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第六話・2

 岸川先生の弁当はどちらかといえば良妻賢母というしっかりした味で、杜山先生はひたすら落ち着く味付けで、食べると癒やされる。どちらがいいというわけではなくて、どちらも俺を魅了してやまない、家庭の味というやつだ。


 考えているうちに腹が減ってきた。岸川先生の肉じゃがが食べたいとか、俺は何を考えているんだろう。杜山先生の卵焼きと魚の塩焼きがあれば、俺はもうそれだけでご飯三杯はいける。先生、おかわりを注いでいただけますか。


 そして気がつくと俺は、数式を書くべきところに茶碗の絵を描いていた。無意識に描いたこの絵の芸術性は、我ながらなかなか高いかもしれない。飢えているだけだと言われたらぐうの音も出ないが。


 俺がこんな状態になっていると知ったら、岸川先生も杜山先生も、どんな反応をすることか――そんなに自分たちの料理が恋しいのかと呆れられてしまうだろうか。


 本当は毎日でも、先生たちのご飯が食べたい。


 それではただの駄目人間だと言われたら、ぐうの音も出ない。学校の先生に食事を作ってもらっている生徒が、どこにいるのだろう。全国津々浦々を探せば、俺以外にも見つかるだろうか。


 ああ、駄目だ駄目だ、気が散ってる場合じゃない。俺は勉強とバイトに打ち込むために杜山先生の勧誘を断ったんだ。杜山先生の料理が食べたいからって、勉強に手がつかないなんて本末転倒にも程がある。


 俺は何とか気持ちを入れ替え、勉強に励む。学校にイヤホンを持ち込むことは自由なので、スマホの音楽アプリを起動して、集中のスイッチを入れた。


 曲の展開が頭に入っているジャズかクラシックが、一番α波が出て集中しやすい。音楽の好みは吹奏楽をやめてからも変わることがなかった。


 ◆◇◆


 気がつくと一時間ほどが経っていた。他に勉強しにきていたグループも何組かいたか、すでに誰もいなくなっている。


 図書当番の生徒が友人と喋っているが、それくらいは勉強の妨げにはならない。あと一時間半、次はどの授業に手をつけようかと思っていると、


「……あ……」


 すらりとした綺麗な立ち姿の女子生徒が、本棚を見ている。本を選ぶ姿がとても絵になっていて、目が離せなくなる。


「うぅん……なかなか興味深いな……いえ、興味深いですね……」


 いやいや、何を呆けているのか。そこにいる人に、俺は見覚えがあるというか、気づかずにいられるわけがない。


 眼鏡をかけているので、印象が違って見える。いや、眼鏡だけではない。


 その生徒は、岸川芽瑠先生その人だった。先生を生徒と見間違えるなんてことはありえない、そう、先生がいつも通りの服装だったならば。


 端的に言えば、岸川先生は、うちの学校の女子制服を着ていた。


 お世辞などではなく、その変装は見事なもので、一瞬あんな美人の先輩がいたのかと本気で思ってしまった。


 しかし、すぐに正体に気づかざるを得なかったのは、うちの学校でも最も大きい部類に入るだろう――いや、恐らく生徒の中では一番大きい――空野先輩よりも、さらに大きくて豊かな一部分が、どうしても目に飛び込んできたからだ。


「……あっ」


 今気がついたというように、先生がこちらを見やる――反則的なまでに制服が似合いすぎている。

二十四歳という年齢はまだ制服を着ても大丈夫なのだと、先生に言ったら怒られそうなことを考えているうちに、先生は俺の目の前までやってきていた。


 第一声が全く想像できないので、先生の出方をうかがう。眼鏡をしているのは変装としては効果てきめんで、いつも鋭い先生の眼光が和らげられて、大人しそうな印象を受ける。


 しかし間違いなく岸川先生であって、謎の先輩ではまかり通らない。


「……初めまして、三年生のき……石川、えるです」


 聞き逃しようもなく、先生は自分の名前を名乗りかけた。偽名を今の今まで考えていなかったとは、普段生真面目な先生らしい。


 岸川先生は嘘をつくのは苦手というのは良く分かった。俺は先生に合わせてあげるべきなのか、冷静に岸川先生ですよねと指摘するべきかを悩む。


 究極の選択というほど、大げさなものでもない。しかし、どう呼べばいいんだろう。その前に、初対面の体で話しかけてきてるから、自己紹介したほうがいいのか。


「え、ええと。俺は、海原……涼太です」

「二年生ですよね、海原……ううん、涼太くんは。時々体育の授業で……そ、そうではなくて……」


 先生の演技が拙いので、見ているこちらがハラハラする。俺が気づいてないフリをすれば済む話ではあるが。


 最初はあまりの事態に混乱したが、先生は悪意があるわけではなくて、むしろ俺のために制服を着てきてくれたのではないかと思えてきた。


「そ、そう、インテリ……ではなくて、成績が良くて、とても気持ちのいい性格の男の子だと聞いて、一度お話してみたいなと思っていたんです」


 今、インテリヤクザって言いかけましたね。いいんですよ、先生なら。


 心の中でツッコミを入れつつも、俺は思う。こんなふうに岸川先輩というか、石川先輩のような美人に声をかけられたら。彼女が本当にうちの高校の生徒で、上級生だったとしたら、俺はどんな受け答えをしただろう。



※お読みいただきありがとうございます!

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