不協和音
文化祭のステージは私を一夜にして校内の有名人にした。
「二年の、あのソロの子」
廊下を歩いていると知らない生徒たちから、そんなふうにひそひそと指を差される。それは決して悪い気はしなかった。むしろ誇らしかった。
健太先輩との関係もあのステージを境に少しだけ変わった。
「奏のあのソロ、マジでやばかった」
彼はそう言って部活の帰り道、前よりも強く私の手を握った。彼のその自慢気な横顔を見ていると、私は世界で一番幸せな女の子になれたような気がした。
しかし、その完璧なハーモニーは長くは続かなかった。
秋が終わりを告げ冬の気配が校舎を包み込む頃、三年生の先輩たちが本格的に受験勉強へとシフトしていったのだ。
あれほど厳しく、そして情熱的に私たちを指導してくれたパートリーダーの佐藤先輩。彼が部活に顔を出す時間もめっきりと減っていった。
音楽室はどこか静かになり、その静けさが私たちの心の緩みを生んだのかもしれない。
健太先輩が引退した三年生のパーカッションの代わりに、新しく入ってきた一年生の女の子に熱心に指導している姿をよく目にするようになった。
「そうじゃなくて、手首の力をもっと抜いて」
そう言って彼女の手を取る。
その何気ない光景が私の心の、一番柔らかい場所を針で刺した。
嫉妬。
初めて自覚する醜い感情だった。
彼は何も悪くない。ただ先輩として後輩に教えているだけ。
頭ではわかっているのに心が勝手にざわめく。
あの笑顔は私だけに、向けてくれるものではなかったのか。
その小さな棘は、ある日の放課後ついに私の言葉になった。
私が同じクラスの男子生徒と教科書の貸し借りのために、笑顔で話しているのを健太先輩が見ていたのだ。
その日の帰り道。
「あいつと何話してたんだよ」
彼の不機嫌そうな低い声。
その問い詰めるような口調に、私の心に溜まっていた黒い澱が一気に溢れ出した。
「別に、ただのクラスメイトだよ!教科書借りてただけ!」
「ふーん。やけに楽しそうだったけどな」
「何それ!健太先輩だってあの一年生の子と楽しそうに話してるじゃない!」
「は?何言ってんの?あれはただ部活の…」
「同じだよ!」
売り言葉に買い言葉。
私たちは初めて互いに感情をぶつけ合った。
それはあまりにも子供っぽく、そしてどうしようもなく惨めな喧嘩だった。
「…もういい。奏なんて知らない」
そう吐き捨てるように言って、彼は私に背を向け先に歩いて行ってしまった。
追いかける勇気は出なかった。
私はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
その日以来、私たちの間には氷のように冷たく気まずい空気が流れるようになった。
部活で顔を合わせても目を合わせようとしない。
一緒に帰ることもなくなった。
あんなにキラキラと輝いて見えた世界が、一瞬にして色を失った。
ぽっかりと心に穴が空いてしまったようだった。
彼との関係がこんなにも脆いものだったなんて。
身体の繋がりだけでは心は繋ぎ止められないのだ。
あの文化祭の喝采がまるで遠い昔の夢のように感じられた。
私は一人で悩みを抱え込んだ。
パートの仲間たちにも相談できるはずがない。
私はただひたすらクラリネットの練習に没頭した。
忘れたかった。あの冷たい背中を。
しかし不思議なことに、楽器を吹けば吹くほど私の心は乱れていった。
今までコントロールできていたはずのあの「色気のある音」が、ささくれ立ち荒れていく。
アンブシュアが安定せず音程も定まらない。
まるで今の私の迷子の心を、そのまま映し出す鏡のようだった。
「どうしたの望月。今の音、すごく苦しそうだよ」
放課後、一人で音楽室に残ってめちゃくちゃな音を出していると、背後から静かな声がした。
振り返るとそこに、久しぶりに見る佐藤先輩が立っていた。
その変わらない優しい眼差しを見た瞬間、私は堪えきれずわっと声を上げて泣き出してしまった。
私は彼にすべてを話した。
健太先輩とのこと。
身体の関係を持ったこと。
そして喧嘩をして、彼がもう私を見てくれないこと。
子供のようにしゃくりあげながら、私は心のすべてを吐き出した。
佐藤先輩は黙って私の話を最後まで聞いてくれた。
そして泣きじゃくる私の肩をぽんと叩いて言った。
「そっか。…ガキだな、お前ら」
そう言ってふっと笑った。
「でもね、望月」
彼の声が真剣な響きを帯びる。
「そういうぐちゃぐちゃな気持ち、全部音楽にしていいんだよ」
「え…?」
「苦しいなら苦しいまま、悲しいなら悲しいまま楽器を吹いてごらん。音楽はな、お前の言葉にならないその感情を全部受け止めてくれる。それができるのがお前の音だろ?」
その言葉は私の心を解き放ってくれた。
そうだ、私は一人じゃない。
私には音楽がある。
私は涙でぐしゃぐしゃのまま、もう一度マウスピースをくわえた。
そしてその日の私のありったけの感情を音に乗せた。
楽譜なんてない。
健太先輩への怒り。
自分への苛立ち。
失うことへの恐怖。
めちゃくちゃなメロディー。
不協和音だらけの耳障りな響き。
でもそれは紛れもなく、15歳の私の魂の叫びだった。
私はその即興の独奏を吹き終えると、息を切らしながら佐藤先輩を見た。
彼は何も言わずにただ静かに頷いていた。
その眼差しが「それでいい」と言ってくれているようだった。




