民族と宗教
民族と宗教
前稿で関わりたくない双璧として民族と宗教としましたが、両者には密接な関係があります。
宗教とは換言すれば世界観です。民族とは人種的な面もありますが、共通の価値観・世界観を持つ集団として認識される場合も多いのです。
ユダヤ人もその典型です。
元々、古代イスラエルの民が信仰していた一神教がユダヤ教の源流です。ユダヤ人とは、この古代イスラエルの民から連綿と続く人種的系譜ではなく、ユダヤ教を信仰する人を指します。
現代ユダヤ人自身による定義も
・ユダヤ教を信仰する者
・ユダヤ人の母親から生まれた者
をユダヤ人としており、これは旧来から変わりなく、人種的・民族的要素は皆無です。
では、ユダヤ人が何故迫害されるか、と言えば、後付けの理由が色々言われてはおりますが、結局のところユダヤ教とキリスト教の対立にある。としか言いようがありません。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で言う「神」は同一です。三千年以上前に発生した一神教がユダヤ教となり、そこからキリスト教、さらにイスラム教が発生しました。
人類が神と交わした契約(聖書で言うところの旧約)に基づき行動するユダヤ教。
ナザレのイエスをキリスト(メサイア、救世主)と認め、神との新たな契約(聖書で言うところの新約)とするキリスト教。
ムハンマドを神(直接の伝達者は天使ジブリール)から言葉を託された者、預言者として、その言葉に従うイスラム教。
もの凄く大雑把な表現ですが、こういう違いです。
キリスト教で言う「キリスト」は、キリスト教オリジナルの概念ではありません。ユダヤ教の世界観では、地上世界は、原罪を背負い楽園を追放された人類の贖罪の場です。この艱難辛苦の現世を救世するのがキリストであり、イスラエルの王ダビデの子孫から現れる。とされています。
そして、ナザレのイエスこそ、「ユダヤ教で言う」キリストである。とした上で、イエスは人間だけど「ユダヤ教で言う」神と同じだよ。
(新約)聖書にもそう書いてある。
とするのがキリスト教なのです。
なお、イエスを神と同一とする見解は、割と初期の頃からあったと考えられますが、対立する見解も多く、キリスト教の公式見解となったのはイエスの死後三百年ほど経ってからになります。
つまるところ、イエスを「ユダヤ教で言う」キリストで神としたところに、ユダヤ教とキリスト教対立の根本があります。
キリスト教の黎明期、ナザレのイエスという教義の中核をどう取り扱うか、については色々と考えが分かれていました。中には「イエスの教えを中心に据えた全く新しい宗教を作ろうぜ!」的な考えも有りました(もしそうなっていたらキリスト教ではなくイエス教になっていたかも?)が、最終的に、イエスをユダヤ教的解釈に当てはめる現在のキリスト教の原型に落ち着きます。
なので、イエスの父、大工のヨセフは約千年前のユダヤ王ダビデの子孫で、イエスの母マリアもダビデの子孫です。
(新約)聖書にもそう書いてある。
そこ!マリアって処女懐胎じゃないんか?とか言わない!
ちなみに三国志の劉備は、約三百年前の漢の皇室の庶子の末裔だそーだ。おかーちゃんがそう言ってる。
これは、イエス自身ユダヤ教徒であり、弟子の多くが生粋のユダヤ教徒なので仕方ない面もありますが、旧来からのユダヤ教徒には受け入れ難い解釈なわけです。
「ユダヤ教で言う」神はユダヤ人を救う神です。そのためユダヤ教徒は神との契約に沿った行動をしています。メサイアであるキリストは、ユダヤ人を約束の地カナンに導きユダヤ王となる存在ですが、約束の地は貰ってないし、ユダヤ人は未だ被支配民族だし、あろう事かユダヤ人以外も救ってやるとかユダヤ教の根幹を蔑ろにしているに等しい。
なので、ユダヤ教の公式見解は、ナザレのイエスは「ユダヤ教で言う」キリストでは無いし、ましてや、神と同一の存在ではない。となるのです(まぁ、これも仕方ないよね)。
これが、仮に「ユダヤ教で言う」神とは異なり、イエスを完全に別個の神とするイエス教(仮)であったなら、
あっそ、お前らはお前らの好きな神を信仰して勝手に救われてくれ、ユダヤ人はユダヤ教の神に救われるんで。
みたいな感じになっていたと思います。ユダヤ教徒って大体こんな感じ。
同じ神を信仰していますが、ユダヤ教にとってイエスをキリストと認めることは、教義の根幹である「救い」を否定するものであり、イエスをキリストと認められないキリスト教からすれば、教義の根幹である「イエスの神性」を否定されているという事になります。
同じ神仏を信仰する宗教でも、考え方が異なると分派していきます。現代日本人には中々理解してもらえない場合も多いのですが、これは本来、相当な大事なのです。
イエスはユダヤ教徒ですが、旧来のユダヤ教徒、主にパリサイ派(儀式ではなく行動で信仰を示す、現在の典型的なユダヤ人の原型と考えられる派です)とは、神に対する考え方の違いから対立していました。
そのため、キリスト教はイエスの刑死をユダヤ人の責任とします。
歴史的に見てイエスを死罪としたのも処刑したのもローマ人(イエスの死を確かめるため槍で突っついたロンギヌスは列聖される不思議)のはずですが、ユダヤ人が死刑にさせた(まぁ、無い、とは言わないけど)ことになっています。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダもユダヤ人、、、いや、まぁ、言うまでもなくイエスの弟子=ユダヤ人なんですけど、、、
個人的な意見としては、イエスの処刑というキリスト教的大罪を、キリスト教を国教としたローマが責任転嫁したようにしか見えません。
ミラノ勅令が公布されるまで三百年、ローマはキリスト教徒を迫害し続けています。イエスの弟子である十二使徒は、ヨハネとユダを除く全員が殉教した(ぶっちゃけ処刑されたって事です)ことになっているので、大半はローマによるものでしょう(明確にローマが処刑したとされる使徒もいます。ペテロとか)。
迫害した側のローマが、その後、キリスト教を国教とし、総本山になるのですから、誰かをスケープゴートとしなければ収まりがつかない。
まぁ、そういう事。
これは、宗教の面から見た構図ですが、民族の面から見ると極めてシンプルです。
徹頭徹尾、ローマ人によるユダヤ人迫害。
ローマの被征服民に対する同化政策は比較的穏健(あくまで比較上の話)な方ですが、ユダヤ人はユダヤ教の教義がアレなため、同化政策とは非常に相性の悪い民族なのです。
なので、ローマ人はユダヤ人を迫害し、面倒臭そうなユダヤ人のイエスを処刑し、弟子の多くも処刑して、ちゃっかりキリスト教だけ取り込んで、最初に戻って再びユダヤ人を迫害。という構図。
これが民族だけの問題であれば、後のホロコーストなどは無かったのではないかと思います。
ローマ帝国の滅亡、或いは政策転換などによりローマ人とユダヤ人が対立しなくなれば終結していた問題です。
しかし、これを宗教に絡めてしまった。
ローマ人とユダヤ人の問題から、
キリスト教とユダヤ教の問題にしてしまった。
今に残るユダヤ人迫害の原点がここにあります。