プロローグ
澄星誠は悩んでいた。
放課後、習い事である空手の道場へ向かう途中だ。ジャージ姿で帯で縛った胴着を肩で背負っている。垂れ気味の目と眉をしかめ、高校二年生にしては色気もないさっぱりとした短髪を撫でつけながら、思案にふけっていた。
誠の父は武道家である。今向かっている道場の師範だ。背丈は普通だがその身体はとにかく分厚く、見た目の圧は強い。だが、その大きな掌でまだ幼い頃の誠の頭を撫でてくれた体験が、誠の心に印象深く残っている。誠にとって父は強く優しい理想の人物であり、子供心にその背中を目指す決心が芽生えるのは至極当然の流れだったと言えるだろう。
誠は武道家の息子ということで、幼い頃から空手やら柔道やら武道の一通りを学ばされていた。血は争えないというべきか、あるいは父への憧れも手伝ってか、幸いにして厳しいといえる練習も楽しみながら取り組めた。
誠は年を重ねるごとにどんどんと強くなり、現在では実力だけなら父をも超えているほどだ。そんな環境の中、誠の段位が上がったり大会で勝つたびに父が何度も繰り返した言葉が、これだ。
「いいか、誠。武道とは、自らを鍛えるために修練を重ねる取り組みだ。お前が学んだ技の数々でもって、人を傷つけてはならない。力とは、振りかざす為にあるのではないのだ」
もちろん誠にしても、むやみに人を傷つけたいなどとは露ほども思っていない。むしろ人を助けたいと思う善良な精神性を育んでいる。だがどうしても、武技というものの存在意義を考えてしまう。自分自身、十年以上向き合ってきた武道、その技。
人を傷つけてはいけないのに、人を傷つける技を学ぶ。
その矛盾に答えが見つけられないばかりか、学んだ技を使ってみたいという好奇心まで湧いてくる。
現代において、博物館に展示される甲冑だの刀だのが実際に使われることがないように、武技も今となっては文化保持以上の意味などそうそう持たせられない。そんな時代ではないということを、当然頭では分かっている。
それでも子供のころからずっと練習し続けている技を、これまでも、そしてこれからも、本当の意味で振るう機会が訪れないのだろうと考えると、迷いを覚えるのだ。
その迷いは練習にも影響を与えていた。心ここにあらずであることを父に見抜かれ、最近は練習に参加させて貰えず筋トレばかりしている。
(……俺の悩みを聞いたら、父さんはなんて言うんだろう)
怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。恥ずかしい奴だと嘆くかもしれない。実際のところ、誠の父はそのように感情的になることはあまりない。だが不安のあまり、想像は悪い方向へ膨らむ。
この心の弱さは誠も自覚している。表面的な実力に、心は全く追い付いていない。だからこそ、誠はこんなにも頭を悩ませているのだ。
ふぅ、とため息をつく。……ふと前を見ると目の前の横断歩道は赤信号だった。こちらに走ってくる車の影も見える。
「ととっ、危ない……」
踏み出しかけていた足を止め、後ろに下がる。考え事で周辺把握をおろそかにするとは、と情けなさでまたもため息が出そうになる。
……そんな誠の横を、誰かが通り過ぎた。
「……えっ?」
学生服に身を包んだ女の子だ。ふらふらとした足取りで車道へと歩み出て、そこに車が走って……
「っ、ダメだっ!」
誠の身体は考える前に飛び出していた。一足で飛び込んで、女の子を突き飛ばす。その瞬間にはもう、自身が回避するには絶望的な時間しか残されていなかった。
刹那、甲高いブレーキ音の中、感じたことのない強い衝撃が誠の身体を吹き飛ばし、硬い地面に全身が叩きつけられる。
(こりゃ……、受け身どころじゃないな……)
自分がどうなっているのかも分からないまま、誠の意識は薄れていく。……誠は、誰かが自分の顔を覗き込んでいることに気づいた。視界もぼやけてはっきりとは見えないが、さっきの女の子だろうか、と思う。
(無事でよかった)
そう伝えたかったが、誠の口はもう動かない。そうして、誠の意識は深い闇の底へと落ちていくのだった。