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ラフィアの翼【改訂版】  作者: 蒼井七海
Ⅳ 白雪の約束
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第三章 白雪の約束(3)

 ルーウェンからやや離れた平原に、ぽつんと家を構えている男がいる。ヴィントはそのことを、ずいぶん前から知っていた。家の主はナイジェルよりだいぶん若いが、彼以上に偏屈で言動もどこかやさぐれている。だが、口ではぶちぶちと文句を言いながら、魔導の一族の面倒を長らく見てくれている人だった。だから、ヴィントはひとまずその家を訪ねることにした。

 足場の悪い森を抜け、数刻。焦げ臭い平原を歩いていると、寂しげに佇む家が見える。基礎や建材に金属を使った今時の家だが、長く風雨にさらされているせいか、壁の塗装がまだらに剥がれている。全体的に、ボロ小屋、という呼び名がふさわしい風体であった。

 ヴィントは、睡魔に負けそうなレクシオを背負ったまま、家の扉を叩いた。やや強めに、三回。ほどなくして屋内から足音が響き、扉が乱暴に開かれた。

「誰だ、こんな時間に。いや誰でもいいが、もっと静かに――」

 嗄れ声が、いきなり不平を並べ立てた。しかし、その声の主は、戸口に立った親子を見るなり口を開けたまま固まった。

「ヘクター。息子が負傷した。この子だけでも休ませてやってくれないか」

 岩を削りだしたみたいな顔の男は、しばらく唖然としていたが、我に返ると舌打ちをこぼして、ヴィントの腕をやや乱暴に引いた。

「入れ。とっとと入れ。どこで軍人どもが見ているか、わかりゃしねえんだからな」

 それについてはヴィントも同感だった。だから、何も言わずにただ入って、扉を閉める。うながされるままに奥へ入った彼の後ろで、男が静かに錠前を下ろした。


 医師であり薬師であるこの男は、すぐにレクシオを診察して、必要な処置をしてくれた。やはりぶちぶちと文句を言いながらだったが、その手際は鮮やかで、ヴィントは思わず、感嘆の吐息をこぼした。

「火傷が二か所、打撲数か所、あとは細かい切り傷だな。あの『地獄』に放り込まれてた割には軽傷だが、油断はしない方がいい。何しろ、おしめも取れてねえガキだからな」

 処置の後、男はヴィントにそれだけの説明をすると、眠っている子どもを見下ろして、ため息をつく。最前の男の言葉を思い出し、ヴィントはぽつりと呟いた。

「地獄、か」

「あちこちから炎が上がってるのは、ここからでも見えた。それだけじゃねえ。昨晩、血まみれ火傷だらけの奴が、町のまわりで何人も死んでやがった。なんとか町を出たものの、そこで力尽きて……ってふうだったな」

 暗に町の方へ行ったことをほのめかした発言に、ヴィントは意識を強く引かれた。思わず男の方を見つめたが、当人は荒々しく二度目のため息をついただけである。

「ここ二、三日、妙にまわりが騒がしいと思ってたが……帝国は魔導の一族を国から消そうとでもしてんのかね」

「だろうな。女子供も区別なく殺されていたし……そのつもりでなければ、町に火など放たないだろう」

 淡白な回答に、男は「けっ」とだけ吐き捨てると、ヴィントに向かって軽く手を振った。

「ガキは俺が見ておく。てめえはそのきたねえ体と服をどうにかしろ」

「……かたじけない」

 ヴィントはそれだけ言って、丸椅子から立ち上がる。


 身を清め――といっても、濡れた布で体を拭いただけだが――貸し出された服に着替えた頃、ヴィントは男に呼ばれた。食事を作ってくれたらしい。

 お湯に野菜と肉のくずを混ぜただけの汁物と、堅いパン。それだけだったが、町から逃げ出すのに必死だったヴィントにとっては、ありがたいものだった。男と二人、その食事を摂った後、ヴィントは患者用の一室に押し込まれた。寝台が二つと小さな棚、車輪付きの机がある、殺風景な部屋である。彼自身はレクシオの様子を見るつもりだったのだが、どうやらそれも見透かされていたようだ。押し切ろうとしたら、さらに強引に押し返されそうである。しかたなく、ヴィントは(とこ)に就いた。

 そう言えば、男はもう一人の家族について訊いてこなかった。ヴィントひとりで訪ねると、必ず「ミリアムはどうした」と声をかけてきた男が、だ。そんなことをぼんやりと考えているうちに、ヴィントの意識は少しずつ、眠りの闇に落ちていった。


 それからしばらく、ヴィントは男のもとに滞在した。一週間ほどだろうか。その間にレクシオは少しずつ元気になっていって、幼子ゆえの無邪気さから家主を困らせることが増えた。

「ま、元気なのは結構だ。無茶はいかんぞ。怪我人だからな」

 しばしば眉間にしわを寄せながらも、彼はそんなふうに言ってレクシオの頭をなでる。なんだかんだ面倒見のよい男なのだ。

 レクシオの傷がある程度癒えるまで、ヴィントはそこにとどまっているつもりでいた。男の方もそれを強く勧めてきていた。

 だが、実際はままならないものだ。ある朝、みすぼらしい家にひとつの変化が起きた。

 家の奥で野菜と燻製肉を切っていたヴィントは、けたたましい音を聞いて顔を上げた。扉を叩く音。ここを訪ったときのヴィントよりも、かなり乱暴な叩き方だ。ヴィントはほんのわずか、眉を寄せたが、すぐには手を止めなかった。切ったものをまな板の端に寄せて、使った包丁を水が張られたボウルに入れる。貰い物らしい卵を言われた数だけまな板のそばに置いておく。そこまでやって、やっと戸口の方に耳を澄ませた。険悪なやり取りをしばらく聞いたヴィントは、小さくため息をつく。気配を殺して息をひそめ、無礼な来客が立ち去るまで待ち続けた。

 家主は何事もなかったかのような表情で、台所にやってきた。彼と入れ替わる格好で、ヴィントは狭い台所から出る。その間際、男の方を振り返ったが、やはりいつもと変わらないように見えた。

 ひと通りの調理と掃除が済んだ後、ヴィントはレクシオに朝食を食べさせた。ここへ来てからの彼の食事は、大抵、細かく切った野菜が入った麦粥である。そろそろ粥にも飽きていそうなものだが、幼子は嫌そうな顔のひとつも見せずにそれを食べた。――というより、ルーウェンを出て以降、彼の表情と感情はいくらか欠落してしまったようである。

 息子の食事が終わると、次は大人たちの番だ。本来、人ひとりが暮らすのがやっとの部屋で、小さなテーブルを囲んで食事を摂る。

 そこで、ヴィントは話を切り出した。

「そろそろ、ここを出ようと思う」

 むっつりとして黒パンを食べ進めていた男が、手を止めた。太い眉の下の目が、鋭くヴィントをにらみつける。

「ガキはまだ外を歩ける状態じゃねえ」

「この前、聞いた」

「とてもじゃねえが、長旅には耐えられないぞ」

「承知の上だ」

 元々険しい目が、さらに厳しく細められる。

「息子を殺す気か」

「その危険性があったとしても、行くつもりだ」

 殺気に近いものを向けられても、ヴィントの心は全く波立たなかった。元々乏しかった感情は、ルーウェンの町と、妻の命と共に、焼き尽くされてしまったらしい。

 ヴィントは小さく息を吐き、男を見返す。

「さっき来たのは、軍人だろう」

 男は沈黙する。そののち、「ああ」と肯定した。

「ヘクターを信用していないわけではない。それでも、ここに長居しない方がいいと思う」

 帝国軍人たちは、『デルタ』を探し回っている。町から逃げ延びた者がいる前提で、それすらも狩りつくすつもりで、動いているのだ。こんなボロにまでやってきたことが、彼らの執心を証明している。

 となれば、ヴィントとレクシオはここから去るべきだ。魔導の一族でない男に、今以上の迷惑はかけられない。

 男はしばらくヴィントをにらんでいた。だが、彼が黙然としていると、盛大にため息をつく。パンの最後のひとかけらを咀嚼した後、彼は軽くかぶりを振った。

「わかったよ。使えそうな薬くらいは持たせてやる。あとはてめえで勝手にしろ」

「…………ああ」

 ヴィントは黙って、それでも精いっぱいの謝意を込めて、男に頭を下げた。

 男は、口で言っていた以上のものを親子に持たせてくれた。ヴィントでも扱える薬ときれいにした服、分厚い布、いくばくかの非常食。そして、一本のナイフ。

 ヴィントは無言で示された厚意を短い感謝とともに受け取り、手早く旅支度を済ませた。事が起きた翌日、周囲に軍人がいないのを確かめ、出立することに決める。夜になると気温がぐっと下がるので、日が高いうちにできるだけ進んだ方がいいだろう。

 この家を出る、としか知らされていないレクシオは、出発の際、男に手を振っていた。男は少し顔をしかめていたが、最後、控えめに手を振り返した。

 それ以上の挨拶は交わさず、親子はただ二人で平原を進む。来たときと同じく、ヴィントがレクシオを背負っていた。

「おうちにかえるの?」

「家には帰れない。もう、家がないからな」

「じゃあ、どこいくの?」

「それは俺にもわからない。ただ、まあ……楽しく暮らせる場所が見つかると、いいな」

「そうだね」

 レクシオは無邪気に答えたのち、父親の背の上で、少し頭を傾けた。

「ねえ、おかあさんは? おかあさんは、どこ?」

 ヴィントは思わず足を止めた。少し首をひねって、レクシオの様子をうかがう。彼は緑の瞳を真ん丸に見開いて、父親を見つめていた。まるで、先日の惨劇を忘れてしまったかのように。

 ただ一人の親である男は、逡巡した。その果てに、また、足を動かす。

「母さんは、俺たちとは一緒に行けないんだ。だが……きっと、俺たちのことを見守ってくれている」

「死」というものを、子どもにどう伝えればいいのだろう。答えは出ない。一朝一夕いっちょういっせきで答えが出るものでもない。

 結局、いつかと同じ言葉を口にするしかない。そんな自分が歯がゆくて、情けなかった。

 レクシオは小さな声で「ふうん」と言った。納得しているふうではなかったが、それ以上問いを重ねてもこない。

 ヴィントは、黙り込んだレクシオを背負ったまま、焦げ臭い平原を歩きつづけた。



     ※



 父と子、ただ二人。身を隠し、逃げ続ける旅は長く続いた。一年近くか、それ以上か。彼らにとって、そのあたりの時間の感覚は、ひどく曖昧だった。

 父は多くの罪を重ねた。食べ物が手に入らなかったときは、店から物を盗んだ。軍人に追われたときは、息子の見ていないところで彼らを手にかけた。

 そうして不安定に、薄暗く続いた旅路の先。二人が帝国北端の街に流れ着いたのは、冬の初めのことである。

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