第九話・2
あれはお誘いというのだろうか? いや、エッチな方向ではなくてただお礼をするために一緒にお風呂に入りたいとか、そんなことを先生はおっしゃっていた。やはりお酒で全部記憶がなくなるなんてことはなくて、結構しっかり覚えていたりするものなのではないのか、だったら嘘をついてもあまり意味がなくて、つまり俺はどうしていきたい所存なのか。所存ってなんだ。
杜山先生:いっぱいしちゃった?
自分:いえ、そんなことは全くなかったです
自分:今のはミスです
杜山先生:本当? 良かった……私ね、海原くんのお店で間違えて買った本のことが頭に焼きついちゃっててね
杜山先生:それで無意識に変なことしたんじゃないかって心配だったの
先生が間違えて持ってきてしまった大人向けの本は、まだ俺の本棚に入っている――もちろん読んでいないので中身は確認していないが、先生が読んでしまった一部分が、こんな内容だった可能性は否めない。年上のお姉さんが、年下男子の風呂場に大胆にも入ってきてしまうとか――それが杜山先生の潜在意識に刷り込まれていたとか、そんなことがそうそう起こるわけがない。
杜山先生:エッチな先生でごめんね
自分:えっ
杜山先生:あっ、そうじゃなくて、えっちな本を間違えて持ってきちゃう先生でごめんね
杜山先生:朝から手間をとらせてごめんなさい また学校でね
そして「ありがとうニャ―」という猫のスタンプが貼られる。こんなとき俺もスタンプを返すのが礼儀なのかと思うが、普段使わないので背伸びをするのはやめておいた。
「先生は……エッチですが、エッチじゃないです」
「はい、また」と無難な返事をしたあと、独りつぶやく。こんなメッセージのやりとりを残しておいて誰かに見られたりしたら――と思わなくもないが、見られなければどうということもない。
しかしエッチな先生という文字列が想像力をどうしようもなく増幅させてしまって、ベッドの上で瞑想して気持ちを落ち着けるしかなかった。こんなときに俺を律してくれるのは岸川先生の凛々しい姿だ――それも「エッチな先生」という言葉によって、悶々とした方向に向かっていくあたり、良くない傾向であると言わざるをえない。
◆◇◆
今日は天気予報は終日晴れで、自転車で学校に向かう。通学路がほぼ被っている空野先輩に会うかもしれないと思ったが、校門に着くまで会わなかった。
姉ヶ崎高校名物、地獄坂――なんて大層な名前はついていないが、坂を登る生徒の中でも体力がない生徒は途中で自転車を降りて押していかざるをえない。意地になって進まない立ち漕ぎで頑張ったりしている生徒がいるのも日常風景だ。
「さすがインテリヤクザ……涼しい顔ですいすい登っていきやがる」
「心臓が鉄でできているという噂は本当だったのか……ひぃっ!」
何も言わずに視線を送っただけで怯えられる――それでも言わずにいられない何かが俺にはあるんだろうか。
「岸川先生、おはようございます!」
「おはよう。今日も一日、頑張って勉強するんだぞ」
「「「はいっ!」」」
岸川先生の熱心な親衛隊たちは、見るたびに違う生徒になっている――男女問わず人気があり「お姉さま」と呼んでいる女子もいる。その面子はいつもだいたい同じだ。
「お、お姉さまと海原くんが、朝から校門で衝突なんて……」
「だ、だだ大丈夫、俺たちの女騎士先生はインテリヤクザに屈したりなんてしない!」
校門の中まで自転車に乗ったままでは入らないので、普通に降りる。ルールを守っているだけの行動だが、なぜか岸川先生を囲った生徒たちが息を飲むのがわかる。
俺はそのまま進んでいく――そして、岸川先生に挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう。今日は、襟はちゃんと正しているようだな」
「先生のご教示のおかげです。毎日、鏡で確認していますから」
「そうか。それはいい心がけだ」
俺たちは小さく笑って、すれ違う――この何でもない挨拶を、なぜか周囲はカチコチに固まって見ているわけで。
「さすがの海原も、やっぱり女騎士先生には一目置いているんだな……」
「今日こそは『くっ殺せ!』的な展開になるんじゃないかと思ったんだが……」
「お姉さま……今日も毅然として凛々しくて、素敵すぎます……っ!」
「海原くんに見られたら、私だったら固まっちゃいそう……」
俺は石化の魔眼とか持ってるのか、と突っ込みたくなる。そうしたら今度は「魔眼のヤクザ」とかに進化しかねない、生徒たちはそれくらい俺に怯えている。
目つきを温和な印象にする眼鏡とか、そんなものが売ってたりしないだろうか――と考えながら自転車置場に向かうと、少し前に来ていたのだろう空野先輩がいて、思わず驚いてしまう。
「……海原、おはよう」
「あ、ああ。おはよう、奈々……空野先輩」
「……メッセージ、返事してくれてありがとう」
「俺こそありがとう。先輩、買ったばかりのスマホでも使いこなせてるんだな」
「説明書を見ながら、少し触っただけ。カメラをためしてみたりとか……」
「おお、それだと俺より使いこなしてるな。俺はカメラを使う機会なんて、今まで一度も……」
自分でもあんまりなことを言っていると途中で自覚する――先輩は、俺の友達が非常に少ないというか、友達と言っていいかもしれない存在が一人しかいないことを知らない。純が休むと俺がクラスでぼっちだと知ったら、「そうかもしれないと思ってたけど、本当にぼっちなの? 大丈夫?」と心配されてしまう。
そんなことになったら、せっかく昔のように話せるようになりそうだったのに、また関係がぎこちなくなってしまわないか――と思っていると。
「せ、先輩……?」
なんて顔をするのか――先輩が、今まで見たことのないような目で俺を見ている。
嬉しそうで、けれど嬉しいと思ってはいけないと思っているような――目だけで全部分かるわけじゃないが、心の琴線に触れる感覚がある。
「……私が、カメラの使い方教えてあげようか? 綺麗にする方法とか、教えてもらったから」
「あ、ああ。写真加工とかはあんまり俺には合わないかもしれないけど、女子は結構好きだっていうよな」
「私も、そんなに撮らないけど……海原に教えるのは、楽しそう」
「そ、そうかな……俺って、自分で言うのもなんだけど、あまり遊びとかも知らないし、面白くない奴なんじゃないかと……」
だんだん先輩が近づいてくる――自転車を停めた俺は、サドルを背にして先輩に追い詰められてしまう。




