綻び始めたハーモニー
四月。
音楽室の重い扉が、新しい風を招き入れた。
希望に目を輝かせる新入生や、まだ不安げに俯く新入生。私たちの部にも新しい音が加わる季節が来た。
クラリネットパートにも、中学時代の私を彷彿とさせる、少し緊張気味の可愛い後輩が二人入ってきた。
私は、去年の自分を鮮明に思い出していた。
あの絶望と緊張の中で震える手で開けた、この扉。
その私が、今や彼女たちを導くパートリーダーなのだ。
「望月先輩の音、すごく綺麗です…!」
初めて四人でのパート練習を終えた日。後輩の一人が、頬を上気させながら私にそう言った。
胸が熱くなった。
アンブシュアの作り方やロングトーンの大切さ。教えるという行為は想像以上に難しく、自分の感覚を言葉にして伝えることにはもどかしさがあった。
しかし、その一言で、すべてが報われた気がした。
私はここにいてもいいのだ。
私にはここで、やるべき役割があるのだ。
佐藤先輩が私にしてくれたように。
その充実感が、私という存在の「幹」を、太く、強くしていくのを感じていた。
しかし、その幹が陽の光に向かって懸命に枝を伸ばそうとすればするほど、私のもう半分の「根」は、冷たい闇に蝕まれていった。
私の心のもう半分を占めていた、健太先輩との関係。
その和音は、明らかに軋み始めていた。
「受験勉強が、大変なんだ」
部活に顔を出しても、すぐに帰ってしまう。
メールの返信も、以前よりずっと遅く、素気ないものになった。
「お疲れ様」「頑張って」。
そんな単語が並ぶだけ。
私もそれを信じようとした。
三年生なのだから当たり前のことだ。
寂しいなんて言って、彼の邪魔をしてはいけない。
私は「聞き分けのいい、彼女」でいなければならない。
そう、自分に言い聞かせた。
でも、彼の態度はそれだけでは説明がつかなかった。
たまに廊下ですれ違う。
私が「あ」と声をかけようとする前に、彼はふいと目を逸らす。
部室で二人きりになる瞬間があった。
私がそっと彼の制服の袖に触れようとすると、彼はまるで何かに驚いたかのように、微かに身体を引いた。
その小さな、しかし明確な拒絶の仕草。
それが私の心の柔らかな部分を、じわじわと冷たく凍らせていった。
私に、触れたくないの?
ある日の放課後。
彼が部活に来なかったので、心配になって三年生の教室を覗きに行った。
しかし、彼の姿はもうなかった。
「あれ、伊藤なら、さっきA組の鹿島と、楽しそうに帰ったぞ」
たまたま通りかかった彼のクラスメイトの男子が、悪気なくそう教えてくれた。
A組の、鹿島。
私の知らない名前だった。
その単語が私の鼓膜を通過した瞬間、心臓が氷水で掴まれたように縮み上がった。
全身の血の気が引いていく。
楽しそうに、帰った…?
私にはあんなに疲れた顔しか見せないのに?
私には触れることさえ避けるのに?
他の女の子とは、「楽しそうに」?
黒い嫉妬と不安の渦が、私の頭の中をかき乱した。
どんな子だろう。
可愛いんだろうか。
いつから?
私がパートリーダーだなんて浮かれていた、あの時から?
私とのメールを面倒くさそうに返していたあの時、彼はその子と笑い合っていたの?
その夜、彼から「ごめん、疲れて寝てた」と短いメールが来た。
白々しい、と思った。
その嘘が私を切りつけた。
私は震える指で、「そっか、お疲れ様」とだけ返信するのが精一杯だった。
本当は問い詰めたかった。
A組の鹿島って、誰なの?
私に嘘をついているの?
でも、聞けなかった。
もし本当のことを聞かされてしまったら?
もし「もう、好きじゃない」と、言われてしまったら?
もし「あの子の方が、いい」と、言われてしまったら?
このかろうじて保たれている穏やかな関係が、粉々に壊れてしまうのが怖かった。
私は、気づかないふりをすることを選んだ。
疑う心に無理やり蓋をした。
「聞き分けのいい、彼女」の仮面を貼り付けた。
いつものように「頑張って」と、笑顔の絵文字を送った。
しかし私の指先は、氷のように冷たかった。
私たちの間に響き始めたその不協和音は、もう私の耳を塞いでも、消すことができないほど大きく鳴り響いていた。




