他人のふり
「サフィー、入ってもいいかな?」
優しく囁くようなその声は、私の大好きな人の声だった。
「ルーカス王子! はい、まだ少し散らかってますが、どうぞ」
だから、とびっきりの笑顔で答えたのだけれど、部屋に入ってきたルーカス王子は少しだけ不満気な顔をしていた。
「サフィー、二人きりの時は敬語はいらないし、王子もいらないよ。今までどおりの口調で話してよ?」
「でも……」
「なんならジェイドって呼んでもいいし。それに俺たちはもう婚約したんだよ? 誰にも文句は言わせないから」
ね、いいでしょ? と甘えるように言われてしまったら、頷かないわけがない。
「ふふ、ではお言葉に甘えて! でも、さすがに王子は付けさせてね」
照れ隠しでルーカス“王子”と呼んでいることに気付いているらしく、分かったよ、と渋々納得してくれた。
はっきり言って、ジェイド呼びに慣れている私にとって、ルーカスと呼ぶこと自体が至難の業だ。油断したら間違いなくジェイドと呼んでしまうだろう。
何より、ルーカスという言葉を発する度に、家族として一緒に過ごしてきたジェイドではなく、一人の男の人として意識してしまうんだもの。
そんなことを考えながら、ちらりと目の前のルーカス王子を見ればばちんと目があって、しかも嬉しそうに微笑んでいる。
「何か良いことでもあったの? とても嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しくてたまらないよ。今日からいつでもサフィーに会えるんだから」
なんと私は今、アカデミーに通うために引っ越しをしているところだ。
肝心の引越し先は、と言うと、
「本当に王城に住まわせてもらってもいいの?」
「もちろんだよ。サフィーは俺の婚約者なんだから、良いに決まってる。本当は同じ部屋でも良かったんだよ?」
「同じ部屋!?」
途端に私の頬は赤く染まる。それを見たルーカス王子は悪戯が成功した子供のように笑っているではないか。
「もうっ! 揶揄わないでよ!!」
「俺は本気だったよ? でも、結婚もしていないのにさすがに同じ部屋はだめだって。だから、俺の隣の部屋にすることで譲歩したんだよ。もしかして嫌だった?」
「……ううん、私もルーカス王子が隣にいなくて、毎日寂しかったから」
今まではすぐ隣にいたのに、卒業してからは隣にいないどころか、滅多に会うこともできなかったのだから。
そんな私をルーカス王子はぎゅっと抱きしめてくれた。
一気に鼓動が跳ね上がるのと同時に、強く、優しいその温もりが私の心の隙間を満たしていった。
「ふふ、私、とーっても幸せ!」
「俺も。……でも、やっぱりサフィーと同じ部屋がいいな」
「うーん、それはやっぱりだめ!」
「残念」
そんな甘いやりとりをしていると、ごろりと寝そべりながら呆れたようにつぶやく声が聞こえてきた。
『はいはい。お二人さん。ボクがいることも忘れないでよね?』
ふーんだ、とそっぽを向くのは、もちろんアオだ。
「もう、アオったら何を言ってるの。アオのことを忘れるわけないじゃない!」
『どうかな? ボクが隣にいたっていうのに、サフィーは毎日寂しかったって言っていたじゃん。ボクは今とっても傷付いたよ』
いじいじといじけるアオが可愛すぎるけれど、誤解されたままではいけないので空かさず弁明をする。
「だってアオは私の家族なんだもの!! 私にとって一緒にいることが当たり前のとっても大切な存在なの! 例えていうなら空気みたいな。だからもしアオがいなかったら私は生きていけないよ」
アオにぎゅーっと抱きつくと、アオはまんざらでもないようで。なんとかアオのご機嫌も直った。
「引越しのお片付けも終わったし、あとはアカデミーの準備ね。今からドキドキするよ」
「サフィーも俺と同じ講義を専攻すれば良かったのに」
「いや、それは絶対に無理。私に飛び級並みの頭脳はないもの。無理して専攻したとしてもきっとすぐについていけなくなると思うし……」
アカデミーでは専攻する講義のひとつひとつに難易度が備わっている。
講義の中には誰でも自由に専攻できる講義と、最低限これだけの知識を有していないと受けられないと定められた講義があるのだ。
ルーカス王子が専攻したのは、アカデミーの中でも最高難度の講義ばかりだった。
「……おかげで結果的に良かったかも」
ボソッとつぶやかれた言葉を私は聞き流すことなどできなくて。
「えっ、良かった?」
感情を抑えきれず、少しだけ怪訝な表情をして聞き返してしまった。
すると、ルーカス王子は怪しいくらいに慌て出し、どうしてかその目はどことなく泳いでいる。
「……隠し事はなしだよ?」
ぷうっと頬を膨らませて問い詰めれば、誤魔化しは効かないと観念したのか、はあっとため息をついたルーカス王子は覚悟を決めたようで、私に宣告する。
「俺たち、アカデミーでは他人のふりをしたいんだ」
「た、にん?」
無言で頷くルーカス王子を見て、聞き間違いではないことを確信した私の顔は一気に青褪める。
「どうしてっ!? ねえっ、私が何か嫌われるようなことしちゃった?」
突然の「他人のふり」宣言に、私の思考は悪い方へ悪い方へと止まらなくなっていった。
(私のいちゃいちゃキャンパスライフは? まさか、乙女ゲームの続編のせい? ゲームの強制力!?)
私の頭に“モブ”という二文字が浮かび上がる。
私はモブで、ルーカス王子は攻略対象者。モブという身で攻略対象者に声をかけることなど許されないのかもしれない。
(そんなの嫌……)
この世の終わりだと言わんばかりに私の顔は青褪め、涙がこぼれ落ちそうになるのを隠すように、目の前に寝そべるアオのもふもふに顔を埋めた。
「サフィー、勘違いしないで聞いてほしいんだ。まだ俺たちの婚約は公表はしていない。だからサフィーには、王子の婚約者という肩書きがない状態で、信用できる友達を作って欲しいんだ」
(信用できる、友達?)
まだもふもふから顔を上げることはできないけれど、溢れ出そうとする涙はぴたりと止まった。
ルーカス王子はさらに話を続ける。
「きっと周りの人たちは、良い意味でも悪い意味でも、サフィーのことを王子の婚約者という色眼鏡で見る。そういうのを抜きにして、サフィーには気のおける友人や人脈を作って欲しいんだ」
(確かに、私と友達になりたいのではなく、王子の婚約者と友達になりたくて近付いてくる人がいてもおかしくないよね? そんな人と仲良くできるかな?)
無理かも、と考えた私は、がばっと顔を上げて、ルーカス王子に確認を取る。
「本当に私のため、なの?」
「もちろん! サフィーは自分の立場なんて考えないで、心の底からアカデミーを満喫してほしいんだ」
てっきり私は続編には出てこない登場人物、モブキャラ以下だからかと思ってしまった。けれど違う。
寂しいけれど、私のため……
本当のことを言えば他人のふりなんて絶対に嫌だ。ルーカス王子のそばにいたい。
でも、チェスター王国のことを何も知らない私にとって、このアカデミーという学びの場は、チェスター王国を知る絶好の機会なのだ。
アカデミーでは一緒にいられないからこそ、その寂しさを埋めるために部屋を隣にしてくれたのかもしれない。
きっとルーカス王子がいろいろと考えた上で私にとって最良の選択をしてくれたのだろう。
ルーカス王子はいつも私のためを思ってくれている。
「ありがとう。私、アカデミーでも、ニナちゃんやミリー、ノルンちゃんみたいに心から信用できる友達を作るね!!」
その後、ルーカス王子の部屋にも案内してもらった。
ルーカス王子の部屋までは、廊下に出ることなく、部屋の奥に設置されたドアと通路を隔て繋がっている。
「俺の方のドアの鍵はいつでも開けておくから、何かあったらすぐにおいで。俺がいなくても入っていいから」
「いなくても、って、勝手に入ってもいいの?」
「もちろん! サフィーに隠さなきゃいけないものなんてないから、俺がいなくても入って平気だよ」
さあどうぞ、と促され、ドキドキしながらルーカス王子の部屋に足を踏み入れる。
そこはルーカス王子らしい予想通りの部屋というべきか、王子らしからぬ部屋というべきか。
装飾品などなく、必要最小限の物しか置かれていない落ち着いた雰囲気の部屋だった。
「ずっとこの部屋を使っていなかったから、物がなさすぎてつまらないかもしれないけど」
「ううん。ルーカス王子らしいよ。それに、こんなにたくさんの本があるなんてすごいわ!」
壁一面が本棚となっていて、整然と本が並べられている。
私はちょうど目の前にあった本を手に取ろうと本棚に手を伸ばした。
「あ、そこは!!」
途端にルーカス王子が慌てた様子で大きな声を上げた。
私はただ本を手に取ろうとしていただけだ。ルーカス王子がどんな本を読んでいるのか気になっただけだ。
……ということは、私に見られたらバツが悪くて慌てるような本……!?
「わ、私ももう大人だから、驚かないからっ」
ルーカス王子も男の人だから一冊や二冊くらい……と言葉を続けようとした瞬間、その予想は覆される。
「って、こんな難しい本を読んでるの?」
私が手を伸ばそうとしていた本棚には、年頃の男の人が隠さなければいけないような本、ではなく、チェスター王国の歴史や風土、産業などの分厚くて難しそうな本がいっぱい並んでいた。
けれど安心したのも束の間、やっぱりその中に違和感のある本が佇んでいるのを見つけてしまった。
「俺様……」
「えっ!?」
ステファニーちゃんに貰った本とジェイドの時に買った本が、分厚い本と本の間に隠れるように並んでいた。納得。
「……忘れてたよ、恥ずかしい」
真っ赤な顔で「もう見ないで」と訴えるルーカス王子が可愛すぎた。ちなみに私の俺様は、ミリーに押し付けたら喜んでもらってくれた。
「なんか、とても安心したな。お母様から乙女……」
「えっ!?」
「う、ううん、えっと、お母様からお友達についてとても心配されてたから。ほら、きっと王子の婚約者だからだよね。うん、そうに違いない」
危うくアカデミーも乙女ゲームの舞台だと口を滑らせるところだった。乙女ゲームと私は関係ない。要らぬ心配をルーカス王子にかけたくはない。
「そう、それなら良かった。サフィーのことをアカデミーでは、王子の婚約者って隠すけれど、早く婚約者って公表できるように頑張るから!」
「ふふ、私も、ルーカス王子に相応しい婚約者になれるように頑張るね。たくさんチェスター王国のことを学んで少しでも役に立てるようになるからね」
「ありがとう。でもサフィーはそのままでも十分素敵だし、それ以上素敵になられたら、逆に心配になっちゃうかも」
「ふふ、じゃあ、たくさん心配してもらえるようになるね」
怪しさ満点だったけれど、どうにか誤魔化せたようで、私は束の間の幸せを満喫していた。
そして「私はモブ」という言葉胸に、マジアカの舞台へと足を踏み入れていった。