砕け散ったクレッシェンド
夏が来た。再び、あのコンクールの季節が。
じりじりと肌を焼く陽射し、音楽室に満ちる熱気。
私たちは、去年果たせなかった「ゴールド金賞」を目指し、猛練習に明け暮れていた。
しかし、私の心は音楽に集中しきれずにいた。
健太先輩との溝は日を追うごとに深まっていた。
彼はもう、ほとんど部活に顔を出さなくなった。
たまに会ってもその態度はどこかよそよそしく、私の知らない誰かと話しているようだった。
「聞き分けのいい、彼女」の仮面はもう限界だった。
疑う心に蓋をすればするほど圧力は高まり、私の内側ですべてを押し潰そうとしていた。
クラリネットの音色も安定しなかった。
後輩を指導する声も、焦りから時折ヒステリックに上ずった。
「違う!そこ、音程がずれてる!」
私のイライラは、パート全体の空気を重く淀ませていた。
そして、運命の日が訪れた。
それはコンクールを数日後に控えた、蒸し暑い夏の日のことだった。
練習の休憩中、私は冷たい水道水で顔を洗い、火照った頭を冷やしていた。
そこに、クラスの友人が深刻な顔で私に声をかけてきた。
「ねえ、奏…ちょっと、いい?」
校舎裏。
西日に照らされたコンクリートの壁。
鳴り止まない蝉の声が、私の不安を掻き立てる。
彼女は言いにくそうに視線を地面に落としていた。
「あのね…すごく言いにくいんだけど…」
「健太先輩のこと…」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「先輩、A組の子と、付き合ってるって本当…?」
頭が真っ白になった。
何を言われたのか理解するのに数秒かかった。
蝉の声が急に遠くなる。
A組の女子。
あの、私の頭の中で黒い染みになっていた存在。
「うそ…だって、私と…」
「それがね…」
友人は続けた。
彼女の顔が憐れみで歪んで見えた。
「しかも…」
「その子、お腹に赤ちゃんがいるんだって…」
世界から音が消えた。
全身の力が抜けていくのがわかった。
立っているのがやっとだった。
膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになる。
嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
何かの間違いだ。
だって彼は私の彼氏なのに。
あんなに優しかったのに。
あの花火の夜は何だったの?
あのレモンの味は?
私と重ねた肌は何だったの?
赤ちゃん…?
私ではない誰かと?
涙も出なかった。
ただ心臓が、まるで氷の塊で力任せに殴られたかのように冷たく痛んだ。
身体の奥底から酸っぱい何かがこみ上げてくる。
吐き気がした。
「…奏?大丈夫…?」
友人の声が遠い。
私はかろうじて首を振った。
「…大丈夫…何かの間違いだから…」
そう言うのが精一杯だった。
休憩終了のチャイムが鳴る。
地獄への呼び鈴だ。
私は重い鉛の両足を引きずり、音楽室へ戻った。
もう何も考えられなかった。
しかし練習は続く。
席に着きクラリネットを構える。
金属の冷たさが震える指に不快だった。
指揮者の鈴木先生がタクトを振る。
音が鳴り響く。
それは去年、私を絶望から救い出してくれたはずの音楽。
しかし今、私の耳に届くのは意味のないただの騒音だった。
佐藤先輩のあの澄み切ったクラリネットの音色さえ、今は私を嘲笑っているかのように甲高く響く。
自分の番が来る。
息を吸う。
しかし肺がうまく動かない。
リードを震わせる。
私の喉から、楽器から漏れ出たのは音ではなかった。
ただのかすれた空気の漏れる音。
「望月!音が出てないぞ!」
先生の怒声が飛ぶ。
わかっている。
でも、もう私にはわからなかった。
どうやって美しい音を出せばいいのか。
どうして私たちはこんな美しい曲を奏でているのか。
こんなにも世界は醜く汚いのに。
裏切り。嘘。赤ちゃん。
その三つの単語が、呪いのように私の頭の中をぐるぐる回り続ける。
指は楽譜をなぞっている。目は指揮棒を追っている。
でも私の魂はここにはなかった。
隣で吹いている渡辺の息遣いも、後ろでリズムを刻むパーカッションの音も、すべてが私を責め立てているように聞こえた。
(知っているんだろう)
(みんな、私が捨てられたことを知っているんだろう)
(そして何も知らずにヘラヘラと彼を信じていた、滑稽な私を笑っているんだろう)
妄想が現実を侵食していく。
どれくらいそうしていたのだろう。
永遠にも思える合奏が終わり練習終了が告げられた。
「望月、ちょっと残れ」
鈴木先生に呼び止められる。
「お前、今日どうしたんだ。コンクール前だぞ、たるんでるんじゃないのか」
先生の叱責は私の耳を素通りしていった。
「…すみません」
そう、掠れた声で答えるだけで精一杯だった。
誰もいなくなった音楽室。
西日が埃をキラキラと照らしている。
私は自分のロッカーの前にただ立ち尽くしていた。
楽器を片付けなければ。
でも指が動かない。
クラリネットの、あの黒檀の管体が、今はひどく冷たく重く、私を拒絶しているように感じられた。
どうしよう。
これからどうしたらいいんだろう。
このまま家に帰る?
そして明日も、またこの地獄に来るの?
何も知らなかった昨日の私には、もう戻れない。
その時ふと怒りがこみ上げてきた。
悲しみや絶望よりも、もっと熱くどす黒い感情。
どうして私だけがこんな目に。
どうして彼は私にあんな嘘を。
そしてどうして私はこんな練習室の隅で、一人泣きそうになっているんだ。
確かめなければ。
逃げているだけでは何も変わらない。
私はあの人の口から直接真実を聞かなければならない。
そしてこのぐちゃぐちゃになった心をぶつけなければ。
私は衝動的に制服のポケットから携帯を取り出した。
震える指でメール画面を開く。
宛先は健太先輩。
「話がある」
たった五文字。
その五文字を打つだけで、心臓が張り裂けそうだった。
送信ボタンを押す。
もう後戻りはできない。
すぐに着信音が鳴った。
彼からの返信。
「わかった。屋上で」
その短い六文字に、私はこれから起こるであろう、すべての結末を予感していた。




