プロローグ・2
「先生の指導方法に問題があって、うちの子が体調を崩していることは、教育委員会にも報告させてもらいます」
「……それは……」
教育委員会。その言葉が俺の中に引かれたラインを越えた。
モンスターペアレントと言うほどでもないのかもしれないが、一方的に言い分を押し付けられる岸川先生を見ていて、放っておけなかった。
上手く行く保障があったわけじゃない。岸川先生を助けたい、そのために何かができないだろうかとひたすら考えて、思いついたことは――。
「あの、ちょっといいですか」
「え……? あなた、岸川先生のお知り合い?」
声をかけると、保護者の女性だけでなく、岸川先生も驚いている。それはそうだろう、急に知らない生徒が話に割り込んできたのだから。
「俺はこの学校の一年です。先生の代わりに、俺に謝らせてもらえませんか」
「は? 無関係のあなたに謝ってもらっても、うちの娘は……」
「失礼ながら、話を聞かせてもらいました。吉田さんが悪いことをしてないのなら、俺は先生も悪いことをしていないと思います。でも、お母さんは謝って欲しいということですから、それなら俺が頭を下げます。どうも、すみませんでした」
上手いやり方が思いついたわけじゃなかった。怒っている相手を、謝ればなだめられるというのも希望的観測にすぎないと分かっていた。
「そ、そんなふうに頭を下げられても……せ、先生も何か仰ってください」
先生も黙っているわけにいかず、俺の肩に手を置いた。俺はそれでも顔を上げなかった――すぐに先生に従えば、ただの茶番で終わってしまう。
「君がそんなことをする必要はない。これは水泳部の中での問題だ。吉田は部を休んでいて、部員たちも心配している……少し部活を休んだからといって、厳しくしすぎたかもしれない」
有望な選手でも、部活以外のことに目が向いてしまうことはある。
そのとき実のところは、吉田さんが部活に出ないあいだ友人と遊んでいたことも、岸川先生は把握していた。それでも言い返さなかったのは、話がこじれることを恐れたからだ。
ここで保護者とも関係が悪化すれば、このまま吉田さんが退部する可能性が出てくる。岸川先生はそれを避けたかったと、後になって俺に教えてくれた。
「……あ、謝ってくだされば、それでいいんです。うちの子が練習に参加しやすくなるよう、先生には配慮していただかないと」
まだ俺は頭を下げたままでいた。保護者が捨て台詞のようなことを言って立ち去ったあと、ゆっくり顔を上げて、大きく伸びをする。
先生が俺を見ている。何か無性に落ち着かなくて、申し訳なくて、こんな言葉が口をついた。
「先生、余計なことをしてすみませんでした」
これで先生を助けられたなんて思うのは、ただの偽善だ。だから俺は、すぐにその場から立ち去ろうとした。
「待ちなさい」
制服の袖を持たれて、引き止められる。
緊張しながら振り返り、一瞬思考が止まった――先生の表情を見て。
彼女は少し怒ったみたいな顔をしていた。頬が赤く、瞳は潤んでいる。
先生の年齢をそのとき正確には知らなかったが、大人の女性にそんな顔をさせてしまうことを、俺は想像もしたことがなかった。
「なぜ、君が頭を下げた。私が一人で解決すべき問題だったのに」
こういうことになるとも、俺は予想できていた。
大人の問題に首を突っ込むのは良くないことだ。分かっていたのに、余計なことをしてしまった――そう思った。
「先生が頭を下げちゃいけないと思いました。俺が頭を下げても、特に減るものはありませんから。あれで引き下がってくれるかどうかは、ただの賭けでした。考えなしなことをしてすみませんでした」
「……どうして、そこまで……私のことを、知っていたわけでもないのに」
「知らなくても、先生が間違ったことを言ってないことは分かったつもりです。先生はこんな面倒ごとに付き合うより、他に時間を使うべきことがあると思いました」
先生はそのとき、目を見開いていた。生意気な口の利き方をしていると自覚していた俺は、その反応を良いものとは考えなかった。
しかし悪い気はしなかった。俺は自分が思っている通りのことを言えたし、それで先生が怒るのなら仕方がないと思った。嫌われることには慣れていて、先生みたいな美人に睨まれるのは辛いことだが、自分の性格を考えれば仕方がない。
俺に好感を持ってくれる人なんて、よほどの物好きしかいない。
しかしそんな俺の内心をよそに、岸川先生が次に見せた表情は――笑顔だった。