後から後から溢れてきて止まらなかった。

前が見えない。

足が、もつれる。

一段、飛ばしに、転がるように、駆け下りる。


裏切り。

嘘。

妊娠。

ごめん。


たった数時間の出来事が、私の世界を木っ端微塵に破壊した。

私の16歳の夏は、たった一言の謝罪と共に、修復不可能なほど砕け散った。

数日後にはコンクールが待っている。

でも、そんなことはもうどうでもよかった。

私の音楽は、もう、終わったのだから。

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