第三話・4
「せ、先輩……微妙にくすぐったいんだけど……」
「海原、結構背中がひきしまってるなと思って」
「ま、まあ……人並みだと思うけど。先輩、もしかして筋肉好きとか……」
「揺らしてあげようか?」
「何でもないです、ごめんなさいもうしません」
「ん」
俺は先輩に対して、身構えすぎだという気がしてくる。だが、先生たちと同じくらいに、先輩に対しても何か弱いというか、年上の女性にはおしなべて弱い気がする。
一個上なだけの先輩なので、そこまで意識しなくてもいいはずだ。大人びていると言っても、実際に大人の先生たちと比べたらまだ学生の俺たちは子供なわけだから。
「……今の、ちょっと可愛かった。海原、いつも落ち着いてて、そうやって慌てたりするの珍しいから」
「俺を可愛いって言うなら、サーベルタイガーあたりでも可愛いと思ってしまうんじゃないですか」
「すごい……自分のことを、サーベルタイガーと同じくらい強いと思ってる?」
「い、いや、思ってないですけど……世間的に可愛いと言われないものの例として上げただけですよ」
何の話をしているんだろうと思う。というか、空野先輩とこんな何でも無い話ができること自体が珍しくて、そわそわと落ち着かない。
「サーベルタイガーだって、ごろごろしてたら可愛いはず。ごろにゃーんって」
「ネコ科の生物がみんなネコみたいとは限らないですよ……それに、絶滅してますし」
「…………それは残念」
「本気で落ち込まないでください、俺がひどいやつみたいじゃないですか……先輩?」
先輩がまた何も言ってくれなくなる。俺の話で機嫌を損ねてしまっただろうか。
「……海原は絶滅しないといいね」
先輩がそう言いながら、俺の背中に寄り添ってくる。その瞬間、俺は息を飲むことすらできずに、律儀に触れた部分に神経を集中させてしまう。
うちの学校だと、まだ冷えることのある今くらいの季節は、カーディガンの上にブレザーを着て登校する女子が多い。先輩もその一人なのだが、それだけ重ね着をしているのに、背中に当たる胸がそのボリュームをはっきりと主張している。
「お、俺は人類の一員として、まだ地球で繁栄しているうちは大丈夫かと……せ、先輩、それより、ちょっと離れてもらって……っ」
「……ちょっと風が冷たいから、海原を風よけにしてるの」
「そ、そう言われても……まあそれくらいなら、全然してもらっていいんですが……いや、いいけど」
「……敬語、完全に直ってなくても、別に怒ったりしないから。たまに敬語になると、ちょっと可愛いし」
「だ、だから可愛いっていうのは……先輩は、ちょっと性格が悪いかな」
「何か言った? ……なんて。自分でも良くないと思ってる」
話していて、ふと気がつく――昔のような空気が、少しだけ戻ったように感じる。
校門まではあと十分ほどかかる。このまま先輩と話していれば、あっという間だろう。
学校に続く、坂の始まりに差しかかる。ここを登るのが遅刻間際の生徒には本当に大変で、心臓破りの坂と呼ばれている――歩いて登る分にはさほどきつくないが、自転車で来た人間はそれなりの比率で坂登りに挑んで、汗だくになってゴールしては教室で後悔するという慣習(?)がある。
俺も許可を取っているので、普段は自転車通学をしている。今日の帰りはなんとか置きっぱなしにしている自転車に乗って帰りたいところだ。
「……あ。おはようございます、先生」
坂を登り始めたところで、同じように自転車を降りて押してきた人が、俺たちの横に並ぶ――長い髪をなびかせて走ってきたその人は、岸川先生だった。
「おはよう、空野。朝練のない日も早い時間に登校しているんだな……」
「お、おはようございます、岸川先生」
「っ……お、おはよう……」
俺が空野先輩の自転車に乗せられている状況は、岸川先生を驚かせてしまったようだった。確かに俺もこんなことになるとはついさっきまで思っていなかったので、知り合いに見られると恥ずかしくなってくる。
「……海原くんが、足を痛めたって聞いたので。さっき一人で歩いてたので、自転車に乗ってもらいました。二人乗りは駄目なので、ちゃんと押してきてます」
「い、いや……そうか、空野は海原とは知り合いだったな。しかし、そんなに親しいとは……遠くから見ると、仲の良い男女のように見えてしまっていたが……」
「……ちょっと寒かったので、海原を壁にしてました。反省してます」
「注意をしているわけではないが、その……ま、まあ、今の時期にしては、今朝は寒いから仕方がない」
先生の様子がさっきから少し変だと思うのだが、気のせいだろうか。
やはり、水泳部のエースにこんなことをさせていたら、顧問として物申したいということもあるのだろうか――そういうことなら。
「先輩、ありがとう。ここからは自分で歩くよ」
「っ……だ、だから、注意をしているわけではない。私も協力して二人で押していった方が、楽ではないかと思って……」
「……岸川先生の自転車は?」
「い、いや。だからですね、ここからは自分で歩くので……」
本当にあと少しなので問題ないのだが、岸川先生は鋭い目で俺を見る。まさに女騎士の眼光というやつで、反論を許されない空気だ。
「坂は足に負担がかかる。私が松葉杖を運んでおくので、二人はゆっくり上がってくるといい。杖は門衛さんに渡しておく」
「……はい。ちゃんと連れていきます」
岸川先生と空野先輩の間で話が決まってしまう。俺の意見を少しでも取り入れてくれればと思うのだが、俺は助けてもらっている立場なので、素直に感謝すべきなのだろう――しかし。
「おい、あれって……」
「ちょっ……待てよ。あれって二年のインテリヤクザだろ?」
「二年生からミスコン隠れ一位の空野奈々海に自転車を押させるとか……あいつ、そろそろ逮捕されても文句は言えないな」
「俺たちの空野奈々海をあんな奴に……あ、何だ。あいつ、足怪我してんだ」
「空野さんって、人助けとかするタイプなんだ。ちょっと意外かも」
さんざん噂をされてしまっているが、俺はもう慣れているとしても、空野先輩が言われるのは納得がいかない。
「……私たちが分かってればいいから。海原は、気にしなくていい」
「は、はい……すみません」
「それより……これは、なかなかいいトレーニングになりそう……足がぱんぱん……」
「……やっぱり降りた方が良くないですか?」
先輩は汗一つかかないとはいかず、頬が紅潮している――そんな状態でも首を振り、姿勢を崩さずに俺を押していってくれる。
「じゃあ……今度は、俺が先輩を自転車に乗せて押させてもらいます」
「……いい。そんなことされたら……恥ずかしい……」
自分がされたら恥ずかしいことを俺にしている先輩――彼女はやはりとても意地が悪くて、とても優しい。
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