プロローグ・1
誰でも一度は想像したことがあるはずだ。
通りすがりで困っている人を見かけたとき、助けるかどうかという類の話を。
その困っている人が誰もが振り返るような美女だったとして、上手く助けられたとしても、そうそうドラマが起こったりはしない。
けれど、俺と先生との関係が「同じ学校の教師と学生」というだけではなくなったのは、間違いなくあの出来事がきっかけだと思う。
通りすがりで困っている人を見かけたら。
その誰かが、生徒たちの憧れの的である「美人すぎる先生」だったら。
一年前に経験したその出会いと、それからの先生との関係性を知り合いに話せば、きっと血涙を流して羨ましがられるだろう。
同時に言われるに決まっている。で、それはいつ見た夢の話なのかと。
◆◇◆
高校に入ってまだ間もない頃のこと。
放課後に図書室で勉強してから帰ろうとすると、職員室前で、スーツを着た女の先生と生徒の保護者らしき女性が何やら口論していた。
「岸川先生、うちの子はどうしても必要な用事があって、部活を休ませてもらうように頼んだはずです。なぜ試合のメンバーから外されないといけないんですか?」
絵に描いたような保護者からのクレームというやつだった。先生という仕事は激務で、公立学校の教師というのは公務員の中でもかなりヘビーな部類に入るのではないかと思っていたが、まさにその通りなのだろうとその時思った。俺は安定した職業について調べることには熱心だったのだ。
だから最初は、先生を心配するというよりは、他人事のように大変そうだと思っただけだった。
けれど岸川先生の凛とした声が聞こえて、俺は立ち去ろうとする足を思わず止めていた。離れたところから見ても、先生の立ち姿は毅然としていて――まさに、自分の意志を貫こうと戦う女騎士みたいだった。
「吉田さんは、今年に入ってから部活の欠席が目立っていました。ちゃんと出席しているメンバーは、着実にタイムを上げてきています。先日の計測でも、吉田さんのタイムはぎりぎりで他の選手に届きませんでした」
そのとき初めて、俺は岸川先生が水泳部の顧問だと知った。
恥を偲んで告白すると、俺はそのとき先生の姿を目に収めることだけで意識がいっぱいになっていた。駄目だと思いながら、見てしまう――岸川先生を前にして、俺は自分の理性が大して強固ではないことを思い知らされた。
先生は、とても胸が大きかった。
俺からは彼女を横から見るような位置だったのだが、鎖骨の下あたりからスーツのジャケットが目を疑うほどの曲線を描いていて、山のように前に突き出している。それでいて全体のシルエットは細身なのだから、胸の膨らみが目立つことこの上なかった。
流れるような長い黒髪を、後ろで一つに結んでいる。ほどけばきっと、腰くらいまでは届くくらいの髪の長さだったろうか。そして、見つめられたら身動きができなくなりそうなほど、涼やかな光を湛えた瞳
――まさに、女神だった。
この学園において、実際に岸川先生が「二大女神」と呼ばれるうちの一人であり、イメージ通りに「女騎士先生」と呼ばれていると知るのは、それからすぐあとのことだ。
しかしいかにも強い女性に見える岸川先生は、次の保護者からの一言を受けて、表情を曇らせることになる。
「事情があって休んでいた生徒を、試合のメンバーから外す。先生、おわかりになっていますか? これはパワーハラスメントですよ」
「私は、そんなつもりは……」
「そんなつもりじゃない、ではすみませんよ。うちの子はメンバーから外されて、水泳部を辞めたいとまで言っているんです。一時はご飯も食べられなくなって、可哀想に……あの子は何も悪いことをしてないのに」
部の中で競争があって、試合に出られる人数が限られているのなら、良いタイムを出して結果を残さなくてはならない。俺は中学では文化系の部にいたが、その中でも競争というものは存在していた。
努力の結果として試合に出る選手が決まる、そのルールが「パワハラ」という問題にすり替えられ、捻じ曲げられようとしている。
他人のことで正義感を発揮するのは、あまり利口なことではないと思っていた。
――だが、そんなふうに割り切る日頃の自分を、すでに忘れそうになっていた。