2-5 二つ目のジャッジメントの始まり(5)
◆◇◆◇ 20XX年6月21日(一日前の出来事) 東京都 忍の店
顔を両手で覆ったまま、長い時間が経っていた。
夜も随分と更けていた。
だが、取引銀行から手形が決済できなかった連絡を受けた忍には、もう時間が過ぎることは、たいしたことでなくなっていた。
全てを無くしてしまった……
来月にはこの店も明け渡さなければならない。
すぐに差し押さえが来るだろう。
結局、一度も店を再開することはできなかった。
少女の両親が提出した告訴状受理されなかったが、提出された、という事実は報道された。
電話も再び頻繁にかかってくるようになり、店には中傷する紙が張られ、ウィンドウガラスは投石によるヒビがいくつも入っている。
落書きもされた。
店が高級住宅地の近くにあったことも、一度、こうした悪い話題が広がった場合には災いした。
お得意様だった近隣に住む上場企業の社長婦人からは、いったん店を閉めて時間を置いてから、店の名前と場所を変えて再開したほうが良い、とアドバイスを受けた。
だが忍のことを思ってアドバイスしてくれたのではなく、本来なら静かなはずの家の近隣を、マスコミが徘徊する現状が気に入らなかったのだろう。
今の忍にとって、他の地で店の名前を変えて出店し直すことなど、資金的に不可能な状態だった。
そこで、なんとか店にある品を転売して資金繰りを行おうとした。
しかし、傷がついた店の名前ではオークションに出しても高値はつかず、ましてバイヤーには思い切り足元を見られた。
それでも4ヶ月間は頑張った。
マスコミが頻繁に訪れていたのも一ヶ月間だった。
凸電はつい最近まで時々あったが、一週間ほど前に起きた全国同時多発車両停止事件以降はまったくかかってこなくなった。
だが――もう、店には売れる品が、何一つ残されていない。
店、そして自宅の土地と建物は、銀行からの借り入れどころか、街金からも資金をひっぱったので、売却しても借金しか残らない状況だった。
そして今日、不渡りという最後通告を銀行から知らされた。
事実上の倒産。
借入金に個人保証もしていたので、忍自身の破産は免れないだろう。
いや、街金から借りた金は、相手が相手だけに、破産しても事実上、免責はできないだろう。
本当に――本当に、何も残っていない。全てを失った。
「私のお城が……」
両手の間から、うめくような忍の声が漏れてくる。
どうして――どうして、こんなことになったのか。
忍は万引きした少女を咎めようと思ったわけではない。
まして、猥褻な行為など考えてもいなかった。
ただ、諭そうとしただけだ。
人は誰だって間違いを起こすことはある。忍にだってある。
それが犯罪なのか、ちょっとしたゴミのポイ捨てなのか、犯した間違いのレベルに違いはあるかもしれないが、間違いを犯した事実に変わりはない。
ならば、次にそうした間違いを犯さないことこそが大切だと思う。
そして、子どもの場合は特にそうした間違いを犯さないよう、周囲が見守って導くことも大切なことではないのか。
少なくともこれまで忍はそう思ってきた。
だが世間は違っていた。
一つの出来事を面白おかしく騒ぎ立てて事態を大きくし、事実でないことを事実として認めようとする。
忍の店にかかってきた電話の中に「たかが万引きぐらいで、子どもを追い込んでどうするの!」というのがあった。
だが忍には、少女を追い込む意思などまったくなかった。少女が、心から反省してくれれば、警察に通報することなく帰していただろう。
なぜ、そんなことを言われなければならないのか。
しかも、たかが万引きと言うが、万引きは犯罪行為だ。
責任能力がなくても、その行為自体が店に損害を与える犯罪であることに変わりはない。
子どもだから、責任能力がないから、悪いことをしても許さなければいけないのか……
全てを失った絶望感の中で、忍の心に、どす黒い何かが込み上げてくる。
それは、怒りと悲しみが強く入り混じった感情だった。
大切な「お城」を失った悲しみ、そして失わせた何かへの怒り――
顔を覆った両手を外すと、その手は赤く染まっていた。
いつしか涙を流していたのだ。それも血の涙を。
正面のキャビネットに目を向けると、頬に異様な赤い筋をいくつもつけた顔が映っていた。
だが、忍はそんな自分の姿に愕然となる前に、前に置かれたパソコンの画面に目がいった。
黒い画面に、白い文字。
「日本ジャスティス実行財団のホームページへようこそ」
確か、銀行からの電話がくる前にパソコンをつけていたが、ブラウザは立ち上げていなかったはず……
ふと気がつくと、窓には薄明の光が見える。
時間の経過に気づかず一夜を過ごしたようだ。
もっとも、一夜も二夜も、全てを失った今の忍にとってあまり大きな意味はない。
無駄な時間すら体感できなくなった。
なぜならこれからの時間は全てが無駄になったのだから。
黒色は他の色の中でこそ分かる。
黒色の中で黒色は存在意義を失ってしまう。
ぼんやりとしたたまま、特に意識もせず、忍は画面の下に位置した「Enter」のボタンをクリックした。




