プロローグ・3
「私のことでわずらわせてしまって、すまなかった。君もできれば避けたいような面倒事なのだろうが、それでも助け舟を出してくれたのだな」
「い、いや、面倒ってわけじゃ……すみません、言葉のあやで」
「君が謝ることはない。私も、正直を言うと困っていた……何を言っても、親御さんの感情を煽ってしまうと思ったからな。しかし、それで何も言えなくなってしまうのはもっと良くなかった」
教師という人たちは、生徒に助けられても、それを簡単に認めたりはしない。そんなイメージを、俺は長年抱き続けていた。
岸川先生は、その凝り固まっていたイメージをたった一言で砕いてしまった。
「君のおかげで助けられた。ありがとう……何かお礼をさせてもらえるだろうか」
生徒の憧れを一身に集める存在にして、女神と呼ばれている先生。
彼女が頬を赤らめ、優しく微笑みながら俺を見つめている。
しかし、決して勘違いをしてはいけない。
このお礼がきっかけで、何かが始まるなんてことはない。
ないのだから、先生の厚意を受けること自体に問題はない。それでも俺は、彼女の申し出を断らなければいけないと思った。
そうしなくては自然ではないと思うくらいに、俺は常識に縛られていた。
「気持ちだけで大丈夫ですよ。俺は本当に、大したことはしてないですから」
それが無難な落とし所だろうと思った。先生は小さなことでも恩義に感じるほうなのだろうから、甘えてはいけない。
「……うん、分かった。では、君が遠慮せずに受け取ってくれそうな範囲でのお礼を考えておく。私が勝手にしていることだから、気にするな」
思いがけないくらい、あどけなさのある返事だった。
女騎士先生なんて呼ばれているのに、「うん」という言い方がとても素直で、思ってはいけないのに分かっていながら可愛いと思ってしまった。
それまで俺は美人に弱いというつもりはなかったが、実際にそういう場面に遭遇してみて分かった。
俺は年上の女性に弱い。特に、優しくしてくれる女性には。
「君は一年生か……まだ部活に入ってはいないのか?」
「高校では部活に入るつもりはないんです。勉強に集中するつもりなので」
「そうか。勉強ということなら、私も多少はサポートできるかな」
先生が嬉しそうに言ったその内容を、俺は初め社交辞令というやつだと思った。岸川先生は色んな科目を教える技術があって、先生が生徒に勉強を教えるのは自然なことだ。そんなふうに、頭の中で意味もなく言い訳みたいなことを考えていた。
先生が俺に勉強を教えてくれる。このモデルでもそうはいないほどのプロポーションを持つ美女が、俺と二人きりの課外授業をしてくれる――そんな夢のような想像を展開しながら、俺の中の現実的な部分は、絶対にありえない、期待するな、少しでもやましいことを考えたら叱責を受けてしまうぞと全力で警告を発していた。
「先生はご多忙そうですから、無理はしないでください。それに、特定の生徒に対してサポートしたりするのはまずいんじゃないですか」
「う、うん……確かにそれはそうなのだが。では、私は何をしてお礼をすればいいんだ。お菓子を作ったら食べてくれるのか?」
岸川先生がだんだんと焦れてきて、じりじり詰め寄ってくる。
俺より身長は少し低いくらいなのだが、先生のオーラというかそういうものが彼女を大きく見せて、押し倒されそうな危機感を覚えてしまった。
「つ、作ってもらえたら食べますが、やっぱり周囲の目が……うわっ!」
迫ってきていた先生が、俺の両肩に手を置いた。睫毛の数を数えられるくらいの距離まで詰め寄られ、思わず喉が鳴る。
「食べてくれるのならそれでいい。しかしこれでは、私が無理やり君にお菓子を食べさせようとしているように見える。それはお礼でも何でもない」
「そ、それはいいんですが、先生、きょ、距離感が……間合いがですねっ……!」
そうこうしている間も、ぽよん、ぽよんと胸板に何かが当たっていた。柔らかくてとても大きい――マシュマロのような感触。
「さっきから周囲を気にしすぎだ。第一印象は達観したところがある少年だと思ったが、そうやってビクビクするのはらしくないのではないか?」
「ぼ、僕は……いえ、俺はビクビクなんてしてません、ただ一般論としてですね、放課後の廊下で先生と生徒がこんなに接近しているというのは不自然極まります。さっきの保護者の人に見られたりしたらそれこそ一発退場ですよ」
「生徒との交流にレッドカードも何もあるものか。もしイエローカードが出たとしても、もう一枚出るまではフィールドに残れる。それがルールだ」
この距離でのボディタッチは、見る人が見ればレッドカードなのではないか。風紀委員長が見たら、ホイッスルを吹きながら走ってくるところだろう――そんなアニメみたいな風紀委員はそうはいないが。
まだ知り合ったばかりなので俺にも遠慮があり、岸川先生が自分から離れてくれるまでは、甘んじて間近で見つめられるしかなかった。