第九話・3
衣替え前の春服。その胸の部分を大きく押し上げ、こちらにせり出している部分が触れてしまいそうになって身を引くが、これ以上後ろに下がることもできない。
「……一緒に、してみない?」
「せ、先輩っ、それは……ま、まだその、仲直りしたばかりで……っ」
先輩が寂しそうな顔をする。その表情が、欲しいものを貰えなくて拗ねている猫のようで、揺れている心を鷲掴みにしてくる。
「……自撮り……」
「……え?」
「……綺麗に撮れるみたいだから」
「あ、ああ、そういうことか。それなら……お、俺でいいのかな」
空野先輩はこくりと小さく頷く。そしてブレザーの胸ポケットに手を入れて、スマホを取り出した。
「……撮っていい?」
「えっ……」
戸惑っているうちにカシャ、と音がする――まさかそんなにあっさり撮影されてしまうとは。今のでしっかり撮れてしまうものなんだろうか。
「せ、先輩、本当に撮ったのか? ひどいな……」
「……可愛い顔してると思って」
「か、可愛いって……」
今日の空野先輩は何か変だとか言うわけにもいかなくて、翻弄されっぱなしになる。どうすれば先輩の攻勢から逃れられるのか――逃れたいのかどうかも分からないが、とにかくこのままではいけない。
「せ、先輩。そろそろ教室に行った方が……」
「……どうして?」
「ど、どうしてというか、どうしてもというか……っ」
こんなに押しが強いとは――そろそろ誰かに見られてもおかしくないし、見られていて遠巻きにされているだけとかそういう状況もありうる。
「……コホン」
――咳払いで存在を主張する、その人は。校門での挨拶を終えて、こちらの様子を見に来たとおぼしき岸川先生だった。
「っ……!」
「うわっ……そ、空野先輩、大丈夫か……?」
驚いた空野先輩が、バランスを崩してこちらに倒れ込んでくる――反射的に受け止めようとする途中ですでにまずいと分かっていたのだが、俺も自転車を背にしている状況では、しっかり空野先輩を受け止めるしか方法がなかった。
「う、海原……っ、それは教師として、私としても咎めざるを得ないというか、学校内でしていいことではないというかだな……っ」
「ち、違います、これは……っ」
「……せ、先生。私が転んじゃったので、海原が助けてくれただけなので……」
俺の意識は上――上が意味するものはとても口に出せない――に向かっていたが、密着していると色々と問題がある。先輩の髪から胸のすくようないい匂いがするとか、体温が温かいとか柔らかいとか――結局柔らかいというのが一番大きいわけで、それが一番問題なわけで。
「う、海原……ゆっくりどくから……じっとしてて……」
「わ、分かった……微動だにしない……っ」
「……て、手……離してくれないと……」
「っ……ご、ごめんっ!」
判断力を失うと、当たり前のことすら見落としてしまっていた――先輩を抱きとめるときにぎゅっと掴んでしまっていた手をパッと離す。
「だ、大丈夫か、空野。私も見ている場合ではなかったな」
「……ありがとうございます」
岸川先生が手を貸してくれて、空野先輩は俺から離れることができた――空野先輩の乱れた服を岸川先生が整えてくれて、先輩自身は乱れた髪を戻す。
「……ちょっと、話をしてただけです。内緒話だったので、近くに寄ってました」
「そ、そうか。そういうことなら、私も目くじらを立ててはいけなかったな。海原、すまなかった」
「いや、俺こそ……先生、校門での挨拶お疲れさまでした」
「うん、もう少し話したかったのだがな、あまり目立つことをするのはいけない」
岸川先生は他の生徒に見られていないと、俺に対して優しくなる――いや、内に秘めた優しさを抑えなくなるというべきか。返事の仕方も少しあどけなくなって、先生というよりは「お姉さん」という距離感のように思えてしまう。
「……岸川先生も、大変ですね」
「挨拶に立つことは、私がこの学校に来てからずっとしていることだから……ん、そうではなかったか?」
「いえ。岸川先生のそういうところは、尊敬してます」
「な、何だ急に……空野、私をおだてても何も出ないぞ。二人とも、そろそろ教室に行きなさい」
「「はい」」
揃って返事をする――思った以上にタイミングが合っていて、俺は空野先輩を見やる。
「……それじゃあ、また。海原」
「あ、ああ……また。空野先輩」
先輩が微笑んでいる。そして小さく手を振ると、俺より先に昇降口に歩いていった。
「きっかけがあると、こうも変わるものなのだな。それとも、空野はもともとよく笑う子だったのか……」
「昔は、もっとおてんばでしたよ。ここだけの話ですが……俺と泥んこになって遊んだりもしてましたし、悪戯っぽいところもありました」
「そ、そうなのか……想像してみると、なかなか……」
「っ……想像と言いますと、どんな……?」
思わず変な敬語を使ってしまう俺だが、先生が頬を赤らめて何を想像したかと思うと、どうにも気が気ではない。
「……はっ。い、いや、何でもない。私は何も想像したりはしていないぞ」
「お、教えてください! そんな言い方をされたら、気になって授業が手につきません!」
「そ、そんなことを言われても……いくら私が海原の先生でも、言えることと言えないことがある。まして、教え子のことで妄想をしていたなんて……はっ。何でもない、今のは何でもないから気にするな!」
「わ、分かりました……ところで先生、どうしてこっちに来てくれたんですか?」
自転車置き場に足を運んだのはなぜだろう、という意味で聞いたのだが、先生は心なしか頬を膨らませる。




