アーマードベア
アーマードベアは数十メートルほど先にいる。だが、熊は時速5〜60キロで走るという。マコト達との距離など、無いようなものだ。
(し、死んだフリ?い、いやそれは逆効果らしいよな!?逃げる?無理だ!どうするんだこれ!)
半ば助けを求めるような気持ちを抱いて、マコトはミレイへと視線を向けた。だが……。
「ど、どうしよう、どうしよう……!」
ミレイもまた恐怖に怯え、身体を震わせていた。それは当たり前だろう。なにか不思議な技を使うからと言っても、彼女は戦うことに慣れているようにも見えない、普通の女の子だ。
その時マコトは、この身体の持ち主である元のマコトがなぜ死にかけたのかを、直感的に悟った。
(守らなきゃ)
不思議な感覚だが、元のマコトもそう思ったのだろうと確信できる。そうして、この怪物に相対したのだろう。それで……そこからが分からない。
アーマードベアはこちらを見据えて離さない。じり、じり、と距離を詰めてきている。このまま何もせずに生きていられることはないだろう。
やるかやらないかではなく、できるかできないか。それが重要な局面となっていた。
マコトは決心する。先ほど所持品を確認したところ、武器は持ち合わせていなかった。
だからゆっくりと構えをとる。脇を締め、手は胸の高さ、拳を軽く握り込む。脚は肩幅に開き、膝は少し曲げてすぐ動けるよう余裕を持たせ、足は前重心。何千回と取った構えだが、その先に熊が居るのは初めてだ。
「ミレイ!後ずさりで距離をとって!逃げる素振りが見えたら瞬時に襲いかかってくるから、ゆっくりと!」
「え、そんな……!マコトさんは!?」
「このままじゃ両方死ぬ!俺が時間を稼ぐから!」
「無茶ですよ!記憶もないし、さっきも……!」
「早くして!」
マコトはがなるように全力で叫ぶ。ミレイへの伝達と、アーマードベアへの威圧、両方の意味を込めて。それによってミレイが十分に距離を取れる時間が生まれるかは、そうであれと期待するしかない。
アーマードベアの挙動に神経を尖らせながらも、マコトは考える。間違いなく、無為無策でなんとかなる相手ではない。人間と熊では強さの質が違う。
だがマコトには一つ思い当たることがあった。なんにせよ、アーマードベアを一度退けることに成功しているということだ。ミレイは今、さっきもと言った。予想通り、元のマコトはミレイを守るために動き、そして追い払えるくらいの有効打は与えたはずだということ。
しかし、人間の徒手空拳で熊が一時的にでも逃げ出す程のダメージなんて与えられはしない。その矛盾がどう解決されたのか。マコトは更に思考を巡らせる。
(こうまで大きさが違いすぎると、たとえナイフで刺したとしても、あのクマにとっては蜂に刺された程度のものだろう。大きい生物はだいたいそれに比例して皮膚も分厚い)
接敵の瞬間は、刻一刻と近づいていく。
(弱点を叩いたか?いや、それもないだろう。攻撃の有効射程が違いすぎる。目だとか股間だとか、そんな所は狙えない)
いくら考えても矛盾の解消には辿り着かない。マコトの常識の中に答えがあるようには思えなかった。
(駄目だ、分からない……!)
間に合わないかもしれないという恐怖と緊張がマコトにのしかかり、思考がブレていく。
(ここで……死ぬのか。最悪の場合でもミレイが逃げられるくらいの時間は稼がないといけないけれど、……それすら自信がないな。でも、ミレイに生かしてもらった命だ。やるだけは、やらない、と……)
その時マコトの脳裏に閃いたものは、先ほどのミレイの姿、正確に言うと行動だ。
アーマードベアが襲いかかってくるまで、後十秒もないだろうという位置まで迫る。急いで確かめなければならないと、マコトはまたも叫んだ。
「ミレイっ! さっき使ってた技ってどういう原理なんだ!?」
「え、あっと……!体内にある魔力を、強いイメージで操作するんです!」
ミレイがそう言い終わった直後、アーマードベアは爆発したようにマコトに飛びかかる。巨体を支える頑強な筋肉は驚くほどの俊敏さを生み出す。
その勢いのまま、アーマードベアの太い右の前足がマコトがいた場所をえぐり取り、激しい土埃を舞い上がらせる。……視界はすぐに晴れたが、そこにはもうマコトの姿はない。
動物の攻撃と言うのは基本的には直線的だ。動作の起こりを見逃さなければ回避自体は不可能ではない。
もちろん、尋常ではない動体視力と身体能力が必要という前提の話にはなるが。
今の攻撃は、後ろ脚での地面の蹴り上げによる飛び込みとほぼ同時に、右前脚を振り上げる動作が感じ取れた。そのためマコトは、空いた右脇からすり抜ける形になるよう身をかがめて左前方に飛び込んで転がりながら回避した。
この方向への回避が成功すれば、少なくとも次の攻撃へは向き直りを挟むため、ワンテンポ遅れる。結果、連続攻撃を防げるというわけだ。
とはいえ、動物の瞬発力と力強さは桁違いだ。その程度では、一瞬の余裕しか作れない。マコトも油断せずにすぐさま距離を離す。
次の瞬間、アーマードベアはマコトがいた場所を左の前足で薙ぎ払いながら向き直り、臨戦態勢を取り戻していた。
(こんなもの、いつまでも避けきれるものじゃない)
またもにらみ合いが始まる。その僅かな時間にマコトは考えをまとめる。
(魔力が何かはわからんが、それを強いイメージでもって操作する。……なんだか気に似ているな)
……気とはなにか。
気などというものは、科学的根拠のない胡散臭いものだと捉える者もいるだろう。
しかし、気は実在する。代表的なのは合気道だろう。
相手の気に自分の気を合わせることで向かう先を誘導する。そうして姿勢を崩し関節を取って制圧する、と言った具合だ。
もちろんこれが合気道の全てでは断じてないが、要するに気とは力の流れである。では力の流れとはなにか。
科学はそれを、運動エネルギーと名付けた。
生き物が生み出す運動エネルギーを、科学がそう名付けるずっと前から、戦う者たちは気と呼称していたのだ。
武道の技というものには一つ一つの動作に意味がある。その動作全てに運動エネルギー、つまり気は発生する。常に気を意識することは、武道の練習には欠かせない。
つまりマコトにとって、自分の体内で生まれるエネルギーを意識して操作することは、誰よりも慣れている事である。
(……見つけた!この力だ!)
マコトが体内に存在するであろう力に意識を向けると、その力は敏感な反応を見せる。マコトはこの力を感じ取った瞬間に、これなら自在に操れるという確信を得た。
(後は、タイミングだ。この力をぶち当てるタイミング)
まさに一触即発の間合いで睨み合う両者の間に声が響く。
「今度は私もやります!マコトさん!合わせてください!」
マコトはアーマードベアから目は離せる状況ではないため視認はできなかったが、ミレイが何を狙っているのかは想像がついた。
「いつでも行ける!」
「行きます!マジックエッジ!」
ミレイの声と同時にマコトは踏み出す。当然アーマードベアは迎え撃とうとして……、バチンッと、ミレイが放ったマジックエッジが後ろ脚に当たった。
予期せぬ痛みに、アーマードベアの動きが一瞬怯む。その隙を見逃すマコトではなかった。
「せいやぁあっ!」
マコトは、右拳に魔力を込めた正拳突きを放つ。狙いは鼻先。
しかし、アーマードベアは素早い身じろぎで狙いを逸らし、左肩でその拳を受け止めた。そして、素早く身を翻しマコトから離れる。
マコトも油断はせず、残心でもって体勢を立て直す。しかし、その表情には苦悶の色が浮かんでいた。
「……ぐっ、反則だろそれ……」
そう呟いたマコトの拳は、流血に塗れていた。マコトは、アーマードベアという名前の由来を思い知る。
ただでさえ厚い皮膚の上に、あまりに硬い体毛が鎧のように全身を包んでいるのだ。それを拳で殴るというのがどういうことか。
それは言ってみれば剣山に拳を叩きつけるようなもの。凄まじい痛みがマコトの右拳を襲っていた。
「ハリネズミならぬ、ハリグマってか?……だが」
……しかしマコトにも手応えはあった。
距離を取ったアーマードベアは左肩を庇う素振りを見せており、ダメージが通っているのは明らかであった。
「名前からして硬そうだもんな。内側まで、通させてもらったぞ」
一口に打撃といっても、様々な打ち方がある。その中に、発した力を相手の外装を超えて身体の内側まで響かせる技法も存在している。
魔力によって増強された突きの破壊力が、アーマードベアの鎧を貫いたのだ。
(ダメージは与えられた。あとは、これで逃げ出してくれれば、それが一番良いんだが……)
アーマードベアの様子をうかがう。ひどく興奮しているようで息も荒く、しきりに身を捩らせ呻いている。なにか逡巡しているようであったが……。
「グオオオオ!」
アーマードベアは一際大きく鳴いた。そしてその鼻先をミレイの方へと向け、即座に動き出す。
「っ、しまった!」
戦いにおいては弱いものから狙うのが常道だ。数とはそれほどの優位である。アーマードベアがそれを知っているかはともかく、その大きな身体で木々をなぎ倒し、まっすぐミレイへ突進する。
「ま、マジックウォール!」
ミレイは急ぎ壁を作り出す。そこへ、勢いのままアーマードベアが突っ込んだ。凄まじい衝突音が周囲に響く。その一瞬で砕けなかったことを褒めるべきであろうが……長くは耐えられない。ミレイが生み出した半透明の壁は、軋み、ひび割れ、……そして砕けた。
その衝撃によってミレイは吹き飛ばされ、木の幹に叩きつけられた。そして、その体は力なく崩れ落ちる。
アーマードベアはすぐさま追撃に入ろうと腕を振り上げる、が……そこにマコトが飛び込んだ。
「お前の相手は、俺だろうがっ!」
マコトの強烈な回し蹴りがアーマードベアの右脇腹へと刺さる。アーマードベアは大きくのけぞり、悲鳴にも聞こえる咆哮を上げる。
マコトは、アーマードベアがミレイに突進した際すぐに走り出していた。だが、人間の足で熊には追いつけない。
(でも……今の俺には手段がある)
強くイメージする。相撲取りの立ち合いは1トンもの衝撃があると言う。その力は巨大な肉体を弾丸のように打ち出す、頑強な筋肉による瞬発力が生み出す。同様に熊があの速度で動くのも結局は筋肉量だ。瞬間的に速く動く為には、とにかく強い筋肉が大きくあれば良い。故に行うべきは、魔力によって筋肉を形作るイメージだ。
そうしてマコトが行う地面の一蹴りは、野生動物のそれへと変貌した。
そのままマコトはアーマードベアへと肉薄し、ミレイに意識を向けたままの無防備な脇腹を思いきり蹴り飛ばしたのだ。
馬の蹴り、シャコのパンチ。野性にはとんでもないパワーが秘められている。いくら鎧で体を囲ってもその力を無くせるわけではない。マコトの回し蹴りはアーマードベアを穿ち、骨にまでも響かせた。
……だが、力には反作用というものがある。その蹴りの威力が強ければ強いほどマコトをも壊してしまう。更にはアーマードベアの鎧もある。マコトの脚は、最早使い物にならない状態であった。
「ぐうああああ!!!」
意識が飛びそうな程の痛み。マコトには叫び声が止められない。だが、それでもまだ終わっていない。
「ぐう、ぐううっ!ギ、ギ、ギ」
歯を食いしばり、無理やり痛みから気を逸らす。ブレる視界の中、まずはミレイを確認する。パッと見ただけでは分からないが、血は出ていないようだ。マジックウォールが勢いをだいぶ削いでいたのだろうが……、気を失っているだけだと思いたい。
続けて、アーマードベアを確認する。蹴りの感触からして、相当なダメージを負っているはずだとマコトは確信している。それでもなお、逃げる素振りは見せていなかった。
(最期まで、ってことかよ)
ミレイが動けない以上、マコトも引けない。互いに満身創痍のこの状況、決着のときは近づいていた。
(この脚じゃあ魔力で補助しても、もって一動作)
魔力で支えて無理やり立たせているが、少し動かせば気を失いそうな痛みが襲う。まともに動けない今、攻撃を躱されてしまえば次はない。ならば何を狙うか。確実に攻撃を当てなければならないとするなら、相手の隙に差し込むのが一番だ。
(つまりカウンター!)
しかし、アーマードベアも迂闊には動かない。自身の体が限界に近いことは悟っているのだろうし、マコトがギリギリの状態なのも理解しているのだろう。だから、マコトの気が緩むのを待っている。
この極限状態の中で、死を覚悟する時間が互いに与えられていた。
(……なんだろう、この感覚は)
だがマコトはそんな事を考えてはいなかった。
巨大な熊という恐怖の象徴が目の前にいる。死が目前に迫っている。痛みは全身を駆け回っており、叫びながら地面を転がりまわるのを必死に我慢している。
そんな状態だと言うのに、マコトは不思議な高揚感を覚えてもいた。
(報われている。俺の十年以上の鍛錬が)
未だに原理の分からないこの世界の理を利用しているとは言え、マコトの技はこんなに巨大な熊にさえ通用している。まるで漫画のような話だ。マコトにとってはそれが、ただ嬉しかった。
だからこそ、負けで終わらせるわけには行かない。自分自身に最後まで報いるために。
……そして、その時は来る。
アーマードベアは意を決したように、マコトに飛びかかる。右の脇腹と左の肩にダメージが与えられているため、腕はもう使わない。その巨大な質量でもって正面からぶちかまし、ちっぽけな体を吹き飛ばせばそれで終わりだ。アーマードベアはその命を燃やしてマコトへと突進する。
そんな光景を目の当たりにしても、マコトの心は乱れない。ただ拳を打つことに集中している。狙うは一点だ。
頭部で最も硬い部位、それは額だ。逆に言うと他の部位は非常に脆い。つまり、四足歩行の動物が力任せに突進する場合、自ずと額を差し出すことになる。
マコトはそこを狙うつもりだ。もちろん、額は弱点でも何でもない。それでも打つのだ。
マコトの拳は鍛錬の中で何度も傷つき、その度に硬く、強くなっていった。つまりはマコトの努力が目に見える形で現れた、いわば象徴だった。
不思議なことだがこの身体はマコトに良く馴染む。ふと目を落とせば、その拳は見慣れた前の身体と見紛うほどだ。だから、ここが己の身体の最も強い場所だと信じられる。
互いに命をかけたこの状況だ。真っ向勝負でぶつかり合うことで命の強さの証明をする。それこそが真の決着なのだ。
マコトは深く腰を落とし丹田へ力を込めて、アーマードベアを迎え撃つ。刹那、アーマードベアが衝突に備え頭を下げた瞬間を見逃さず、マコトはその拳を叩き込んだ。
爆発的な力がその一点に集約し、その余波によって周囲の木々は大きくしなる。
衝突したマコトの腕はズタズタに引き裂かれそこから大量の血が迸る。……だが、止めた。アーマードベアとの正面衝突に、マコトは一歩も下がることはなかった。
力には反作用というものがある。アーマードベアの突進は木々をなぎ倒すほどの強烈なパワーを持つ。それが無理矢理に止められたということはどういうことか。
衝突部位である額から、アーマードベア自体のパワーにマコトの魔力の込められた正拳突きのパワーが重なって、アーマードベアに襲い掛かることになるのだ。
アーマードベアはあまりの衝撃にほぼ意識を失わせながら、反動によって立ち上がる形となる。そうすると必然的に、腹を曝け出す。そこは大抵の動物にとって弱点であり、アーマードベアですらもその例外ではなかった。
「俺の全部、持っていけ……!」
マコトも全身の感覚が希薄であったが、強い意志のみがマコトを支えていた。
マコトは強いイメージでもう一度右拳に魔力を集中させる。まだ荒削り故か、あるいはマコトが限界ギリギリだからか、操りきれない魔力が身体から溢れている。しかし偶然か、無秩序に放出されたはずのそれは……
……恐ろしい鬼を形どっていた。
「ぜぇやああああ!!!!」
放たれた拳はアーマードベアの腹にめり込む。拳に乗せた魔力は体内で爆発するように暴れまわり、アーマードベアは一際大きな叫び声をあげた。
……それが、アーマードベアの断末魔となった。その巨体は力なくゆっくりと倒れ込み、地響きとともに地面に沈んだ。
マコトはアーマードベアが動かないのを確認すると、ゆっくりと姿勢を正し息を整える。
礼に始まり、礼に終わるのが武道だ。戦いが終わったのなら、挨拶をする。相手の為でもあるし、自らを律する為でもある。
そのため、例えここが異世界で、相手が化け物じみた熊であろうが、マコトは変わらずに挨拶を行う。
身体はまともに動きはしないが、せめて大きな声で。
強敵であったアーマードベアへ礼を尽くすため。
「押忍!」
その声は静寂を取り戻した森に、響き渡った。