第四話・6
「……なんて、急にお邪魔しようとしたり、うちに来いって言ったり、あんまり強引だと海原くんも困っちゃうわよね」
押しまくってからさざ波のように引かれると、思わずこちらから追いすがりたくなる。
しかし先生は、やはり何だかんだで大人だった。一度話題を変えると、元に戻してくれることはない。
「私、やっぱり海原くんには吹奏楽部に入って欲しい」
「……杜山先生」
「去年の文化祭で、ユーフォの子が体調を崩しちゃったとき、海原くんは飛び入りで参加してくれた。あのとき、秋の文化祭まで一度も吹いてなかったのに、海原くんはしっかりみんなに合わせてくれた。もしユーフォニアムのことを一切考えずに過ごしてたなら、半年ブランクがあってあんなふうにはできなかったと思うの」
今でも、中学時代に部活をしていた頃の夢を見ることがある。
最後の三年目、県大会で俺たちの学校は銀賞に終わった。
今年こそは去年の先輩たちの悲願を叶えるべく金賞を取りたいと頑張っていた仲間たちは、誰も銀では喜ばなかった。金賞を貰える学校は全出場校の三分の一ほどで、決して少なくはないということも理由の一つだ。
俺を含めて男子が二人、他は全員が女子だったが、もう一人の男子が泣いても俺は泣かなかった。やれることはやったと思うし、それで銀だったのも、結果として受け入れるという気持ちだった。
冷めているわけじゃなかった。他の学校もどこも勝負をかけてきて、必死に練習してきた――それが分かる演奏だったから、文句はなかった。悔しいと思っても、どうにもならない。俺たちはベストを尽くしたのだから。
それでも努力が報われないことがあるという経験を、もうしたくはなかったのかもしれない。だから、姉ヶ崎高校に入っても、吹奏楽部を見学する気はなかった。
「ちょっとでもいい。一週間に一度でもいいの。今はユーフォが専門じゃない子が吹いてくれてるから、海原くんが入ってくれたら、その子も元のパートに……」
「先生。ユーフォニアムは、吹奏楽には必須の楽器じゃないと思います。チューバとホルン、トランペット、コルネット、トロンボーン……それらの楽器は知ってても、ユーフォのことを知らない人は多いですから」
「そんなことない。海原くん自身が分かってるはずよ、ユーフォがあるとないとではブラスバンド全体の音にどれだけの違いが出るのか」
世間においてはマイナーな楽器。だが、吹奏楽部に入ればほぼ全ての学校にユーフォニアムがあり、パートが確立している。
姉ヶ崎高校の吹奏楽部もそうだ。俺はすでに、一度一緒に演奏して分かっている。自分の演奏で、ある程度貢献できる部分があることを。
「……それでも、俺は……高校では、部活と違うことをやってみようと思ってこの一年をやってきました。今から入るのは、不誠実だと思います」
「そんなこと……そこまで真剣に考えてくれてるだけで、海原くんは誠実だと思う。かちかちすぎるくらい堅物さんだから、何とかしてふにゃふにゃに柔らかくしてあげたいくらい」
「な、何とかというと……って、その誘惑には乗りませんよ」
「酢の物を食べてもらったら、少しは柔らかくなるかしら……やっぱり、また海原くんにご馳走しなきゃ。頭が柔らかくなるように、栄養管理してあげる」
先生は俺を指差して言う――これは、宣戦布告というやつだろうか。
「栄養には気を使ってますよ、結構サプリを飲んでますから」
「そういうのはだめ、ちゃんと食べ物から栄養を摂らなきゃ。私が作った料理で海原くんの身体ができてるっていうくらいにしてもいいのよ?」
「そ、それは……諸事情によって、なかなか難しいと思いますが……」
「どうして? ……あっ。他にも海原くんにご飯を作ってくれる人がいるからだったり? もう、隅におけないんだから」
女性の勘というのは、超常的なものがあると思う。というより、俺がうかつなことを言い過ぎているだけか。
「でもね、海原くんは私のご飯がすごく美味しいって言ってくれたから、それは良い交渉材料になると思ってるの。そうだ、『杜山さんちのお食事チケット十枚』で、吹奏楽部に体験入部をしない? 悪い条件ではないと思うの」
――これは由々しき事態だ。先生は、自分の料理が武器になると気づいてしまった。
まだ岸川先生も気づいていないのに、杜山先生が俺の弱点を知ってしまった。家庭の味に飢えているというところまでは、悟られていないのが救いだ。
「今から一分以内に体験入部を決めてくれたら、驚きの大サービス! 無期限で私の家にいつでも来てよくて、ご飯だけ食べて帰ってもいいです!」
どこまで先生は本気で俺をスカウトしようとしているのか――普通、一人暮らしでそんな提案をされて断る男はいないだろう。
しかし、俺たちは生徒と先生だ。
同じ学校に通っているから先生と知り合い、部活に勧誘されたりしているわけであって、先生が俺を家に通わせたいとか、そういう意味に受け取ってはいけない。
「先生の家に入り浸ったら、俺はそのうち帰らなくなっちゃいますよ。だから、その提案は受け入れられないです」
「……ちょっとだけは、心は動いた?」
「動きました。それでも俺は、バイトでお金を貯めたいと思ってるので」
「うん、わかった。でもね、高校生活はまだ二年近くも残ってるんだから。先生はまだまだ諦めないわよ」
全くそのつもりがなければ、ここで断っておくべきだろう。
そうしないのは、純粋に、先生が俺を必要としてくれたことが嬉しかったからだ。
「明日もいい天気になりそうね。ほら、星が見えてる」
先生が空を指差す。俺も普段は見ない夜空を、先生と一緒に見上げた。




