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1-3 一つ目のジャッジメントの始まり(1)


◆◇◆◇ 東京都 ある病院


静寂な病室の中、単調な機械の音が生命の鼓動を告げていた。


白が基調になった部屋の中で、ベッドの横にオレンジ色に映える服を着た女性が佇んでいる。

しかし、その色合いは決して派手ではなく、柔らかな暖かさを醸し出していた。


彼女はそっと、ベッドで横たわる少年の頬に手を当てる。おそらく、もう幾度となく繰り返してきた仕草なのだろう。

手慣れた仕草だが、十分な愛おしさと、そしてわずかな哀しみが感じられた。


半分だけ開けた窓から穏やかな風が流れてきた。


まだ梅雨を迎えていない6月の風は心地よい風だ。

その窓からは鮮やかな新緑を眺めることができる。


今の季節、緑の色はまだわずかな薄さを残し、その薄さが生命の力強さを現わしているように思える。

だが、彼女にその力強さが伝わることはない。


ほぼ一日、この部屋で過ごすことが日課だった。


この病室を訪れた最初のころは、静寂が耳障りだった。

心を病んで自分の時の流れを止めていた時期もあったため、動くことがない時間を過ごすことは苦痛でもあった。


それが愛する息子との時間とはいえ、いつ止まるのかという怯えと、いつまで動かない時間の中で生きなければならないのかという苦みを含んだ漆黒の感情が、彼女の中でせめぎ合っていたことは否めない。


もちろん、いつしか目覚めてくれることを夢見て、かすかな希望を苦痛と共に抱えていた時もあった。

主治医からは、その希望を実現するには、望んでも掴めない奇跡が必要になると何度も聞いていたが、苦痛を和らげる何かは彼女にとって必要だったのだ。


夫とは別居状態で、事実上、家族が愛息子だけになっていた彼女には、記憶の中にある笑顔と声、そして抱きついてくる肌のぬくもりにもう一度接することを夢見ることだけが生きていく糧だった。



だが――



月日が過ぎゆく中でその苦痛も、そして希望もいつしか忘れ去っていた。


目覚めることのない部屋の主人に、テレビやラジオ、ネットなどの機器は必要ない。ピコン、ピコンと単調なリズムで刻まれる生命維持装置の音も、もう耳慣れた。



今日も昨日と同じ時が流れている。たぶん明日も同じだろう。




◆◇◆◇ 20XX年6月10日(一日前の出来事) 千葉県 清水研一の部屋



清水研一は、今日、5本目の缶ビールのプルトップを親指で引き上げた。


シュワツ


白い泡が軽く溢れる。時計は昼の12時を示していたが、カーテンを半分閉めたままなので部屋は薄暗い。


もちろん、わざと半分しか開けていないのでもないし、照明が切れているわけでもない。

ただ、何もする気力が湧いてこないだけだ。眠りたくても、まとまった睡眠は取れていない。


しかし、睡眠不足が続いているのに頭は妙に覚醒している。締め付けられる胸の痛みから逃れたいが、アルコールをどれだけ摂取しても酩酊できない。

逆に、時折激しく押し寄せる感情の波が、大きな呻き声を呼ぶだけだ。


涙が枯れても「泣く」ことができることを研一は初めて知った。出てくるのは嗚咽だけだ。


「久美子……」


スマホの画面で微笑む娘は、もう聞くことができない声を耳に響かせる。


(お父さん)


久美子は小さい頃からパパとは言わなかった。


早くに妻が病死して男手一つで育てたせいもあるのだろうか、研一が強制したわけでないのに、小学生高学年の頃には久美子がほとんどの家事をしてくれた。

男勝りな面がある一方、動物が好きで、人が好きで、老若男女関係なく優しく接する子どもだった。


そして、高校を出てすぐに働き始めた久美子が、「お給料が出たから、来週、食事に行こうよ」と誘ってくれたのがちょうど一カ月前。


その日、通勤に時間がかかるため、先に家を出る久美子が「お父さん、待ち合わせ7時だから。忘れないでね」と、とびきりの笑顔を見せてから靴を履いていた姿が今でも目に浮かぶ。


「ああ」と軽く頷くだけで、気のない返事をしてしまったが、愛する娘との食事を一週間前から指折り心待ちにしていたことは、とても照れくさくて態度にも出せなかった。



だが――待ち合わせした本屋に久美子がくることはなかった。



会社を出たすぐの交差点で、見知らぬ老婆の手を引いて横断歩道を渡る久美子が、大型のワゴン車に撥ねられたことを知ったのは、待ち合わせ時間を30分ほど過ぎたときだった。


「仕事が終われないのかな」と気になり、かけた久美子の携帯電話に出た「どちらさまでしょうか?」という野太い男性の声に思わず「誰だ!」と声を荒げ、警察官を告げる声に胃臓をギュッと掴まれた研一は、一瞬で感じたその不安が現実のものであることを数分後に知った。



どこをどうたどって病院まで行ったのか、今でも思い出せない。



研一が覚えているのは、病院の前で赤く回る回転灯と、眠っているだけのように見える久美子の顔、そしてその横に立っている婦警の姿だけだった。


数日後に警察から聞いた話では、撥ねた相手は19歳。久美子と同じ年齢の若者で、当時、危険ドラッグを使っていた。


猛スピードで、赤信号で停車中の車数台にぶつかりながら交差点に進入、久美子と老婆を撥ね、さらに歩道を20メートルほど暴走して13名を撥ねてから、郵便ポストにぶつかりようやく止まった。


死者10名、重傷者5名という大事故は、久美子を研一のもとから永遠に奪ってしまった。


無免許だった運転手の少年も死者の列に名を連ね、向ける怒りの対象が霧散していることを知った研一は、呆然としたまま葬儀を済ませると、そのまま部屋に閉じこもった。


弁護士という職業柄、その後の展開は手に取るように分かる。


車を貸した所有者が道義的責任と補償の問題を抱えたとしても、ドラッグを販売した売人が警察に摘発されても、事故そのものの責任を追求して刑に服させる相手は、既にこの世にはいない。


久美子の死は「不幸な事件」として取り扱われ、それで終わりだ。


十余名もの死傷者が出ているため、世間では大きく報道されたが、事故から二週間たった今では、報道陣が取材に訪れることもなくなった。


もちろん、研一が取材に応じることは一切なかったが、葬儀場まで詰めかけてカメラを向け、マイクを向ける「手」には、人の死を心の底から悼む想いはとうてい感じられず、事故から立ち直れずにいる研一の心はより深い澱みの中へと沈んでいった。


盲目の老婆が横断歩道を渡る手助けをした久美子の姿は、さもありなんと心に描くことができる。


その行動は、他人に関わらないことが当然という今の風潮の中、称賛あって然るべきだろう。


研一もそう思う。


だが、一人の親の立場では悔しい、という思いしかない。


目撃者の話では、老婆に話しかけた久美子は、渡れていた青信号を気に留めることなく、一緒に渡ろうと、次の信号を待ったそうだ。



――なぜ、老婆に話しかけた



――なぜ渡れた青信号で渡っておかなかったんだ



何度、身を捩る想いに気が遠くなりかけただろう。

むろん、無免許でドラッグをキメながら運転していた若者への怒りも大きい。


危険ドラッグなど今風の軽い言葉に置き換え、だが下手をすれば覚醒剤よりもたちが悪いとされる薬物を法律の限界を言い訳に撲滅できない司法への怒りも、そしてその司法の一員でいながら何もできない、何もできないことが「分かっている」我が身への怒りも、毎日積み重なっていくビールの空き缶の山に比例するように大きくなっていった。


しかし――そうした後悔と怒りの感情は、涙が枯れるのと同じころに湧きあがらなくなった。



(久美子に会いたい)



ここ二日間は、そればかり考えている。



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