ゆめみ時…3夜が明けないもの達5
あれからしばらく経っても憐夜は成長しなかった。飛び道具も必ず少しずらして投げ、体術はまったくやろうとしなかった。
更夜は何度か酷い体罰を憐夜に与えた。しかし、憐夜は相変わらずだった。
「憐夜、何をしている。まだ四つ身の訓練は終わっていない。返事をしなさい。憐夜。」
憐夜は高い木のかなり上の方の枝に立ち呆然と景色を眺めていた。夜通しで訓練をし、山は夜明けを迎えていた。
更夜はまた憐夜に体罰を加えなければならないのかとうんざりしながら憐夜がいる木の枝まで飛んで行った。更夜は憐夜の隣に軽やかに着地した。
「……お兄様……。朝日ってなんでこんなにきれいなのでしょう?私はこんなにきれいな世界をどうして歩くことができないのでしょう……。」
朝日に照らされた憐夜はせつなげで光の入った瞳はとても美しかった。
「俺達は影だからだ。日の元を歩く人間ではない。」
更夜は憐夜の横顔を見ながら目を伏せつぶやいた。
「私は……運命を呪います……。私は……自分の生を呪います……。お兄様は本当は優しいお方……私は知っています……。ですが、それを出してはいけないのですね。」
憐夜は更夜にせつなげに微笑むと瞳の色を失くし、続けた。
「ごめんなさい。あまりにきれいな風景だったものですから見惚れてしまっていました。どういう風に描いたら一番きれいか考えてしまいました。……もういいです。」
憐夜は素早く木から降りる。木から降りる瞬間、憐夜は四人になった。四つ身分身をしたようだ。
「……憐夜……四つ身ができるのか?あの子は……ただやる気がないだけなのか。本当は才能が一番あるのかもしれない。」
更夜も木から降り、地面に足をつけた。憐夜は何かを悟ったような目で着物を脱ぎ、木の幹に手をついた。背中を更夜に向ける。
「……罰はしっかりと受けます。お兄様の手を痛めてしまいますね。申し訳ありません。でももう大丈夫です。もう泣きませんし、叫びません。」
憐夜は冷たく暗い瞳で更夜を見ていた。更夜は憐夜の心変わりがはっきりとわかった。
それは諦めの心と自身の運命を呪う心。これが望月の中でも異端である凍夜望月家の一族が通る道。
このように徐々に感情を失っていき、何に対しても何も感じなくなる。操り人形のように上の命令には逆らわなくなってくるのだ。
更夜もそうだったからか憐夜の気持ちもなんとなくわかっていた。
「……ふむ。良い心がけだな。」
更夜は静かにつぶやくと憐夜のしなやかな背に木の枝を振り上げた。
……おかしな家族の狂った規律は憐夜から大切なものを非情にも奪っていく。
憐夜に鞭打ちをした後、更夜は血のついた木の枝を見つめながら歯を噛みしめた。
……俺はあの子を変えてしまった……。あの子はとても優しい子だったはずだ。あんなに冷たい目ができる子ではなかった。
……これで……良かったのか?
更夜は血で濡れている木の枝を捨てると立ち上がり、傷を癒しているはずの憐夜を探した。憐夜はすぐに見つかった。木々が少し開けた場所で傷口にさらしを巻くわけでもなく憐夜は呆然と座っていた。
「……憐夜……。」
更夜は憐夜にそっと声をかけた。
「お兄様。きれいなお花が沢山咲いています。紙と筆があれば描いたのに。」
憐夜は何事もなかったかのように目の前に咲く白い花を笑顔で見つめていた。
「そんな事を言っている場合ではない。止血しなければ……。」
「おかしなお兄様ですね。お兄様が私を叩いたのでしょう。こんなに、血が流れ出るくらいに何度も何度も。……もう痛くもないので問題はありません。」
憐夜は感情のない声で更夜に答えた。
憐夜は他の兄弟とは少し違う方面へ心が動いたようだった。
この世界を恨んでいる……自分の事なんてもうどうでもいい。ただ、この世界を恨む。憐夜の顔はそう言っていた。
「憐夜……。」
「お兄様、それよりもお花がきれいです。こんなきれいなお花を絵にしてみたい……。お兄様はきれいなお花には興味はありませんか?あ、筆がなくても私の血でお花を描けばいいんでしたね。ちょうど出てますし。」
憐夜の問いに更夜がどう答えるか悩んでいるとふと近くで女の声がした。
「本当にきれいな花畑だ。こんなところにこんなものがあるとはな。」
「お姉様。」
更夜と憐夜の隣に音もなく立っていたのは千夜だった。千夜は一番年上のはずだが身長は憐夜よりも小さかった。
「憐夜、しばらく見ぬ間に大きくなった。……だが、お前の心は間違っている。」
千夜は憐夜の横に座るとそっと肩を抱いた。
「お姉様……?」
「感情を捨て、痛みを感じなくなる事は忍としては良い。だが、自分の事をどうでも良いと思うのは間違いだ。私達は常に生きようとしている。ただ、まわりに迷惑がかからんように自分で自分を守れるように我々は過酷な事をしているのだ。私達は家族だが仕事に出れば守ってやれん。だが、お前達が傷つくのは辛い。難しいがそれをまわりに知られてはいかんのだ。なぜならば敵の忍に逆手にとられるからだ。……ん?憐夜、怪我をしておるな?」
千夜は優しい瞳で憐夜に声をかけた。
「はい。木の枝で叩かれました。私がいう事を聞かなかったからです。」
憐夜は平然と千夜に言い放った。
「そうか。更夜はこんなもので済ませてくれたのか。良かったな。憐夜。傷は浅いがしっかりと処置をしなさい。これも修行だ。」
千夜は感情なくつぶやくと憐夜の頭をそっと撫で立ち上がった。
「……はい。……お姉様、もう行かれるのですか?」
憐夜の問いかけに千夜は小さく頷くと更夜に近づいた。
「お前の判断は間違っていない。憐夜の成長はこれからだ。あと三年、しっかり憐夜を作り上げるのだ。いいな。更夜。」
「……はい。」
千夜の言葉に更夜は素直に頷いた。千夜はそれを見、悠然と歩き出した。
「……やはり妹に手を上げるのは辛いか?更夜。」
千夜はふと思いついたように歩み出した足を止め、更夜を振り返った。
「……いえ。問題ありません。これから徐々にしつけを厳しくしていきます。お姉様に対するご無礼、申し訳ありません。」
更夜は憐夜のしつけが甘い事を指摘されたのだと思い謝罪したが千夜はゆっくり首を振った。
「憐夜ではない。お前自身だ。だいぶん疲れた顔をしていた故な。大丈夫ならばそれでよい。私は齢二十二だ。故に仕事が忙しい。後は軽い任についている逢夜に頼むと良い。」
千夜は一言つぶやくと足音もなく去って行った。
「ありがとうございます。お姉様。」
更夜は千夜の背中にそっと頭を下げた。
ふと顔を上げると憐夜がいつの間にかいなかった。更夜は頭を抱え、憐夜の気配をさぐり、歩き出した。憐夜は花畑の下に流れているきれいな沢で傷ついた背中に水を流していた。そして一通り血を流すと自分でさらしを巻き始めた。
「……憐夜、水をよく拭き取りなさい。そのままさらしを巻いてはいけない。」
横で見ていた更夜は憐夜に注意をした。憐夜は突然現れた更夜に驚いていたが素直に頷くと自身の着物を少し裂き、腕を回して背中を丁寧に拭き、さらしを巻いた。
「さて。では食事にしよう。憐夜、食べられるものを持って来なさい。食べられる野草については教えたな?」
更夜は鋭く憐夜を睨みつけると憐夜の頬を思い切りはたいた。
「……返事をしろ。」
「……はい。お兄様。行ってまいります。」
憐夜は頬を押さえながら足早に去って行った。
「……あの子の足だとしばしかかるか。憐夜も腹を空かせているだろうから俺が魚を取っておいてやろう。」
更夜は独りつぶやくと沢を泳ぐ大きめの魚をクナイで四匹仕留めた。
更夜は沢の側に腰かけ精神統一をして憐夜を待った。しかし、憐夜は一向に戻ってこなかった。
「……遅いな……。あの子は何をしている……。」
更夜は心配になり少し気配を探ったが気配を感じなかった。
「……探すか……。」
更夜がそう思い始めた時、二つの気配を感じた。刹那、更夜は二つの人影を発見した。
「……お兄様と……憐夜か?」
人影は逢夜と憐夜のようだった。逢夜は素早くやや乱暴に更夜の前に着地すると憐夜を放り投げた。憐夜は全身傷だらけで身体は水で濡れていた。
「お、お兄様……これは……。」
更夜は逢夜と気を失っている憐夜を交互に見つめながら戸惑っていた。
「更夜、憐夜が山から出ようとしていた。すげぇ抵抗されたんで二度とできねぇようにお仕置きしてやった。目的を吐かせようと頭を川に突っこんで拷問したが途中で気を失っちまったから連れてきた。心配すんな。手加減はしたし、水も吐かせた。しかし、こうも聞き分けがねぇとはな。」
逢夜の非道さに更夜は何も言えなかった。更夜もこうやって何度も逢夜に暴行された。
逢夜の折檻はいつも残酷だったがそれをやるには必ず理由があった。
規律に厳しい伊賀忍者とは違い、甲賀忍者は忍をやめても殺される事はないが更夜の家系、その周辺の集団だけは厳格だった。これは甲賀忍者の質を高めるための手段だったようだ。里から出る事は抜け忍とみなされ、殺害される。憐夜のような弱い忍ならばすぐに見つかり処刑されるだろう。逢夜はそれに一番気を使っていた。
「……甲賀でも俺達の家系じゃなけりゃあ逃がしてやるんだがこいつはちょっとまずかったな。絶対的な恐怖を与えねぇとまたやりそうだからな。泣き叫ばれようが謝罪されようが関係なく殴った。……妹とはいえ、齢十の小娘……俺ぁ、もう二度とやりたくねぇ。」
逢夜は泣き叫んでいた憐夜を思い出し、顔を曇らせた。
「もう泣かないと言っておりましたがやはり十の娘。お兄様は恐ろしい存在のようです。」
「そんな事はどうでもいい。更夜、これはお前にも責任がある。よってお前にも仕置きがいるようだ。俺達の家系は連帯責任だ。わかるな?」
「はい……申し訳ありません。お兄様。」
逢夜の言葉に更夜は素直に頷き、着物を静かに脱いだ。
……おかしな家族の狂った規律はさらに憐夜を追い詰めていく。




