卒業前夜の告白
ーーーーカツン
窓に“何か”が当たる音がした。この音は、ジェイドが迎えに来てくれた時の合図のはずだけど、今夜はデートの約束はないはずだ。
「ジェイドかな? でもどうしたんだろう?」
明日はもう卒業式、断罪イベントがある。もう二度と聞くことができないと思っていた音が聞こえてきたことに、疑問を抱きながらも、胸がトクンと高鳴った。
(まさか「今夜ならいいんですか?」と言っていたことが、本気だったとか?)
ドキドキしながら窓を開け、窓の下を覗き込んだ。
「あれ? ラズ兄様! どうしたんですか?」
そこにいたのはジェイド、ではなく、ラズ兄様だった。
「サフィー、今から出掛けよう、そこから飛び下りて」
「えっ!?」
「大丈夫だよ、俺が受け止めるから。それとも、ジェイドじゃないから信じられない?」
「いえ、むしろジェイドよりも、ラズ兄様の方が絶大に信頼しています!!」
ジェイドに悪いと思いつつも、私は即答した。
だって、ずっと私の近くにいて、ずっと私を見守ってくれていたのは、ラズ兄様だから。
「行きますよ!!」
全く躊躇うことなく、勢いよく窓から飛び下りた。
ふわり、と優しくてあたたかい風が私を包み込む。
(この感じ、知ってる……)
記憶ではなく、心がそう感じた。
とてもわくわくして、懐かしくて、この時を、ずっとずっと、待ち侘びていた気がした。
あの体育祭の時も、ジェイドが迎えに来てくれた時も、懐かしさを感じた。けれど、それ以上の懐かしさ。
記憶にはないはずなのに、まるでパズルのピースがぴたりと当てはまった時のように、全く同じ経験をしたことがあると、心が教えてくれている気がした。
ラズ兄様は慣れたように抱きとめてくれた。だから、そのまま、ぎゅっと抱きついた。
(覚えていない、けれど、覚えている)
「サフィー、空を飛べただろ?」
「はい、空を、飛べました……」
涙が零れ落ちそうになった。それを誤魔化すように、私は軽口を叩く。
「さすがラズ兄様! 私が窓から落ちた時も、ラズ兄様がいてくれたら受け止めてもらえたのにな」
そう言うと、ラズ兄様が曖昧な笑みを浮かべた。照れからなのか、私をゆっくりと地面に下ろすと、少しだけ言い辛そうに提案をしてくれる。
「なぁ、サフィー、小さい頃のように手を繋いでもいいか?」
「ふふ、ラズ兄様ったらどうしたんですか? まあ、今日はサービスですよ!」
私には記憶がない。けれど、やっぱりラズ兄様の手の温もりを、私は知っている気がした。
「ラズ兄様、とっても楽しいですね! すごくわくわくします。夜の冒険にでも行くみたい!」
私がそう言うと、やっぱりラズ兄様は笑ってくれた。ただ、その顔は少しだけ淋しそうに見えた。
「サフィーは明日で卒業だろう? そしたらこうやって一緒にいる時間がなくなっちゃうなと思ってさ。それに俺もそろそろ独り立ちをしなきゃいけないしな」
「そういえば! ラズ兄様はこれから何をするつもりなんですか? とうとうお父様の跡を継ぐ決意をしたとか? それとも王宮魔導師?」
「具体的には、まだ決まってない」
迷っている、きっと諦めきれない夢があるのだろうな、と思った。
「ふふ、ラズ兄様はお母様と一緒な気がします」
ラズ兄様もお母様と一緒で、自由が似合っている。
そんなことを考えていた私を真剣な眼差しで見つめた後、ラズ兄様は突然私に告げた。
「サフィー、逃げてもいいんだぞ?」
「な、何のことですか?」
このタイミングで「逃げる」ということは、明日の断罪イベントのことを言っているとしか思えなかった。
でも、破滅エンドを迎える人生こそが私の運命だから、逃げることなんてできない。
運命には、決して抗えないのだから……
「あぁ、ごめん、いきなり変なことを言われたらびっくりするよな。そうだ、サフィーは俺の秘密を本当に知りたいのか?」
「え? 教えてくれるんですか!? 知りたいです! もちろん無理にとは言いませんけど」
「あぁ、気が向いたから教えてあげるよ。ただ……」
「ただ?」
「サフィーにとって、いい話とは限らないし、俺が楽になりたいだけかもしれない」
「だったら話してください。ラズ兄様が楽になれるんだったら、余計にです。それにそこまで言ったら気になっちゃいますよ!!」
ラズ兄様は「そうだな」と言うと、私と繋ぐ手の力が一瞬だけ強まった。
「俺の秘密は、俺の中にもう一人の魂がいること。紺碧色の瞳の時が俺、真紅色の瞳の時はもう一人。これはサフィーもすでに気付いている通り、もう一人は黒猫のルべライトだ」
「魂が二つなんて、そんなことがあるんですね。もしかして、ラズ兄様は辛いのですか? 私にとっては、ラズ兄様も黒猫ちゃんも、私の大切なお兄様です」
「ありがとう。俺も大丈夫なんだ。生まれつきだし、ルべはいいやつだがら、俺は何一つ不自由はしていない。それに俺が前にサフィーにあげた髪飾り、あれに魔力を込める時もルべが手伝ってくれたんだ。それと……実は、あの髪飾りには魔力の他にもう一つ入っているんだ」
「もう一つ? 一体何ですか?」
「サフィーの記憶」
紺碧色の瞳のラズ兄様が真っ直ぐに私を見つめて、しっかりとそう告げた。
その決意を秘めた瞳は、一切の揺らぎも見せない、とても穏やかで、深い海のように、とても澄んだ綺麗な色をしていた。
「サフィーの幼いころの記憶だよ。どうする? 知りたい?」
「知りたい、です」
「そっか……」
ラズ兄様は一言だけ発すると、ゆっくりと紺碧色の瞳を閉じた。
ラズ兄様の言葉の続きを待たずして、私はラズ兄様に自分の考えをぶつけた。
「でも、記憶がそこに封じられているってことは、そうしなきゃいけない理由があったってことですよね?」
記憶の操作をすることはとても重大なこと。
ラズ兄様が悪戯に私の記憶をとるなんて思えないからこそ、それをしなければいけない状態に私が陥ってしまった、としか考えられなかった。
「あぁ、もしかしたら、この記憶を戻したら、サフィーの人生が大きく変わってしまうかもしれない。けれど、サフィーがどんな状態になっても、必ず俺がサフィーのことを一生守る。それに、成長した今のサフィーなら大丈夫かもしれない。それは、俺にも何とも言えないんだ」
ラズ兄様のその言葉に嘘はないことは分かっている。すごく辛そうに絞り出すその言葉は、私のためを思って言ってくれていると、痛いほど感じたから。
だからこそ、私は迷わなかった。
「それなら、いらないです」
「!?」
「私は今がすごく幸せです。確かに昔の記憶は気になります。記憶がないって分かった時、小さい頃のことをいっぱい想像しました。ラズ兄様と一緒に悪戯をしてお母様に怒られたり、家族で旅行したり、家族団欒したり。きっと私は手のかかる妹だったでしょ?」
「あぁ、悪戯っ子で手のかかる、けれど、とても可愛いくて大切な妹だったよ。もちろん今もそれは変わらないよ」
「ふふ、嬉しいです。私、昔のことを思い出そうとして、いろいろと想像しようとしても、結局はすぐに今の楽しい思い出が頭の中を占領しはじめて、すごく幸せな気持ちになるんです。だから……」
私は迷わない。後悔もしない。だって、過去に囚われないでイマを生きたいから。
「昔の記憶はいりません。そのかわり、ラズ兄様が『こんなことをしたんだよ』って私に話して下さい。きっと、さっきみたいに窓から抜け出して、今みたいに手を繋いでお出掛けしたのでしょう? どうしてなのか、窓から飛び下りる度に、頭じゃなくて心が懐かしいって私に教えてくれていたんです」
強がりでもない。私は本当に幸せだから。もちろん、明日が断罪イベントだから、今さら昔の記憶なんていらない、というわけでもない。
きっと、知らない方が良いこともたくさんあると思うし、純粋に私には必要がないと思えるほど、現在の私には素敵な思い出がたくさんあるのだから。
そんな私の言葉に、ラズ兄様は少しだけ安堵した表情を浮かべ、そして何かに納得したように私を褒めてくれた。
「サフィーは俺の知らない間に強くなっていたんだな」
「みんなには敵いません。みんながチート過ぎるんです!」
「チートって前世の言葉か?」
「前世!? ど、どうしてそれを!?」
ここに来て、まさかの爆弾投下だ。
(どうしてお母様だけでなく、ラズ兄様までもが、私が前世の記憶を持っていることを知ってるの!?)
「サフィーは悪役令嬢だし?」
ラズ兄様がさらに追い討ちをかける。
(うわっ、そっちの情報まで筒抜けなんですか? 本当に我が家では隠し事なんてできないんですねっ!!)
けれど、私もその前世の記憶というチート能力で反撃を試みる。
「さては、ラズ兄様も『見ること』ができるんですね? 私だって、そのラズ兄様の能力を知っていますよ! 『鑑定』という能力でしょ!」
ラズ兄様に一泡吹かせてやろうと、ビシッと言い放った。どうしてか、一瞬の沈黙が流れてしまったけれど。
「ふっ、そうかもしれないな」
私の頓珍漢な言葉に堪えきれなかったのか、くすくすと笑い始めたラズ兄様は、今まで言えなかったことが言えてすっきりとしたのか、すごく晴れ晴れとした表情をしている。
そんなラズ兄様が見れて、私も心から安堵した。
今までずっと、自分の人生を犠牲にしてまで私を守ってくれていたラズ兄様。いくら鈍い私だって、さすがに気付く。だからこそ、
(ラズ兄様は、心から自分のやりたいように生きてくださいね)
心から、そう願っているんだから。
私はラズ兄様と繋がれた手をゆっくりと離した。今いる場所は、私の部屋の目の前の廊下だ。
だがら、ラズ兄様に別れを告げる。
「ラズ兄様、とっても楽しかったです。本当にありがとうございました」
私はにっこりと笑って、心を込めてお礼を言った。サファイアとしての今までの人生で、ラズ兄様にしてもらってきたことへの、感謝を込めて。
「サフィー、もう一度だけ言う。逃げてもいいんだぞ? そしたら、俺が一生守ってやるから。それにサフィーは一人じゃない。もっとたくさんの人に頼っていいんだよ?」
ラズ兄様は、どんな時も妹思いのラズ兄様。常に私を一番に考えてくれている。
けれど、私の決意も揺らぐことはない。
「ありがとうございます。ラズ兄様も本当にやりたいことを見付けてくださいね。私はずっと応援していますから!」
ラズ兄様と、最期にいっぱいお話ができて、本当に良かった。きちんとお礼が言えて、それだけで嬉しかった。
前世の私は、誰にもお礼が言えずに、眠るように死んでしまったから。
「ラズ兄様、お休みなさい」
「ああ、ゆっくり休みすぎて寝坊するなよ」
笑いながら頭をぽんぽんと撫でてくれ、私が部屋の中に入るのを見届けてくれた。
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「これで、本当によかったのか?」
俺は、サフィーの部屋から少し離れた自室の前の廊下で、ジェイドに言った。
「はい、ありがとうございます。悔しいけど、今まで一番近くでサフィーお嬢様を大切に見守ってきたラズライト様のお言葉が、誰の言葉よりもサフィーお嬢様に響くと思います」
「あーあ、今さら『剣技の勝負の時の“言うこと”を聞いてくれ』だなんて信じられねーよ。しかも『サフィーを元気付けてくれ』だなんてさ。そんなのは、俺がやって当たり前、サフィーは俺が守るんだって、今までずっと思ってたのにさ。本格的にその役目も、お前に取られたな。本当なら、絶対にその役目を譲るつもりなんてなかったのに」
俺は、ため息混じりにグチを溢す。
けれど、嬉しかった。サフィーが巣立っていくんだなって気がして、もう俺がいなくても大丈夫な気がして、喜びを感じた。
「母様の『言うこと』も、一年間もイーサン先生を見張れ、だなんて高くついたけど、ジェイドの『言うこと』はそれ以上だ。こんなことなら、もっと剣技を磨いとくんだった。ジェイド、サフィーを頼むな。“俺ら”の代わりに、必ず幸せにしてやってくれ」
ジェイドに託すと、俺はその答えを待たずして、自分の部屋に入って行った。
答えなど聞く必要がないと分かっていたから。