暗闇の中の光
「い、いやぁぁぁぁ!!」
暗闇の静けさの中に、私の叫び声だけが響き渡る。目の前で繰り広げられる絶望の闇に、私の意識は捉われて、身体が動かない。
命をかけてまで「逃げろ」と言ってくれたその言葉だけが、私の頭の中を反芻する。そして、その場に崩れ落ちた。
(私が、あの優しい手を離さなければ、しっかりと掴んでいれば……)
私の瞳は、今もずっと絶望の闇を捉えて離せないでいた。捉えてはいるものの、視点は滲んで合うことはない。
次から次へと大粒の涙が零れ落ち、それでもなお、ずっとその闇の中心から、逸らすことができないでいた。
「!?」
突如として、その滲んだ真っ暗闇の世界の中心から、一筋の光が放たれ始めた。
次第に金色の煌めきと青白い光が、まるで薄明光線のように放たれ、辺り一面に目も眩むほどの光が広がっていった。
その光は神秘的でいて、それでいて優しい光。
その光が消える頃には、獣型の黒いドロドロとした物体も、まるで何もなかったかのように、消え去っていた。
私の滲んだ世界の中心には……
(いた、生きていた……ジェイド……)
短剣を構えたジェイドの姿を目の当たりにして、さらに涙が止まらなくなっていた。
そして、そんな私のもとにジェイドが駆け寄ってきてくれた。
「サフィーお嬢様、大丈夫ですか? お怪我は?」
「うぅっ、う、うぐっ……ジェイドっ」
目の前にいる人を、私はぎゅっと抱きしめた。
(もう離したくない、いなくなるのが怖い……)
座り込んだまま、ジェイドに抱きついている私に、優しく囁いてくれる。
「私は、大丈夫ですよ。ご心配おかけしてすみません」
「うっぐっ、……本当?」
抱きしめていた手を緩め、ジェイドから少しだけ身体を離し見上げる。翡翠色の瞳は、優しく弧を描き、私を映してくれていた。
そっと私の涙を拭ってくれた指先が温かくて、ようやく私の心は落ち着きを取り戻しはじめた。
「これの、おかげです」
そう言いながら私に見せたのは、ジェイドの持つ短剣に付いているお守りの石だった。
粉々に砕けながらも、未だその場所で微かな輝きを放っているようにさえ感じられた。
「おまもりの……石?」
「はい、詳しい話はまた後で。立ち上がることはできますか?」
今の私たちに、悠長に話をしている余裕などなかった。
黒い獣型のドロドロとした物体に気を取られている間にも、巨大な黒いドロドロとした凶々しい物体が私たちを追いかけてきており、すぐそこまで近付いて来ていた。けれど、
「無理かも……」
全身の力が抜けてしまっていた私の足は、全く言うことを聞かず、立ち上がることさえもできなかった。
「失礼します」
「!?」
「本当はお姫様抱っこをしたいところですが、本気で逃げますので、我慢してください」
ジェイドは私を肩に担ぐように抱き上げ、思いっきり走り始めた。
(これって、お米様抱っこじゃないの! これはこれで恥ずかしいわ。けれど、そんなこと考えている場合じゃないわ!!)
ジェイドは私を担ぎながら、本気で森の中を駆け抜けた。
『サフィー!!』
いつの間にか森を抜け、浜辺まで出てきたところで、アオが助けに来てくれた。
ゆっくりと下ろしてもらうと、私はもう自分の力で立ち上がれるようになっていた。
「アオー!! 助けに来てくれたのね」
アオの声のする方、海の方向に振り返り、私は走りだそうとした。
「サフィーお嬢様っ、海はだめです!」
私の手はジェイドに掴まれ、足を止める。そして、海の方を見た。
「え? 巨大なイカ?!」
森の向こう側の海、ラズ兄様が行ってはいけないと言っていた魔物が出る海に、私たちは来てしまっていた。
(そうだった。夜の海には近付くなって言われていたわ。もうどこにも逃げ場がないじゃない!)
絶体絶命。目の前には巨大なイカ、後ろからは巨大な黒いドロドロとした凶々しい物体……
私たちには、もう為す術どころか、逃げ場さえも失っていた。
「どうしよう、このままじゃ、みんな死んじゃうわ」
「「!?」」
すると、私たちの目の前に、突然あの黒猫ちゃんが現れた。本当に一瞬で……
「黒猫ちゃん?」
まるで瞬間移動でもしてきたかのように、突然現れた黒猫ちゃんに、私とジェイドが驚いていると、さらにその驚きを上回る出来事を目の当たりにした。
「え? ラズ兄様!?」
黒猫ちゃんが、突然ラズ兄様に姿を変えたのだ。
「ど、どういうこと? なんで黒猫ちゃんがラズ兄様に変身したの?」
(あり得ない。普通なら猫に姿を変えるなんて出来っこない。普通じゃない……)
「説明は後だ。そこの“青いの”は、もうやるべきことは分かってるだろう? グズグズせずにさっさとやれ。クラーケンは俺がやる。お前はもう腹を括れ」
いつものラズ兄様じゃないことにすぐに気がついた。だって、話し方も違うし、アオのことを青いのと言っている。
それに、ラズ兄様の瞳の色が綺麗なほどの真紅色だった。
(一体、この人は誰? 何が起こってるの?)
『サフィー、ジェイド、こっちへ来て』
驚きを隠せずに呆気に取られていた私は、アオの言葉にようやく我に返り、アオに促されるまま、ラズ兄様のいる場所から離れた。
「アオ、そっちには巨大なドロドロが! どうしよう? アオ、これはどういうことなの?」
『あれは間違いなくアンデッドの一種だよ。光魔法がないと戦いようがないんだ』
アンデッド--魔術の禁忌の一つでもある闇の魔術により召喚された魔物の類。
私たちが使う四大(火土水風)属性魔法は効かない。倒すには、希少と言われる光属性魔法が必要になってくる。
「じゃあ、さっきのジェイドの短剣のお守りの石には、光魔法が込められていたってこと?」
驚く私の隣では、ジェイドが自分の持つ短剣を抜き、その短剣に魔力を込めようとしていた。
「やっぱり、俺だけでは使えない……」
「ジェイド?」
「アオ様、サフィーお嬢様を連れて逃げてください。ここは私が囮になって少しでも時間を稼ぎますから」
「だめよ! ジェイドも一緒に逃げるのよ!!」
ーーーーピカッ、ドォォォォンッ!!
その時、海の方で眩しいほどの稲妻と同時に雷鳴が轟いた。
「ラズ兄様が危ないわ!!」
『サフィー大丈夫、向こうは終わったみたいだよ。こっちも早くしなきゃ』
「早くするって? どうにもできないのよ? だから、みんなで早く逃げよう」
『ジェイド、もう分かってるんでしょ?』
「はい。アオ様、俺は覚悟を決めました。でも、アオ様は、本当に俺でいいんですか?」
『ああ、ジェイドのことを主として認めるよ。ただし二番目の、だけどね。ただ、分かってるよね? 本契約をするには……』
「本契約? でも、ジェイドには記憶がないから……」
本契約には、名前(本名)が必要になるのだから、記憶がないジェイドには無理だ。
記憶がないから自分の本名が分からないよ、と言おうとした私の言葉を遮るように、ジェイドがアオに叫ぶ。
「構わない! 俺は自分が地獄に落ちてもサフィーお嬢様を守るって決めたんだ!」
『分かった。すぐに始める。我が名はアオ、其方を主と迎える、其方の名を申せ』
ジェイドは私の方を一瞬だけ見つめた。そして、唇を噛み締め、意を決したように、ゆっくりとその口を開く。
「俺の名は……ルーカス・ヴァン・チェスター」
ジェイドがその名を紡ぐのとほぼ同時に、アオとジェイドが青白い光に包まれる。
それは、仮契約の時に、二人を包んだ光とは似て非なるものだった。
眩いほどの金色のラメの輝きが、青白い光の上からさらに二人を包み込み、神々しいほどの光を放っていたのだから。
まるで、ペレス村の教会の礼拝堂で、お守りの石に魔力を込めた時のように、とても神秘的な光だった。
私の頭の中は真っ白になった。そして、真っ白な頭の中を、次第に考えたくもない疑問が占拠していく。
(ルーカスって、チェスター王国の第二王子の名前と一緒? それにジェイドは記憶喪失のはずよね? どうして? 今までのジェイドは全て嘘なの? 私の事を、騙していたの?)
『本契約は完了した。さあ、その剣に魔力を込めろ』
ジェイドはアオに促されるまま、自らの持つ短剣に最大限の魔力を込め始めた。
すると、短剣の刃が金色のラメの輝きを交えた青白い光に包まれ、光芒を刀身とする、まるで光り輝く長剣のようにその姿を変えた。
「できた……」
『なら、さっさと行くぞ』
アオも全身が金色のラメを纏った青白い光に包まれている。
ジェイドは、石碑の下から出てきた巨大なアンデッドに真正面から立ち向かい、紫電一閃、その光り輝く長剣を大きく振りかぶり、真っ二つにした。
その剣筋が青白い光の残像を作り出す。
すると、今まで全く攻撃の効くことのなかった巨大なアンデッドは、眩いほどの光に包まれ、まるで昇華するかのように、一瞬にして消え去った。
アオも、いつの間にか私たちの周りを再び囲み始めていた数えきれないほどの獣型のアンデッドを、片っ端からひたすら噛み千切り、爪で引き千切って行く。
そうして、あっという間にアンデッドとの戦いは終わりを告げた。
残されたのは、その場に呆然と立ち尽くす私だけ……
「サフィーお嬢様、今まで嘘をつていて、申し訳ありませんでした……」
ジェイドは私の前に立ち、深く頭を下げた。そのまま顔を上げることはなかった。
「ジェイド、が、ルーカス王子……?」
私の呟きが、力なく暗闇に消えていった……