霞ヶ関
霞ヶ関
はぁ?何で兵庫県知事の話なんかせにゃならんの?
アメリカ大統領選や自民党総裁選よりコレか?
ニュース解説者じゃねーっつの
という訳で(?????)今話題の斎藤兵庫県知事に関連して所見というか経験則などを踏まえた事柄をお話ししていきます。
興味のない方はとばしていただいて結構、むしろとばせまである。
斎藤氏の言動を見ての所見というか所感は「霞ヶ関から出てきがちなソシオパス傾向のある人物」といったところ。
斎藤氏が総務省出身である事はご存知の通りかと思いますが、では総務省など官僚機構の代名詞である霞ヶ関とはどんなところか、切り取った一面ではありますが、触れていく事とします。
霞ヶ関には日本の中央省庁が(一部を除き)集約されており、国会議事堂から目と鼻の先にあって徒歩で通える距離に立法と行政に関わる主要な機能が存在しています。
立法は国会が担いますが、法案を作るのは霞ヶ関の官僚です。
一部には議員立法といって国会議員が作るものもありますが、既存の法律との整合性をとるなどの理由から官僚の手を通らない法案はほぼほぼ存在しません。
キャリア官僚の中でも事務次官となるのは東大法卒が多い理由は、各省の役割りに応じた専門性より、国会審議に対応できる法律の権威が重視されるからです。換言するなら、立法の技術面を握っている事が各省のパワーの重要な源泉であると言えます。
官僚機構の頂点は各省の事務次官となりますが、その上に政務官、副大臣ときて各省のトップである大臣が存在し、さらに行政トップである内閣総理大臣が上にくるわけです。
このところの報道等で公務員の上に来る政治家を「殿様」と評する向きもありますが、どちらかというと官僚が「お客様」扱いしている、の方が正しいでしょう。
総理だ大臣だといっても選挙や組閣、スキャンダルやなんやかやでコロコロ変わります。
そういう相手に主君という意味での「殿様」に忠誠を誓えというのが無理であるのは、まぁ、ある意味では仕方ないことなのかも知れません。
そこで霞ヶ関の官僚はどうするかと言うと、徹底的に「お客様」に対する「お・も・て・な・し」で大臣などを「気分良く」させ「余計な事」をさせずに大過なく過ごしてもらうわけです。
そのため、大臣など国会議員の「先生」らに対する接遇は徹底しており、斎藤氏の言うようなエレベーターのボタン押しだとか車からの動線の確保だとかってのは物凄くナチュラルにやって当然のレベルになります。
問題なのは、これが「やって当然」の「当たり前」という霞ヶ関全体の文化となっている事です。
一言でいうと「体育会系」。いや、まぁ、リアル体育会系の様な熱苦しさ(失礼)はないんですけどね。
大臣や本当の意味での賓客を相手にする場合、分単位でのスケジュールが組まれる事もあるので、必ずしも動線の確保などの行為が不当・不用な配慮とは言えないでしょう。
しかし、体育会系の霞ヶ関文化は、上位の者が自分にやっている事を自分が下位の者にしても「当たり前」、自分が上位の者にしている事は下位の者は自分に「やって当然」になる。
運動部員は下級生の時、シゴキで辛い想いをしても、上級生となった途端、シゴく側にまわります。自分がシゴかれて辛かったから後輩たちにはそんな想いはさせない、というタイプはほとんど居ませんし、体育会系の「空気」がソレを許容しないでしょう。
これだけでも充分問題ですが、続きがあります。
霞ヶ関は概ねハードワークです。国会の会期中は国会対応が加わり、バッタ表次第では終電に間に合わないなどザラ、国会内には省庁の質問取り職員が詰める部屋があるのですが、そこに配されると会期中まともに帰宅する事はできません。
労働基準監督署仕事しろ!とか思いますが厚生労働省も「霞ヶ関」なのでどうにもなりません。
国会対応がしんどいのは半ば以上野党議員の嫌がらせ、ぶっちゃけパワハラです。
ハードワークに加え上から下までパワハラ体質に染まっている霞ヶ関では鬱や自殺者も珍しくありません。
とある省では、1年ほどの間に私が直接見聞きしただけでお二方が亡くなられました。
ブイブイ言ってた人が暫く見ない間にギョッとするほど容貌が変わっていて、どうやらパワハラでやられたらしい、といった話もあります。
こういった事柄に接する時、可哀想だなぁ、辛かったんだろうなぁ、と思える内はまだ多少なりとも健全と言えますが、鬱で退職したり自殺された方などを敗北者と見做し、空気の様に思う様になると共感性を失ったソシオパスの出来上がりです。
コレを私は個人的に体育会系ソシオパスと呼んでいます。
まぁ、霞ヶ関にはソシオパスどころかサイコパスも普通に居たりするんですが、、、
斉藤氏は、この体育会系ソシオパスの傾向が極めて強い様に見受けられます。
伝え聞くところによると、兵庫県庁では今回の騒動で亡くなられた方のお子さんの遺児育英資金を募ろうとしたが(斎藤氏に?)止められたといいます。これは相当なアレ(?)ですわ。
共感性が失なわれると他人の感情を全く理解できなくなる。世間一般の目が厳しくなっている理由が斎藤氏には本質的に分かっていないのです。
元局長がどういう思いで自殺されたか問われ「本人にしかわからねーよ」と答えたのも斎藤氏には掛け値無しの本音でしかない。
斎藤氏にしてみれば勝手に自殺されて迷惑を被ってる自分の方が被害者だ、という認識でしょう。
理解できない以上、辞職しろと言われても反発と恨みが募るだけで、御遺族に対する反応は斎藤氏の本音が漏れ出た結果と考えられます。
言うまでもない事ですが、パワハラ上司が皆ソシオパスな訳ではありません。むしろ、パワハラするのは大抵ごく普通の人です。
パワハラ上司が列挙された恐竜番付などを見てもソシオパスと言うよりはホニャララな方が多い。
斎藤氏も官僚時代はパワハラ気質な人物には思えなかったという証言もあります。
しかしこれは、逆に斎藤氏のソシオパス傾向の強さを示すものに思える。
霞ヶ関のキャリア官僚は事務次官レースに敗れるとさっさと退官して天下りしますが、天下り先が求めるのは省庁の権益、端的に言えば官僚時代の人脈をあてにしているのです。
退官後が本番だと思っているキャリア官僚は少なくない。その時、パワハラした部下がカウンターパートに座ると終わるし、そうでなくとも人脈こそがパワーと考えれば、やたらと恐竜化はしないものです。
共感性に欠けるソシオパスがパワハラを認識している事に違和感を感じるかも知れません。
しかし、ソシオパスなチンピラ皇帝の例で言えば、共感性の欠如から原潜クルスクの事故では盛大にやらかしますが、その後は「殊勝・神妙な態度を示す」ことを覚え、同じ轍を踏む真似はしません。
相手に共感することは出来ずとも、どう振る舞えば良いかを学習し、対応する能力が高いのがソシオパスというものです。
思うに、斎藤氏は比較的早い段階から政治家、それも上に誰もいない県知事になることを志向していたのではないかと推測します。
総務省出身の官僚と言えど知事となるのは当然にして容易でない。
知事になるための選挙準備では上手く「理想の知事候補」らしい振る舞いをして見せていたのでしょう。
詰まるところ、斎藤氏は権力を握って変わったのではなく、そういう人物である事を隠蔽していただけです。
都道府県知事は、言ってみれば一国一城の主で「殿様」というのも強ち的外れでもありません。しかし、それは政を担う政治家であって必ずしも否定的な意味ではないハズです。
斎藤氏の要求は自分を「お客様」扱いしろと言っているに等しく県政に何の寄与もしません。
「お客様」扱いされて良い気分になっているというのは、一見、支配者の当然の在り方と思うかも知れませんが、奸物に付け入れられ、支配を危うくする典型的過ぎるパターンです。
霞ヶ関の官僚であったというのに、その本質を理解していないのであれば、斎藤氏は官僚としても三流だったのでしょう。
政治家としても、政治家としての「殿様」であるべき知事を「お客様」扱いさせる「バカ殿」です。故志村氏の様に笑えるところの無いのが悲劇を通り越した惨劇。
バカ殿は往々にして独裁者となり、ろくなことにならないのは古今東西様々な社会・企業組織で示されている。私がプーチンをチンピラ呼ばわりし、政治家扱いしていないのは、彼らが政治の本質である利害の調整を権力や暴力で恣にしようとするからです。
独裁者の弊害は今更語るまでもないし、改めて言うまでもなく斎藤氏は権力を握らせてはならないタイプの人物です。
ここまで色々霞ヶ関の事を言ってきたので「霞ヶ関が諸悪の根源か」と思われるかもしれませんが、私は必ずしもそうだとは思いません。
極論するなら、官僚の専横を許しているのは野党を含めた政治家の怠慢です。
ぶっちゃけバカ殿ばっかで、どちらかと言えば与党自民党より野党の方が酷い傾向にある。
政治家の「顔」はコロコロ変わりますが、「体質」が変わる事は滅多にない。
その結果が現在の霞ヶ関です。




