悪役令嬢のお兄様
完全に、あの人の存在を忘れていた。
ラズライト・オルティス
私の一歳上の兄で、オルティス侯爵家の嫡男のことだ。
ラズ兄様の存在を思い出したのは、つい先ほど。ダイニングに向かおうと、部屋のドアを開け、廊下に一歩踏み出そうとした時のことだ。
「%#$*!!」
その瞬間、私の視界の隅に捉えたのは、廊下の遥か遠方を歩くラズ兄様の姿だった。一瞬にして、その人がラズ兄様だと分かった。
声にならない声を押し殺し、脱兎の如く後退りして部屋に戻り、私は静かにドアを閉めた。
「有り得ないわ! どうして今の今まで、私はラズ兄様の存在を忘れていられたの!?」
同じ屋敷に住んでいるのに、会わないなんてことが有り得るのだろうか。
お父様やお母様のように仕事で忙しく駆け回っているのなら話は分かる。けれど、ラズ兄様は私の一歳上の11歳。普通ならあり得ない。
「もしかして、無意識に避けていた? 私とラズ兄様って、すっごい仲が悪かったのかしら? いや、まさかね……」
あはは、と苦笑いしつつも、答えは出てこない。どうしてなのか、ラズ兄様と遊んだ覚えがない。
「やっぱり、仲が悪いのかしら? ……せっかくの兄妹なのに、そんなの絶対に嫌だわ」
家族なのに、いないと同じだなんて、そんなの寂しすぎる。会えるのに会わないなんて、そんなの悲しすぎる。
「私はラズ兄様と仲良くしたい……」
それに、このまま何もせずに野放しにはできない事情もあった。
乙女ゲームには、ラズ兄様も出てくるからだ。
ラズ兄様は攻略対象者でもないのに、ほとんどのストーリーに深く関わってくる。乙女ゲームのサファイアにとって、とても厄介な人物として。
レオナルド王子ルートでは、ヒロインにやたらと粘着し、兄妹揃って不敬罪で斬首される。
ワイアット様ルートでは、サファイアを暗殺する実行犯のシルエットが明らかにラズ兄様だ。
イーサン先生ルートでは、留年したラズ兄様がサファイアとともにヒロインに意地悪をして一家没落。
ルーカス王子ルートは、もちろん分からない。
「うわぁ、ラズ兄様って、本当に救いようのない人ね」
もちろん乙女ゲームの中のラズ兄様が、だ。現実のラズ兄様はそんな人ではないと信じたい。
けれど、ここまで思い出して、私はもしや、と重大なことに気付いてしまった。
「私が断罪されるのって、ラズ兄様が原因だったりする?」
たらり、と背中に冷たいものを感じた。
「そもそもの元凶はラズ兄様で、サファイアはその被害者かもしれないってことはあり得るのかしら?」
……と言いたいところだけれど、あり得ないと思う。責任転嫁はいけないし、それを言うなら、間違いなくラズ兄様が被害者だ。
この乙女ゲームの悪役はサファイアだ。それは変えようのない事実。断罪されて、破滅エンドを迎えるのは、未来の私だ。
だからこそ、余計に思う。
「せめて、ラズ兄様が不幸にならない未来はないのかな?」
血の繋がった妹としては、私の断罪される運命に巻き込むことなく、ラズ兄様には破滅エンドとは無縁の幸せな人生を歩んで欲しい。
「なんて兄想いの優しい妹なの!」
私にも人を思いやる心が芽生えてきたのかもしれないと思うと、俄然やる気がみなぎってきた。
「ラズ兄様には幸せになってほしいわ。なんてったって、前世の私もラズ兄様のことがお気に入りだったものね」
乙女ゲームの中のラズ兄様は、顔だけなら攻略対象者を凌ぐほどの人気があった。もう一度言う“顔だけ”だ。
ラズ兄様が格好良いと思うこと、それは、前世の私も例外ではない。正直に言うと、今の私も、ラズ兄様の顔が大好きだ。超絶イケメンだと思う。
それなのに、ラズ兄様にはその人気をどん底にまで下げてしまう原因となる“あること”が存在してしまう。
それを思い出しただけでも、ため息しか出ない。いや、身震いもしてくる。
「あれは、本当に目に毒だわ」
心穏やかに私の終活を遂行するためにも、ラズ兄様の明るい未来のためにも、どうにかして“あること”に繋がりそうな予兆は、一刻も早く全て排除しておかなければならない。
「うぅっ、出来るかしら?」
先ほど、チラリと見たラズ兄様の様子からすると、まだ“あること”に繋がりそうな予兆は見られなかった……気がする。
「だとしたら、まだ間に合うわ!」
一筋の希望の光が見出され、私は足早に自分の部屋を後にした。
善は急げ、という前世の言葉のとおり、私は今、ラズ兄様の部屋の前に立っている。
朝食の時間に遅れるのは申し訳ないけれど、今はラズ兄様のことの方が最優先事項だ。
右手を強く握り締め、ドアをノックしようとしたその瞬間、その声は私の耳に届いた。
「そこにいるのはサフィーだね。入っておいで」
「!?」
(まだノックもしていないのに、どうしてわかったの? しかも、私だって……)
驚きを隠せないまま「はい」と返事をした私は、意を決してラズ兄様の部屋のドアを開けた。
そこには、決して見てはいけないものが、私を待っていた。