前編
「冗談じゃない。こんな形でお前に一生縛られるなんて御免だね」
開口一番そう宣った眼前の男を見て、アニエス・フェレール公爵令嬢は心の底から褒め讃えた。
「は?」などという令嬢らしからぬ言葉も吐かず、拳の一つも振り上げなかった自分を、だ。
「奇遇ね、わたしも同じ気持ちよ。それをそのままお父上にお伝えしては如何?」
眼前の男――フレデリク・ローランは、王国の四大公爵家の一つであるローラン家の四男で、艶のある青みがかった銀髪と湖面のような深い蒼の瞳を持つ青年である。
裕福な家の四男というそれなりに自由が利く立場のせいか、その見目の麗しさのせいか、学院に在籍している時分から女性関係が随分と派手だったとは有名な話だ。
が、同い年であり同じ時期に学院へも通っていたアニエスが、彼の求める華となったことは一度もない。
「わたしの婚約者があなたでなければならない理由はございませんから」
「…………ほんっとうに、あの頃から一切変わらない可愛げのなさだな、アニエス・フェレール!」
ことの起こりは数年前――学院への入学式の日だ。
ローラン家と同じく四大公爵家と呼ばれるフェレール家の一人娘であるアニエスは、入学式の後父に連れられて実家と縁のある貴族へと顔合わせがてら挨拶回りをしていたのだが、状況を見るにフレデリクも似たようなものだった。
今思えば当主であるアニエスの父とフレデリクの父の仲が良くなかったというのも一つの要因ではあったが、あの日は互いに入学式後の挨拶回りで溜まった疲労のせいで機嫌も良くなかった。
無視をすればいいのに顔を合わせるなりわざわざ立ち止まり、嫌味の応酬を交わす両家の父親に対し、先に痺れを切らしたのはフレデリクの方だった。
「そろそろ行きましょう、父上。これ以上こんな可愛げのない女と同じ空間にいるのは耐えられません」
「はい?」
苛立ちを隠し静かに事の成り行きを見守っていたアニエスだが、唐突に喧嘩を売られて黙って傷付いていられるほど繊細な質ではなかった。
「まあ、可愛げのない女だなんて、好意の欠片もない男性に愛嬌を振りまくことほど無駄なことはございませんわ。愛想も愛嬌も、相手への好意があって初めて成り立つものですものね」
「は?」
「……それとも、もしかして、この世の全ての女性がご自分にそうするのが当然だと思っていらっしゃるのですか?」
公爵家の子息という立場、見目麗しい外見、低く甘い声。確かに女性に好かれるであろう条件ならば揃っていた。
アニエスとていっぱしの令嬢として、父たちが言葉を交わし合うその時までは呑気に「綺麗な人ねえ」なんて思っていた。
が、そんな淡い感想もどこへやら。頬を染めるどころか眉をひそめて堂々と喧嘩を買ったアニエスは、確かに彼の言う通り可愛げに欠けていたのだろう。
唖然とする父親たちの隣で、アニエスとフレデリクの言葉はそのまま口論へと発展し、騒ぎに気付いた教師に親の前で早々に叱られたのが最初の最低最悪な思い出である。
「あなたに愛想良く振る舞うくらいなら難しい論文のひとつでも読んでいた方がずっと有意義よ、フレデリク・ローラン。卒業してから何年も経つのに未だに根無し草なんですってね。お父上が嘆いていたわ」
「ほお、卒業してから何年も経っているのにいまだに縁談のひとつもまとまらない嫁き遅れ手前女のご高説は誠に痛み入る。フェレール公もそろそろ落ち着きたかろうに」
「お生憎様。何度言っても折角の縁談にお断りを入れ続けていたのはお父様よ」
学院を卒業してからアニエスはフェレール公爵領を治めるための勉強に精を出していたし、フレデリクは立場を利用して花から花へと自由を謳歌していた。
つまり、こうして顔を合わせるのは実に数年ぶりである。
それというのに、互いにぽんぽんと飛び出す嫌味は一切衰えることはない。当時を知る使用人が部屋の隅で呆れたように視線を落としていることにも気付いていたが、知ったことではない。
つまるところ、アニエスにとってもこの縁談はそれくらい不本意なものだった。
「どうしてこんな不誠実な男が女性に人気なのかしら、理解に苦しむわ」
「不誠実? 馬鹿を言うな、俺はきちんと遊びであることを前提に誠実にお付き合いしてる」
「どちらにしても最低じゃない」
フレデリクと同級生だった学院での3年間は地獄のようだった。
試験では手を抜いていたようだが、普段の様子を見るに成績は似たようなもので家柄も同格。さらにアニエスは一人娘として将来的に婿を取り公爵家を継ぐことが決まっていたので、選択授業は女子生徒向けのマナー教育などではなく男子生徒向けの統治関係のものにしていた。
その結果、在学中の固定クラスはもちろんのこと、選択授業でも常に同じ教室に籍を置くことになったわけだが、これが良くなかった。それはもう、本当に良くなかった。
何度も言うが、フレデリクは女性に人気のある立場だ。(アニエス以外の)女性に優しいだけでなく、来るものを拒まず、さりとて(アニエスには理解不能だが)節度を持った遊び方をしていたので、常に周りに女子生徒がいるような状態だった。
本当に本当に不本意なことではあるが、たとえ口を開けば喧嘩ばかりだろうと、あの男の中での異性という枠組みから外れていようと、その有象無象の女子生徒から見ればアニエスが彼の特別な存在だと認識されるらしい。
お陰で彼と格の同じ公爵家の令嬢であるはずなのに、女子生徒からは事あるごとに「調子に乗るな」だの「いい気になるな」だのと陰口を叩かれるほか、時と場合によっては直接喧嘩も売られていた。
何がいい気になるなだ。あんな男と多少口をきいたぐらいで調子に乗れるならとっくにそうしている。
そんな鬱憤を溜めに溜めたまま、それでも出来た数少ない友人との友情だけを胸に、領主補佐として勉強すること早数年。
あまりにもまとまらない婚約に「そろそろ養子でも考える頃かしら」などと思っていた矢先に降って湧いたのが、この宿敵との縁談である。
父から見合いの話を受けたアニエスは相手の名を聞くなり拒否し、彼の訪問の数分前までボイコットする方法を模索していたのだが、盛大な雷を落とされて渋々顔合わせの席についていた。
ソファに腰をおろすなり冒頭の言葉を口にしたフレデリクも似たようなものだろう。不貞腐れたいのはお互い様である。
「お前がさっさと婿を取っていればこんなくだらない茶番に付き合う必要もなかったんだがな」
「悪かったわね、どこかの誰かと違って異性からの人気がなくって」
アニエスは決して瑕疵のある令嬢などではない。
花の色を溶かし込んだようなローズゴールドの髪に、長い睫毛が影を落とす熟れたラズベリーのような色の大きな瞳と、陶器のように滑らかな白い肌。身体の凹凸は目立つほどではないが絶壁というほどのものでもなく、しなやかな肢体はすらりと伸びている。
外見は間違いなく美しく、学院でも主席を一度として譲らなかった才媛で、おまけに公爵家の令嬢として教養にもマナーにも優れた淑女である。
そんなアニエスがこの歳までろくな縁談に恵まれなかったのは、フレデリクとのやり取りを経て「男を立てることも出来ないばかりか、同等にやり合う気の強い令嬢だ」と認識されていたからに他ならないが、残念ながらそれに気付くことはなかった。
「…………父上も母上も、お前が義娘になることを心底楽しみにしている。まったくもって不本意で心の底から気に食わないが、数回顔を合わせてから断れば流石に諦めるだろう」
「お父様もあなたが婿に来るのをとても楽しみにしていたわ。ほんの少しだけでも婚約者候補となるのは本当に嫌で嫌で仕方がないけれど、どうしても気が合わなかったという体は必要でしょうね」
アニエスとフレデリクにとって予想外だったのは、犬猿の仲として名を馳せていた互いの父親が、2人の在学期間を通じて親友とも呼べる間柄になっていたことだ。
それがなければどう転んだってこんな縁談など端からなかっただろう。どうして最後までそうあってくれなかったのか。
そして非常に不愉快なことだが、いい加減互いの間合いも思考も読めている2人である。
溜息を吐きながら頃合いだと言わんばかりに話をまとめにかかるフレデリクに、アニエスも肩を落としながら同意した。
「近い内に手紙でも寄越す。じゃあな」
「ええ、ごきげんよう」
彼はすっかり冷めた紅茶の入ったカップを一気に傾けて、ぞんざいな挨拶と共に席を立つ。
アニエスはそのまま席を立つこともなく挨拶を返し、彼の姿が見えなくなってから同じようにカップを空にして、片付けを命じてから自室へ戻っていった。
部屋へ戻るなり、アニエスはドレスに皺がつくことも気にせずにソファへ横になる。
「お疲れですね、お嬢様」
「当たり前じゃない。わたしは本当に、婿に入って最低限の仕事だけしてくれさえすれば誰でも文句はなかったのに、どうしてよりにもよってフレデリク・ローランなのよ」
学生時代からの確執を知る侍女の苦笑に、思わず拗ねたような声が漏れる。
「お嬢様は本当にローラン様のことがお嫌いですね」
「…………ええ、まあ……いえ、嫌いというわけではないけれど」
アニエスの回答が意外だったのか、侍女は目を丸くして首を傾げていた。
そんな侍女の様子を見て、アニエスはなんでもないと首を振ってクッションに顔を埋める。
不可解なことだが、宿敵と呼んでも差し支えないあの男のことが、アニエスは嫌いになりきれなかった。
あれは2学年の時だったか。
授業で行ったディスカッションの様子を見ていたとある令嬢が、授業が終わってすぐに口を開いたのだ。
――さすが、母親がいらっしゃらないだけあって、淑やかさに欠けますわね。
男子生徒と対等に意見を交わしていたアニエスを揶揄していることは明らかで、幼少期に病で母を亡くしていた彼女に対してこれ以上ないほどの侮辱だった。
これにはもちろん瞬時に腹を立てたアニエスだったが、彼女が反論するよりも早くに冷たい声色が教室に響いていた。
「馬鹿馬鹿しい。女親の有無で人の性質が変わるとでも? そんな教えをお持ちの君の母君は、さぞかしご立派なんだろうな」
彼に庇われたと察したのは、件の令嬢が真っ青になっていると気付いてからだった。
そういえば彼女はあの男の周囲によく侍っていたなどという場違いな感想と一緒に、むず痒いような、悔しいような――とにかく複雑な感情を抱いたことを覚えている。
彼女にはすぐに謝罪されアニエスも一応受け入れたが、卒業まで彼女が彼の周りに置かれることはなかった。
直接庇われたのはあれが最初で最後だったが、アニエスのことを「可愛げがない」だの「つまらない女」だの「頭でっかち」だのとさんざんにこき下ろしていた彼は、最後の最後までアニエスを取り巻く環境のことも、アニエスの親族や友人のことも馬鹿にすることはなかった。
腹は立つし頭に来るし、言い合いも両の手では足りないくらいにしたが、あの男は喧嘩を売ってきた女子生徒とは違い、ついぞアニエスの地雷を踏み抜くことはなかったのだ。
そういうわけで、あの根無し草のような態度も、わざわざ試験に手を抜く不誠実さも好きではなかったが、人として嫌悪するほどにはなれなかったのである。