プロローグ・5
「君も私のことを怖いと思っていて、少しでも早くこの場を逃れたいと思っていないか……?」
また至近距離でじっと見られる――岸川先生は男子から憧れられると同時に畏怖の対象でもあるので、そのとき俺も距離を取ろうとしていると思われていたらしい。
「そ、そういうわけでもないですが……」
「ならば、必要なことがあるだろう。と、聞く前に私から名乗るべきか」
先生は肩にかかっていたおさげ髪をさらりと後ろに流すと、胸に手を当てて言った。
「私は岸川……芽瑠という。担当科目は体育で、水泳部の顧問だ」
彼女が少し名前を言うのをためらったのは、自分のイメージに合わない可愛らしい名前なので恥ずかしいという理由だ――当時の俺も、少しは先生が言いよどんだ理由を察していた。
「え、ええと……俺は海原涼太です。一年A組で、出席番号は2番です」
「海原、涼太……うん、覚えたぞ。海原、君は泳ぐのは好きか?」
「はい、それなりに……水泳部の人たちには、全然かなわないと思いますが」
海という字が入っているので、そう思われたというわけでもないのだろうが、実を言うと水泳はスポーツの中でも自信があるほうだった。
「君がもし部活をしていなくて、うちの学校に男子の水泳部があれば勧誘していたところだが」
「ありがとうございます。でも俺は、部活に入る予定はないので……」
「そうか、しかし人生には色々とあるものだ。何かのきっかけで部活を始めたいと思うこともあるかもしれないし、部活との関わり方は、何も入部するだけが全てではない」
先生は出会ったときからずっと、根っからポジティブな人だった。
俺はそんな彼女を見て、高校生活に対する考え方を少しだけ変えた。一年生の間は、それほど大きく変わったとは言えないが。
あの日、岸川先生と出会わなければ。
彼女を助けたいと、そう思っていなかったら――。
「他の部員たちにも了解を取る必要はあるが、もし興味があったら来たまえ。水着も持ってくれば、少しくらいは泳ぎを教えられるだろう」
「あ……先生っ」
「また学校で会ったら、挨拶をさせてくれると嬉しい」
岸川先生は軽く手を振って歩いていく。
シャンと背筋を伸ばして夕焼けの廊下を歩いていく姿があまりにも絵になっていて、俺は思わず先生を呼んだあと、しばらく立ち尽くしていた。
姉ヶ崎高校の女神。水泳部顧問の、「女騎士先生」。
彼女は出会ってからずっと、不思議なくらいに俺を気にかけてくれて、接点はなくなることがなかった。
だが、それは俺が特別扱いということじゃない。一度知り合ったら、先生と生徒であっても、会えば話をしたりもするし、休みの日に偶然出会うこともある。
しかし周囲からすると、先生と生徒が個人的に親しくしているのは目立つことなので、俺も先生も、表立って仲が良いところは見せないようにしていた。後ろめたいことをしてるつもりはなく、一般常識として守らなくてはならないルールだ。
◆◇◆
あの出会いから一年、姉ヶ崎高校で迎える二度目の春が来た。新しいクラスになってから一週間ほどが過ぎた日のこと。
教室に入るとなぜか空気が固くなる――別に威嚇しているわけでもないが、そんなに怖がられては挨拶すらできない。
そんな中でも一人だけが、周囲の空気を全く読まずに、俺を見るなり席を立ってこちらにやってくる。
「海原、聞いたか? 今日部活見学で、水泳部のアリーナが解放されるんだってよ!」
興奮した様子で話しかけてくるのは、同じクラスの上杉純だ。一年から同じクラスで、学校では何だかんだでよく一緒に行動している。
爽やかな印象を受ける短髪の男子で、黙っていると二枚目半と言えなくもないのだが、口を開くと残念というか、男として素直すぎる発言が多い。水泳部のアリーナ解放にこれほど食いつく人間もそうはいないだろう、なぜなら。
「水泳部は女子部だから、新入生歓迎期間でも男子は入れないだろ」
正確には男子部員が一人もいないだけで、男子を入れることはできると岸川先生は言っていたが、それを純に教えるとややこしくなりそうなので伏せておく。
「まあそれはそうなんだけどさ。見学したいって気持ち自体は純粋だから、女騎士先生も大目に見てくれるんじゃないかと思うんだ。ダメ?」
「その素直過ぎる態度で不純な動機がないと信じてもらえるのか? 岸川先生に要注意生徒としてマークされるぞ。ただでさえ、水泳部は覗きの撃退に苦心してるんだからな」
「そーなのかー、ってなんでお前が水泳部に詳しいんだよ。女騎士先生と廊下ですれ違うたびに睨み合ってるらしいけど、まさか……」
実は水泳部のことをよく知っているのでは、という嫌疑をかけられる。岸川先生を通してある程度知ってはいるのだが、練習を見学に行くなんてことはしていない。
「俺はリスクに釣り合わない冒険はしない主義なんだ」
「海原ともあろう者が、守りに入ってどうするんだよ。いいか、競泳水着ってのは冒険をしても見る価値があるものなんだよ。いわんや水泳部の見学より大切なものがあろうか? いやない」
反語で言われても困るのだが、俺も気持ちは分からないでもない。純は悪びれずに笑っているが、何も考えてなさそうな顔が憎らしい。
俺と岸川先生は、生徒たちからは対立していると思われている。純もそう思っている一人だ。
俺が「インテリヤクザ」という不本意なあだ名をつけられていることもあり、女騎士的なイメージのある岸川先生とは相性が悪いと思われているらしい。