序章
私の物語は、火山のふもと、内海に面した、小さな町で始まった。
西には、噴煙の記憶も生々しい連山がそびえ、東には、穏やかな海が広がる。潮の香りと、畑の土の匂いが混じり合う、そんな場所。
私は、望月家の長女、奏。
けれど、その音楽的な響きを持つ名前とは裏腹に、私は、光の当たらない、物陰にいる方がずっと心地よい子供だった。
活発な子供たちの輪には、どうしても入れない。遠巻きに眺め、自分もその中にいるかのように、心の中で、会話の相槌を打つ。
そんな私にとって、世界のすべては、祖母の、たか子の背中だった。
農業を営む祖父とは対照的に、よく笑い、よく喋る祖母。
パートで忙しい両親に代わり、昼間の私を見てくれるのは、いつも祖母だった。
その背中に揺られながら見る、畑の緑と、空の青。台所で歌う、少し調子の外れた子守唄。
その背中の温もりと、私を見つめる皺くちゃの笑顔だけが、私がこの世界にいてもいいのだという、唯一の証だった。
「これ、なあに?」
言葉を覚えたての私が、庭先に咲く花の名前を問う。祖母は、土のついた手で、私の頭を撫でた。
「水仙ばい。きれか花ね」と祖母は言い、私の頭を撫でた。「奏も、きれか子にならんばね」
私は、花が綺麗だと言われたことよりも、自分の名前が、その「きれい」という言葉と、微かに結びついた気がして、胸を弾ませた。
その「音」が、私の人生を決定づけたのは、四歳の、お遊戯会だった。
『おおきなかぶ』。
私は、当然、主役のおじいさんや、可愛い動物たちの役には選ばれない。そんな勇気も、華も、私にはない。
先生が、私に与えたのは、ナレーターの役だった。
本番の日。町の公民館の、古びた体育館。
幕の陰に隠れ、私は、一台の、背の高いマイクの前に立った。マイクの金属部分が、ひんやりと冷たい。
客席には、祖父母と、両親の姿が見えた。
ライトが、舞台上の友人たちを、白く照らし出す。体育館が、シーンと静まり返った。
私は、練習した通りに、大きく、息を吸った。
「むかし、むかし、あるところに…」
その瞬間、世界が変わった。
私の声が、私の身体から離れ、スピーカーを通して、体育館の隅々にまで響き渡っていく。
それは、魔法のようだった。
ライトを浴びる主役たちよりも、この、暗い幕の陰にいる自分の方が、ずっと、ずっと、強い力を持っている気がした。
私が、言葉を紡ぐなければ、物語は、始まらないのだ。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
その掛け声の合間に、私は、物語のすべてを、支配していた。
劇が終わり、拍手の中で、母が駆け寄ってきた。
「奏、上手だったよ。声、すごく聞きやすかった」
そして、祖母が、私の頭を、いつものように、土の匂いがする手で、力強く撫でてくれた。
「やっぱり、うちの奏は、アナウンサーさんみたいに、きれかな声ばい」
アナウンサー。
その言葉が、私の心に、深く、深く、刻み込まれた。
私の、この「声」は、何か、特別なものなのかもしれない。
その日を境に、私の世界は、「声」を中心に、回り始めた。
小学校に上がると、その確信は、さらに、強固なものになった。
国語の時間の「音読」。
自分の番が、待ち遠しくて、たまらない。立ち上がり、教科書に目を落とす。一瞬、息を吸い、そして、最も「きれい」だと思う声で、物語を紡ぎ出す。
教室が一瞬、静まり、クラスメイトたちの視線が、私に集まる。
先生が、「望月さん、とても上手ね」と、微笑む。
その、快感が、私のすべてだった。
走るのが速いわけじゃない。勉強ができるわけでもない。
でも、私には「声」がある。
それは、他の誰にも真似できない、私だけの「武器」だった。
私は、お昼の放送委員に、迷わず立候補した。
放送室の、少し埃っぽい匂い。赤い「ON AIR」のランプが灯る瞬間の、心臓が跳ね上がるような、高揚感。
私の声が、スピーカーを通して、校舎中に響き渡る。
運動場で遊んでいる下級生も、職員室で休憩している先生も、今、この瞬間、私の「声」を聞いている。
その時だけは、私は、内気な望月奏ではなく、この学校を、支配する、特別な「誰か」になれた。
しかし、光が、強くなれば、影もまた、濃くなる。
中学に上がり、その現実に、私は、初めて、直面した。
「望月さんってさ、」
教室の隅、女子生徒たちが、ひそひそと、笑いながら、私に聞こえるように、囁いた。
「声だけだよね」
胸が、氷のナイフで、抉られたように、痛んだ。
違う。そんなことはない。
そう、叫びたかった。けれど、内気な私に、そんな勇気があるはずもない。
私は、聞こえないふりをして、その場を、やり過ごすしかなかった。
その悪意は、しかし、私を、挫けさせはしなかった。
むしろ、逆だった。
私は、その「声」に、さらに、強く、固執するようになった。
そうよ、私には「声」しかない。
だったら、その「声」を、誰にも、文句を言わせないくらい、完璧に、磨き上げてやる。
勉強も、運動も、容姿も、何もかもが、平凡。
クラスメイトたちが、初めての化粧品の話や、隣のクラスの男子の話で、頬を染めている時、私は、その輪に入ることができない。何を話せばいいのか、わからない。
彼女たちが、私には、持っていない「何か」で、キラキラと輝いて見える。
その疎外感が、私を、焦らせた。
私から、この「声」を取ってしまったら、何が残る?
本当に、空っぽの、価値のない、私だけだ。
「声」は、私の、唯一の「武器」であると同時に、他のすべてから目を逸らすための、最後の「砦」になっていた。
だから、高校では、この「声」を、単なる「放送」ではなく、もっと、完璧な「芸術」に、昇華させたかった。
私の、この声帯で、音楽を、奏でたい。
合唱部、あるいは、声楽部。
そこで、私は、本当の私になるのだ。
私の、未来の設計図は、その、輝かしい「声」を、中心にして、完璧に、描かれていた。
そう、あの春までは。




