1-5 一つ目のジャッジメントの始まり(3)
(なんだ、これは?)
聞いたこともない名称が黒い画面に揺らめいていた。
その揺らめきを見ていると、頭がぼんやりしてくるのを感じる。
きっと、さっき頭を打ち付けたせいなのだろう。
よく目を凝らしてみると、名称の下には、「Enter」と「Exit」のアイコンが浮かんでいる。
このホームページに入るかどうかを聞いているのだろうか――
心を覆った闇がその黒い画面に呼応したのか、研一は吸い込まれるように「Enter」をクリックしていた。
画面が切り替わる。
同じ黒いままの画面だったが、キーボードを叩くように一文字ずつ白い文字が現れはじめた。
「あなたが行いたい正義とは?」
俺が行いたい正義?
霞んだ思考の中、研一はぼんやりとその意味を考えた。
そして再び、心の闇が重さを増していくのを感じた。
俺が行いたい正義だと?
そんなもの、決まっている。
無免許でドラッグを吸いながら運転していた若者が憎い。
久美子を奪った交通事故が憎い。
――そう――交通事故が憎い!
飲酒、無免許、無謀運転などで、死にいたらしめる事故に繋がっても、殺人罪とはならない。
刑法第208条の2で規定されていた危険運転致死傷罪は、平成25年に自動車運転死傷行為処罰法という新たな法律として制定された。
だが、過失致死傷より重い故意の傷害罪に準ずる扱いにはなったものの、その適用には危険運転を証明する必要がある。
証明できなければ殺人罪どころか、新たに制定された危険運転致死傷罪も適用できず、いままでと同じ「過失致死」の扱いだ。
今年に入って、ドラッグを吸って運転したため起きた死亡事故は一件や二件ではない。何度もニュースのトップを飾っていた。
そうしたニュースを知りながらも、ドラッグを吸ってさらに無免許で運転するなどもっての他だ。
そこに生じる危険を、そのドライバーが認知していなかったとは言わせない。
事故を引き起こすつもりがなくても、重大事故が起きやすい状況を自ら作り出した以上、それは「故意」以外の何物でもないはずだ。
弁護士の立場から、法の内容がどうであれ、仮に悪法であったとしてもその法が遵守されなければ社会が混乱することは十二分に理解できる。
悪法ならば法の解釈を捻じ曲げるのではなく、実際に適法となるよう法律の改正を働きかけることが、法が持つ本来の意味合いを守ることにつながることも分かる。
それに、車社会の今、交通事故を減らす努力はできても、絶対に事故を起こさない社会を作ることは不可能だ。
交通事故を完全になくす唯一の方法は、車を使わないことしかない。
交通事故そのものが不可避なものである以上、必要以上に重い刑罰を与えることは、今の社会運営に齟齬を生じさせる恐れがあるから、基本は「過失」なのだ。
それは理解できる。
いや久美子が事故に遭うまでは、職業柄、理解せざるを得なかった。
だが――今は違う。
もし、無免許運転や薬物、飲酒するなど正常な運転ができない状況では車が動かないシステムが作れていれば、あるいはそういった科学技術の進歩を待たなくとも、法律で重大に罰するようにしていれば、そうした違反は大幅に軽減されていたはずだ。
刑法は事実上、被害者を救うためのものとなっていないことがある。
もちろん、加害者に対して、犯した罪にあった必要な罰を与え、そして更生に導くことが目的として存在していることは分かる。
しかし、実際の裁判の過程において、被害者の人権よりも加害者の人権が優先されているとしか思えない例は数多い。
被害者の名前が報道されても加害者の名前が報道されない、というケースもその一つだろう。
当然、それは法律にのっとった報道機関の判断によるものだが、その法律がおかしいと感じるのは自らが被害者の立場になったときだけだ。
さらに、未成年だったり責任能力がなかったりすれば、罰そのものを受けないことすらある。
犯罪という行為を犯して、その被害を受けた者がいるにも関わらず、だ。
無免許、飲酒や薬物を使用しての運転行為は違法だ。
違法ならば、相応の罰を受けるべきだろう。いや受けなければならない。
久美子を撥ねた犯人が仮に生きていたとしても殺人罪で裁かれることはない。
無期懲役すらない。
危険運転致死傷罪が認められ併合加重されても刑期は最大で30年だ。10人以上を「殺した」のにだ。
ここに「正義」は存在していない。
正義が存在するなら、行った行為に対して相応の報いがあって然るべきだ。
そうでなければ、これからも同じ事故は繰り返されるだろう。
画面の中央にある白い枠は「文字を打て」といわんばかりに、大きなカーソルを点滅させていた。