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ラフィアの翼【改訂版】  作者: 蒼井七海
Ⅳ 白雪の約束
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第三章 白雪の約束(9)

 彼女は空のような人だった。

 夫とやり取りしているときは軽やかにものを言う彼女だが、彼に対して話しかけるときは柔らかな口調と笑顔を見せてくる。

 最初、彼は彼女に亡き妻の姿を重ねていた。だが、彼女は、常に快活な妻とは少し違うようだ。

 それが彼には不思議だった。やがてその姿を、今度は空と重ねるようになった。

 日によって異なる顔を見せる。それでいて、いつもすぐそばに広がっている。移ろいつつ、しかし主張せず、ただ静かにそこで佇む。

 その彼女が、自分たちに牙を剥く姿を、彼はどうしても想像できなかった。――今、この瞬間までは。



     ※



「リーシェル!」

 叫ぶと同時、ヴィントは駆け出した。眼前の光景を、しっかりと認めないままに。

 彼がいつも通り冷淡であったなら、ディオルグが同じようにうろたえたことに違和感を覚えただろう。剣を握る女性の手が震えていることに、気がついただろう。しかし、今の彼は「いつも」の状態からはかけ離れていた。ゆえに、事実と最悪の未来しか、見えていなかった。

 言葉を叫ぶ。彼の声だ。だが、彼自身は己の言葉をまともに聞いていなかった。

 リーシェルが目をみはる。その肩は大きく震えたが、剣が止まることはなかった。

 ヴィントは、無意識のうちに右手を動かす。構成式は音もなく組み立てられ、リーシェルの剣が防壁に触れる直前で――弾けた。

 構成式はほどけて光となり、光は急速に集って刃を生んだ。幅広の短剣ほどもある刃は()()()()()()()()()飛ぶ。

 白い視界。無我夢中で手を振る。安定しない視界の中、ひどく驚いたような相手の顔。それは間もなく、不自然に硬直した。

 音が響く。腹の底に響くような、あるいは臓腑をえぐるような、低い音が。ヴィントは音の正体をすぐには認識できなかった。あるいは、認めたくなかったのかもしれない。自分で放った刃が、女性の体を貫いたのだ、という現実を。

 白雪の中に、いくつもの赤い染みができる。それが広がるより前に、リーシェルの体はゆっくりと倒れた。骸が雪に落ちる音は、風のうなりにあっさりとかき消される。

 ヴィントはそれをただ見ていた。人の死を見下ろす瞳には、なんの感情も宿っていなかった。雪の上に鮮やかな栗色の髪が広がっているのも、彼女の手から滑り落ちた剣が雪に埋もれるのも、他人事のように観察した。

 足音を聞く。そのときになって、やっとヴィントは眉を動かした。静かに振り返る。敵の姿を目に映す。そして、指先に魔力をまとわせた。

 男が立っている。剣をだらりと下げた格好で。その表情がよくわからないのは、両目から感情が読み取れないのは、雪だけのせいではないだろう。

「……ヴィント」

「俺を恨むか、ディオルグ」

 重苦しい声が名を呼んだ。それに対して、ヴィントは問いを返した。挑発したわけではない。ただの確認だった。

 ディオルグの方も、男の声色からそれを察したのだろう。酷薄な笑みを口もとに刷いた。

「いいや、恨まない。怒りや悲しみが全くないと言えば嘘になるが、それをあんたにぶつける権利は、俺にはない。……これは、ただの因果だ」

 ディオルグは笑みを深めた。だが、そこに伴う感情はやはり希薄だ。

「そうか」

 ヴィントもそれだけを答えた。舌に乗せたのは、ただの言葉だ。

 一瞬の、真っ白い沈黙。

 それが風雪とともに吹き抜けた後、両者ともが勢いよく踏み出した。

 気合の声とともに、剣が速く重く振りかざされる。真冬の空気が熱されるほどの剣戟を、ヴィントは魔導術の剣で受け止めた。とっさの判断であった。

 耳障りな高音が耳朶を打つ。銀と白の刃の間に、激しく火花が散った。

 ヴィントは歯を食いしばる。攻撃を受けたことを激しく後悔した。

 しばしの拮抗。そののち、剣が互いを弾きあう。ヴィントは素早く跳躍して距離を稼いだが、ディオルグはすぐにを詰めてきた。魔導の剣を変質させている余裕もない。

 思わず舌打ちをこぼしたヴィントは、もう一方の手で眼前に薄い防壁を作り出す。振り下ろされた剣が防壁を砕いた、その間に、ヴィントは相手の死角へ回り込んだ。魔導の剣を打ち消す。魔力の光は、すぐに雪の中へとまぎれた。

 剣と魔導術の応酬はその後も続く。炎を剣が切り裂き、剣を風の弾丸が鈍らせる。彼らの戦意が交わるたびに、雪が溶け、砕け、空気が震える。

 時間の感覚などなかった。ほんの数分の出来事だったようにも、一晩中戦っているようにも感じる。同じ時を延々と回っているのではないか、と錯覚しそうですらあった。ヴィントは、己の魔力と精神力がすり減っていく感覚で、その錯覚を否定していた。

 雪の隙間に魔力が入りこみ、構成式が命令を与える。雪がぼこっと音を立てて盛り上がり、上へ上へと立ち上がった。現れた雪の柱は、まわりの雪も巻き込んで、うねりながら天へと昇る。その有様は、さながら東の龍であった。

 雪の龍は柔軟性と勢いを得ると、上方からディオルグめがけて飛びかかる。さすがに息をのんだ彼は、大きく飛びのいて一撃をかわす。飛び散る雪と泥をものともせず、彼は雪の龍の半ばをめがけて剣戟を叩きつけた。龍はもろく崩れ去る。あちらこちらに天然の白い爆弾が降り注ぎ、周囲はたちまち雪煙に覆われた。

 それまで身構え、黙していたヴィントは、雪龍せつりゅう崩壊とともに駆け出した。立ち込める雪煙の中を突っ切り、右手にかりそめの剣を生み出す。一方のディオルグも、彼の気配に気づいてすぐさま構えた。

 どちらもが、相手に刃を向けて、地を蹴る。先に動いたのは、ディオルグの方だった。雪煙を切り払った長剣は、まっすぐヴィントへ迫る。ヴィントは、それを避けることも、受けることもしなかった。刃は肩を切り裂き、わずかにえぐる。灰と白ばかりの世界に、鮮やかな赤が舞った。

 ヴィントは声を振り絞る。焼けるような痛みを感じても、血の喪失に気づいても、一切歩調を緩めなかった。瞠目しているディオルグの、がら空きになった脇に、白い剣を突き込んだ。

 重く不快な手ごたえ。それと同時に、膨大な魔力が自分の中から出ていくのをヴィントは感じた。

 聞いたことのない声がする。大量の血が足もとを染める。ヴィントの上に影が差した。彼は己の剣を砕いて、後退した。

『彼』の体が、半ばから折れた木のように倒れてくる。そして沈黙するまでを、ヴィントはやはり、黙って見ていた。

 彼はわずかに身じろぎした。だが、再び立ち上がることはなかった。ヴィントは足を進めた。彼のかたわらで、止める。

 血に塗れた体を見る。生気の抜けかけたかおに視線をずらす。ヴィントがわずかに目を細めたそのとき、かすれて乾いた笑声が耳に届いた。

「おいおい……そんな顔、すんなよ……」

 彼はやはり、笑っている。唇から下を血に染めてもなお、かつてと変わらぬように。

「……無茶を言うな」

「無茶、か。それも、そうだな」

 彼はやはり笑う。その息遣いはいかにも苦しげだ。言葉を発する体力すらも、本当は残されていないだろう。それでも彼は、口を動かし続ける。何かに、すがりつくように。あるいは、刻限が見えているかのように。

「言ったろ……。これは、ただの因果、だ。俺たちは、あんたらとの約束を、やぶった。子供に、剣を向けた。だから……ここで死ぬ……それだけだ……」

 ヴィントは、何も返さない。余計な会話で相手の体力をすり減らす必要はなかろう。

「なあ、ヴィントよ……すまなかったな。今さら言ったって……しょうがねえけどよ……」

 彼の瞳が、少し暗くなる。

「レクにも……謝って、おいてくれ……」

「……ああ」

 ヴィントは初めて、返事をした。しゃがみこんで、汚れた手を取る。『北極星の騎士』の手は、手袋越しにもわかるほど硬かった。

「俺に対する謝罪は必要ない。おまえはおまえの務めを果たそうとしただけだ。それに、短い間だったが……俺も、楽しかった。だから、いい」

 ヴィントが言葉を選んでそう言えば、ディオルグは歪にほほ笑んだ。

 ディオルグは、もうほとんど音の出ない言葉を、それでも紡ぐ。

「もし……あんたやレクが、うちとまた関わる、ことが、あったら……うちの子を、たのむ。ステラと……ラキ、を……」

 その後は、形にならなかった。だが、ヴィントは、空白の言葉もすべて聞いた。白く濁る吐息を受け止めた。その上で、うなずいた。

「わかった。約束しよう……ディオ」

 ヴィントは、両手に少し力をこめた。ディオルグが一瞬驚いたような顔をしてから、笑う。そして、次の瞬間にはすべての表情と力を失った。

 ヴィントは、静かに瞑目した後、ディオルグの手を離した。立ち上がって、膝の雪を払う。重々しい息をひとつ吐いた。

 大人たちの遺体に背を向ける。その頃になって、ようやっと肩の痛みを自覚した。反射的に傷を押さえて、顔をしかめる。

 その渋面に一瞬後、また別の感情が混ぜこまれた。

「おとう、さん?」

 ともすれば聞き逃しそうな声が、静かな雪原に響く。ヴィントは無言でその方を見た。目を覚ましたレクシオが、雪の中に座り込んでいる。金色の光は消えていたが、凍えているふうではなかった。ただ、大きな両目は不安定に揺れ、口が呆然と開かれている。

「おとうさん……それ、なに? おじさんたちは……?」

 いつになく心もとない幼子の問い。ヴィントはそれを、静かに見つめた。

 伝えるべきか、ごまかすべきか。短い逡巡ののち、ヴィントは己の口をこじ開ける。

「ディオルグたちは、死んだ」

「え……?」

「俺が、殺した」

 端的にそれだけを告げる。

 レクシオはやはり呆然としていた。問いのような、それ未満のような、意味のない言葉を繰り返して全身を震えさせる。

 その姿を、変化を、ヴィントは自分でも驚くほど冷淡に観察していた。

「どうして」

 血を吐くような声――幼子とは思えぬ声が、こぼれ落ちる。

「どうして? ころした、って、なに? なんで、おじさんが、おとうさん、が……なんで、どうして、なんで――!」

 震え声は徐々に大きくなり、最後には慟哭となっていた。

 そこらじゅうに悲痛な音が響き渡る。ヴィントはそれを、ただ聞いていた。

 見上げた空は鈍色だった。いつの間にか、雪はやんでいた。

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