プロローグ
◆◇◆◇ 管理者の世界
淡いうっすらとした霧が広がるなか、虹色に渦巻く球形がいくつも浮かんでいる。
点在する球形は、全て地上1メートルぐらいに浮かんでいた。
大きさは直径が数メートルはあるだろう。
かなり大きな球形だ。
その球形の一つ、他と比べて虹色の輝きが薄く見える球形の前に、一人の女性、リズがたたずんでいた。
手にはタブレットのようなボードを持っている。
細めのメガネをかけ、有能な秘書を思わせる髪を束ねた端麗な美形の若い女性。
白衣を着ているため研究者のように見える。
小さなため息をついて、リズは考える。
吐く息に白いものは混じっておらず、漂う霧は見た目ほど寒くはないようだ。
球形は、一つ一つが独自の「世界」を構築している。
球形の内部では、その内部で決められた複雑な世界のルールに沿って、「生き物」が生まれ、そして滅んで行った。
それはまるでコンピュータ内のバーチャル空間のようだった。
そして、今、リズの目の前にあるのは、一番最初に作られた球形だ。
ボードで球形の中を探ると、「地球」という星に多くの生物が活動していた。
だが……
鈍くなり始めている虹色の渦。
今、この球形内の世界では、「終わりの始まり」が始まろうとしていた。
虹の渦巻きの動きと色合いは、その世界の活動状況と寿命を示唆している。
球形内は、コンピュータのメモリのように、有限の「リソース」を使って構築されている。
世界の寿命とは、使えるリソースの量とイコールの関係だった。
リソースをもっとも消費するのは、人類の記憶=歴史だ。
記憶=歴史を代々にわたって引き継がない動物や植物のリソースは、その生き物の寿命が終わればクリアされる。
人類が歴史を紡ぐことができるのは、リソースで記憶していくからだが、そこで使用する量は、紡がれる歴史が長くなればなるほど、一方的に消費されることになる。
そして、目の前の球形が彩る薄く鈍い虹の色。
「終わりの始まり」が始まれば、球形内の時間で見ると、100年ぐらいでリソースは消費されつくすことになるだろう。
球形内の世界は、大きく分けると二つに分類される。
魔法文明と科学文明だ。
そして、地球が存在している世界では、科学文明が築かれていた。
球形同士は異世界の関係にあるが、管理者は内部の生命体を移動させることができる。
「危機(リソース不足)」に直面した世界に刺激を与えるのは、異世界の力だ。
違う世界の理に従っているため、異世界ではチートな能力を発揮させる生命体が多いからだ。
そして、魔法が使える魔法文明の方が、そうしたチートな能力を発揮しやすいため、異世界への転移先は必ず魔法文明だった。
これまで、科学文明に転移させたことはない。
魔法が使えない魔法使いの役割など知れているからだ。
もっとも、球形のほとんどが魔法文明だったことも関係しているのだが……
だが、今回、危機を迎えようとしているのは科学文明で構築された世界だ。
リズは考える。
世界に刺激を与えるのであれば、やはり魔法文明の力の方が良いはずだ。
そして異なる理を持ちこむのなら、やはり強大な力が必要だろう。
そういえば、確か、あの魔法文明では「灰色の雫」が凍結されていたはず。
世界の寿命と人類の寿命。
そして、リズは「世界の管理者」だ。
人類の寿命は人類にとっては重要だが、世界にとってはさほどのことでもない。
逆に、世界の寿命は、世界と人類の両方にとって重要になってくる。
相反する二つの寿命……
リズは小さくうなづくと、灰色の雫を「地球」という世界に垂らすための準備を始めることにした。
◆◇◆◇ 20XX年6月1日 東京都 あるビルの屋上
空を見上げると、赤い点滅がゆっくりと星の間を移動していた。おそらく、この時間だと最終便だろう。
視線を正面に向けると東京の摩天楼が煌めいている。
遠くない位置には、東京スカイツリーがオレンジ色を中に閉じ込め白く浮かび上がっている。今は何のイルミネーションを行っているのだろうか……
彼は、屋上から見るこの夜景が好きだった。
不規則な瞬きの灯に埋め尽くされるビル群は、神秘的で、かつ夜空の向こうに広がる宇宙と不思議なくらい調和していた。
昨日、突然「使命」を受け「同化」した。
その瞬間、一瞬が永遠となり、有限と無限の境界線は限りなく薄れていった。
膨大な情報を受けた彼は、わずかな時間混乱し、そしてそれを受け入れた。
これまで、そういった「存在」が実在するとは思ったことはなかったし、当然、自分がそういった「存在」になることを想像したこともない。
だが今は違う。
自分が「同化」したことで何者になったのか、これから何をしなければならないのかは明快だった。そして、何かを行うための手段は彼に委ねられていた。
与えられた「使命」を、どういうプランで実行するのか、おおよその筋道は決めていた。
同化して得られた力は、無限ではなかったが、その使命を達成するには十分な力だ。
どのような形で終結するかは分からないが、時間は、まだたっぷりとある。
自分は白いキャンバスを用意するだけだ。
そこに誰がどういったデザインを描くのかは自然の流れに任せてよいだろう。
世界の理は、彼が行える理の外側にある。
そこに干渉することはできても、操ることはできない。
それは、いやというほど経験させられた。
彼は、与えられた「使命」を実現できるように、ただ導くだけだ。
もっとも――当事者として導くためには、普段は「意識」を閉じておくことが必要だろう。でないと、不要な導きを行いかねない。
もう一度、摩天楼を眺めた。
「美しい…」
思わず彼は呟いていた。
彼が好きなこの風景を失うことを想像すると、かすかな憐憫が心をよぎる。
だが、だからといって彼が「使命」を放置することはない。なぜなら、彼はそのために「ここ」にいるのだから……
頭上からは、静寂を纏った月の灯が降り注いでくる。
耳を澄ますと、眼下を流れる無数のヘッドライトから放たれる光が、河の流れを作り、そして籠った重い調べを奏でていた。その調べは、本来なら聞こえるはずの深々とした星々のざわめきを呑み込んでいる。
彼は、使命が求めるものと自分が抱える想いの矛盾に、かすかに顔を歪めた。
摩天楼の輝きが彼の心を震わせ、そして月の灯を阻む。
タバコを取り出して火をつける。
屋上の少し強い風が、紫煙を真横へとなびかせた。