1-20 一つ目のジャッジメントの検証(5)
◆◇◆◇ 東京都 八王子の研究所
警察庁がある霞が関から、地下鉄とJRを乗り継いでやってきたのは八王子市。
JR八王子駅の改札を出て、南北をつらぬく駅ビル二階のコンコースを北口方面に向かう。
ロータリーに降りて、タクシーに乗ると恭介が運転手に行き先を告げた。
タクシーは、駅の正面から伸びた大通りを進み、浅川大橋を越えて、長いトンネルに入った。
トンネルを抜けると中央自動車道、八王子インターの看板が目に入った。そのままさらに直進すると、景色が一変して緑豊かな山が見えてくる。
その山沿いをしばらく進んだところで、タクシーは止まった。
三階建てで古ぼけた外観のビルには「八王子超常現象研究所」の看板が出ていた。
無論、看板にも赤さびが浮いている。
博巳には、まともな研究所に見えなかった。
ギーッ
外階段を上がった二階にあるホコリまみれのガラス戸が、きしんだ音を立てた。
ホコリの厚さを見ると、おそらく年単位で掃除されたことがないのだろう。
廊下は薄暗く、夜は本当に超常現象が起きそうだな、と博巳は思ったが、廊下の突き当たり右側にある八王子超常現象研究所の部屋は、外の雰囲気とは違い、整然と壁に並んだ本が威圧感を与える大学の学長室のような雰囲気を持っていた。
どちらかというと、本や書類が雑然と積み上げられた大学の研究室をイメージしていた博巳にとって少々、拍子抜けだった。
ノックもせずに部屋に入った恭介たちを、正面の大きな木彫の机に座った部屋の主が、顔も上げずに声だけで迎えた。
「今少し調べ物があるから、座っておれ」
恭介は「はい、先生」とだけ答えて、博巳を促して、机の前の応接セットに座る。
手持ちぶさたの博巳は、部屋の壁をびっしりと埋める本棚を眺めた。
専門書なのだろう、英語以外が背表紙に書かれた書物も多い。
中には象形文字としか思えない文字が書かれた本もあった。
やがて、白髪、白ひげの、これだけは博巳がイメージしていた風貌と一致した、少し気難しそうな老人が「待たせたな」といって正面のソファに腰かけた。
たぶん縦長の黒い帽子をかぶれば、易者と見間違われるだろう、と博巳には思えた。
「お久しぶりです。易化先生」
恭介が軽く頭を下げる。
部屋の主、八王子超常現象研究所所長、易化一二三は「一年ぶりなのに、土産の一つも持ってこんとはな」と憎まれ口を叩くが、言葉とは裏腹な温和に恭介を見つめる目を見れば、師弟の関係は容易に想像できた。
近況を報告し、軽い世間話が少し続いたあと、恭介は切り出した。
「ところで先生、用件ですが――」
「ああ、今、テレビで話題となっておる事件のことだな」
一二三老は頷くと、軽く腕組みして目を閉じた。交わす言葉は短かったが、互いが互いの意思を十分に分かっているのだろう。
横で博巳が聞いていてもテンポ良く進む会話に嫌味はない。
「物理的に起き得ないことが、発生したのはなぜでしょうか?」
恭介の問いに、少しの間を置いてから一二三老は目を開けた。
「多野くん、物理的にあり得ない、とはどういった意味合いを指すと思う?」
「意味合い、ですか?」
「そうだ」
今度は、恭介がしばらく考えた。
「一言で言うならば、常識的にあり得ない、ということでしょうか?」
物理の法則は、科学の根幹をなしているといってよい。
もちろん、後に新たな発見があって、その法則が変化することはあるだろう。
だが、少なくとも現在行われているさまざまな研究や技術の開発は、現時点における物理の法則を基本にして組み立てられたものだ。
つまり、現時点における「常識」と置き換えることができるだろう。
そういったことを恭介は一二三老に説明した。
「そうか――では多野くん、ちょっと立ってくれ」
一二三老が何を言いたいのか理解できずに、恭介はソファから立ち上がった。
横で聞いている博巳も不思議そうな顔をした。
「立ちましたが、これが何か?」
「どうだろう、君は今、動いておるか?」
「いえ、動いていませんが」
「いや、君は動いておる」
一二三老が何を言いたいのかが、恭介には分からなかった。
確かに厳密に言えば、完全に静止することなどできやしない。
呼吸をすれば胸は膨らむし、まばたきもする。
そのことを言っているのだろうか?
だが、一二三老は恭介の考えとは全く違う答えを示した。
「地球は自転も公転もしているからな」
ハッと恭介は気づいた。
確かに、見かけ上は静止して見えても、宇宙を細かく区切り、それぞれの位置を座標で表せば、自転、そして公転している地球上にいる場合、常に異なる座標に移動していることになる。
地球の自転速度は緯度により異なるが赤道上で時速約1,700キロメートル。
公転速度は時速約10万キロメートルだ。
もちろん慣性の法則が働いているので、その自転や公転速度を体感できることはないが、体感できないからといって、移動している事実そのものは否定できない。
「多野くん、昔話したことがあるから覚えておるだろう。オルバースのパラドックスを」
「何ですか、オルバースのパラドックスって?」
横から博巳が聞いてくる。
確か、オルバースのパラドックスとは、宇宙の広さが無限で、光を放つ恒星も無限にあるならば、宇宙は光で満たされているはずで、夜空が暗いのと矛盾する、といった内容だったはず。
記憶を思い起こしながら、恭介は簡単に博巳に説明した。
「だが、今では宇宙学も発達してパラドックスが成立するためには、今の十兆倍以上、星の密度が必要になると分かっている。
だから、夜空が暗いのは、何もない無限の空隙や見えない星があるためではなく、百億年以上前のビッグバン後しばらくたった原初の宇宙の姿のせい、とされていたはずだ」
博巳にはよく理解できなかったが、夜空が暗いことは今の科学で証明されている、ということなのだろう。
「じゃあ、その謎はもう解明されている、とういことですよね?先生」
「そういうことだ。しかし、このパラドックスが成立するためには、137億年前にビッグバンが起きたとすることが前提となっておる。
さらに現在も宇宙が膨張をしておる、ということも必要な条件となっておる」
「でも、それが現在の宇宙学の常識でしょう。仮に新たな発見があって、いずれその説が覆されることがあったとしても、夜空が暗い、という事実は変わらないのではないでしょうか?」
恭介の言葉に一二三老は頷いた。
「そこだ。夜空が暗い、という事実はいかなる理由づけをしようとも変わらない、というところが大切なのだ」
博巳が首を傾げた。恭介にも、一二三老の言葉の意味が理解できない。
「今回の件も、大切なのは、常識で考えられない車両が停止する現象が起きた、という事実だけだ。そこに至る理由など、現在、我々が得られている知識で分からなくても大した問題ではない、ということだ」
「ということは、今回の事件が起きた現象の原因を突き止めるより、車両が停止したという事実を重視しろ、ということですか」
一二三老は頷く。
「そうだ。正しく言えば、我々の知識、常識で理解できない事象が起きたことを重視した方がよい、ということだ」
博巳が一二三老に尋ねる。
「でも、それでは事件は解決しないでしょ?」
そして、一二三老が博巳の方を向き直って言った一言に恭介は背筋が凍った。
「君は、単発の事件だとでも思っておるのかね?」
まさか……
「同様のことが起きないと、なぜ言えるのかね?」
博巳も意味を理解したのだろう。
表情が固まった。
そのとき、恭介の携帯電話が鳴り出した。
画面に通知されている番号は、調査課のものだった。
このタイミングで鳴った電話に、不吉な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは、課長の震える低い声だった。
「多野、新しい書き込みが現れたぞ」
まさか!
「先生、すいません、パソコンを借ります」
一二三老の同意を待たずに正面のデスクに回り込むと、起動したままのパソコンからブラウザを立ち上げ、例の掲示板を検索する。
そして、板の一番上にあった適当なスレッドをクリックした。
横から一二三老と博巳が覗き込む。
すぐに書き込みが目に入った。
内容を一読した恭介は絶句した。
「こ、これは――!」




