1-1 サイバー特別調査課(1)
◆◇◆◇ 20XX年6月11日 東京 警察庁サイバー特別調査課
カタカタカタカタ――
キーボードを叩く軽快なリズムが部屋に響き渡る。あちらこちらから聞こえてくるその音は、協調した音色ではないが、耳障りでもない。
多野恭介は、その警察庁サイバー特別調査課の部屋で、パソコンを操作していた。
日本の警察組織の中で、サイバー犯罪に取り組んでいるのは、主にサイバー犯罪対策室と呼ばれる組織だ。
各都道府県の警察本部内にある、生活安全部に設置されている。
出会い系サイトの摘発、不正アクセスやフィッシング詐欺など、ネット上で起きるさまざまな犯罪の取り締まりや、サイバー犯罪予防の広報活動まで、幅広い役割を担っている。
だが、サイバー犯罪対策室は「現実に起きている犯罪」に対応するための組織だ。
いわゆる既知の犯罪、現在進行形の犯罪を摘発するために存在しているのだが、未知の犯罪や、将来、犯罪を形成する恐れのある事案に対してまで捜査権は及ばない。
もちろん、そうした犯罪予備軍的な情報を放置することはないが、関係部署に連絡するに留まる。
そうした犯罪予備軍と推定される初期情報を調査するのが警察庁サイバー特別調査課だ。
課員は数名だが、淡い情報から犯罪を推測しなければならないため、サイバーの専門家ではなく、プロファイルや心理学に優れた捜査員が全国各地の警察から出向の名目で集められていた。
そのため、組織は警視庁ではなく警察庁の中に置かれている。
全国各地の警察、そしてサイバー対策室から送られてくる雑多な情報から、今後、犯罪に結びついていく可能性が考えられる情報を見つけるのは至難の業と言ってよいだろう。
なぜなら、全国各地から寄せられる情報は毎日数百ある。
芸能人の薬物犯罪から、宗教団体のテロ情報、隣の老人が大量殺人のために武器を作っている、かかり付けの医師のそっけない態度は自分を新薬の実験台にしているのではないか――こうした情報の多くは、SNSで発信されたり、ブログや掲示板などに書きこまれたものだ。
しかし99.9%は作り話か誹謗中傷、あるいは先走りといった類のものだ。
さらに、推定される犯罪のレベルも、寸借詐欺程度のものから大量殺人まで幅広い。
中には地震や隕石落下などの予言もあれば、宇宙人やゾンビが襲ってくるといった明らかにフィクションの情報もある。
だが、その情報を書いた人間が一定の地位にいる場合には、その地位に見合った犯罪が生じないかを推定しなければならない。
例えば、大手飲料メーカーの工場責任者が、海底から新生物が襲ってくるから、対応する準備が必要などというブログを書いた場合、
・もしかして、何らかの妄想に取りつかれているのか?
・もしかして、工場で生産している商品に何らかの異物を混入する恐れがあるのか?
というように、犯罪が起きないかを想像し、推測する必要がある。
調査課が設立されてから数年。
細かな案件の成果はあったが、個人や企業レベルのものだ。まだ、社会的に大きな影響もたらすような犯罪の摘発に至ったことはなかった。
というか、果たしてこんな想像だけで、しかも無理やり荒唐無稽な想像を組み立てて、それが実際の犯罪として芽生え始めていることを捉えることができるのかを恭介は疑問に思っている。
だが公務員は無情だ。上からの命令には従わざるを得ない。
「主任、一服しに行きましょう」
向かい合ったデスクに座る小野田博巳が、凝った肩をぐるぐる回しながら、声をかけてきた。
昔は、デスクでタバコが吸うことが許されていた時代もあったが、禁煙の権利を主張する輩の勢力は強く、公務員は庶民の模範となるべし、といった通達で、いつしか、別室に押し込まれて燻されるようになってしまった。
ならばせめて喫煙ルームに高性能の空気清浄機を置いても罰は当たらないではないかと思うのだが、国民から頂戴する税金で成り立つ役所に、そんな予算が配分されることはまずない。
他の省庁では、屋上の「露天喫煙ルーム」しか与えられないところもあると聞くと、うちはまだましな方か、と慰めるしかない。
さらに、いずれは役所内での喫煙は全て禁止される方向にあると聞く。
ストレスの発散を、紫煙をくゆらすことに縋ってきた輩には、辛い話だ。
「そうだな」と首を軽く回してから立ちあがった恭介は、博巳と連れだって、部屋を出た。
警察庁は、霞が関二丁目にある中央合同庁舎二号館の一角にある。総務省が管理するビルで、2000年に竣工したまだ新しい建物だ。
警察庁の他に、消防庁や運輸安全委員会、海難審判所などが入居している。
恭介は42歳。
もう中堅といってよい年齢だ。
長身で軽くウェーブがかかった髪が顔立ちをハーフっぽく見せている。
若いころ街を歩いていると「ホストになりませんか」と声をかけられたこともある。
並んで歩く博巳は29歳。
恭介とは対照的に短く刈り上げた髪は、さわやかなスポーツマンのようだ。
他愛もない会話をしながら、階段を上り、一つ上のフロアの奥にある喫煙ルームに行くと、先客がいた。
課長だ。