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No.07 祖父の暗室

 人の記憶は、どのくらい確かなものだろう。

 

 祖父の葬儀が終わり、火葬場のロビーに座りながら、ぼんやりと俺は考えた。

 防虫剤のと抹香の臭いが混じったようなロビーには喪服が行き交っている。

 盆や正月にさえ会ったことない親戚連中に挨拶するのにも疲れて、缶コーヒーでも飲みにいこうかと立ち上がると、兄と目が合った。

「マコト。退屈してんな」

 返事をせずに自動販売機に向かうと、隣に立った兄貴がぼそりと言った。

「お前さっき釜入れの時にいなかっただろ」

「見たくねえし。カズ兄ぃ、じいちゃんが骨になるなんて想像できる?」

「ガキか。高ニにもなって何言ってんだよ」

 ゴトリと音がして落ちてきたのを取り出し、ほれ、と声を掛けて兄が差し出した缶を見て、俺は顔をしかめた。

「甘いのいらねえし」

「いいから糖分とっとけ。昨日からあんま食ってないだろ」

 食えるか。

 つい一昨日まで生きて目の前に居た祖父が、学校から帰ると顔に白い布掛けられてて。仮通夜だの通夜だので急に慌しくなって悲しむヒマもなく。葬儀社だ保険会社だ親戚だと人の出入りばかりが多くなって、ただ時間が過ぎた。喪服を用意する両親を尻目に、ああそうか、学校の制服に黒や紺が多いのは、こういう時の為なのかなんてくだらないことをぼんやりと考えたことくらいしか記憶にない。

「まあ気持ちは分かるけどさ。骨上げの時は逃げちゃダメだぞ」

「るせえよ。んな事より自分の嫁さんの心配でもしてやれって。おばちゃんらに捕まって困ってんだろが」

 俺と兄はロビーから見える和室に目を向けた。ここには遺族のための控え室として三部屋ほどが用意されているが、今日はうちの他には火葬は無く、それをいいことに声高にしゃべってる親戚の叔母や婆たちが見える。骨上げの時間まで、まだ小一時間ある。先月結婚したばかりの兄貴の嫁は格好の茶飲み話のネタにされているんだろう、困ったような愛想笑いを浮かべて婆たちに相槌を打っているのが健気というか。

そういえば、昨日は義姉に助けられたんだっけ。


** *


 昨日の通夜のこと。祖父の遺体の枕辺に交代で灯明を点すため、両親と叔父、叔母たちが泊り込み、狭い祖父の家は定員オーバーとなった。あぶれた兄夫婦といとこ連中が俺の家に泊まることとなったが、ただでさえ狭い2LDKのマンションで大人二人に子ども四人、どうやって部屋割りしたもんだかと俺は真剣に悩んだ。小さいうちは皆で雑魚寝もできたが、二人の従妹はもう中学生だしさすがにそれは嫌だろう。というか俺も嫌だし。といって兄夫婦と同室はもっとまずい。仕方ない、俺の部屋は従妹たちに譲って、俺は小五のタカシを連れて寒いリビングでガマンするか、などとウダウダ考えていたら、パン! と手を打って義姉が明快に言った。

「じゃオトコ組三人はマーちゃんの部屋、オンナ組三人はこっちの六畳ね。各自寝具は自分で確保すること。はいっ、用意ドン!」

 用意ドンは余計だが、このひと言には救われた。中学で体育教師をしているとは聞いていたけど、さすが人を仕切るのが上手い。二人の従妹が義姉と一緒に修学旅行みたいにはしゃぎながら六畳の和室に消えた頃には、安心と共に疲れがどっと出てきた。

 

「悪りぃね、新婚さんをばらけさせちゃって」

「おう、迷惑だ。むっさい弟にでかい小学生に」

 兄は笑いながらベッド脇の布団に寝転び、懐かしそうに部屋の天井を見上げた。

「この部屋、こんなに広かったっけか」

「二段ベッドの上を取っ払ったからだろ。天井とか壁の可視率は確かに上がったよな」

 俺も改めて天井を見上げた。

 数年前までは兄弟でこの狭い部屋を一緒に使っていた。兄が進学の為県外に出てからは俺が散らかし放題に使っているから、荷物の隙間に寝るような格好になってしまったのは、正直ちょっと心苦しい気がするが、こんな風に兄弟でどうでもいい話をしていると、ふとガキの頃に帰ったような気がした。

「なあ。俺、じいちゃんの暗室に何歳まで入ってたっけ」

「暗室か。懐かしいな、確か俺が高校を卒業する頃までは焼いてたから……」

「じゃ、俺は小五か。タカシと同じくらいだったのかな、最後に手伝ったのは」

 ぐ、とうめいて兄が腹を押さえた。いつの間にか寝入ったタカシに蹴られたらしい。

「でかいなこいつの足。これで小五かよ。靴何センチ履いてるんだ?」

 そうだ。今のタカシと同じ、小学五年生の秋。確か祖母が亡くなった時、あれが暗室に入った最後だった。寝返りを打った俺の脳裏に、祖父との思い出が断片的に蘇る。 


 写真好きだった祖父は、自宅の離れを改造して暗室まで作っていた。離れといっても、簡単な流し台とトイレがついているだけの一間部屋。今でいうなら1DKか、1Kか。どこからか廃材のドアをもらってきて二重扉にしたり、窓という窓に手製の暗幕を張ったりと、ひとつひとつ自分で手を入れていくのが、子どもだった俺の目にも楽しそうだった。

「秘密基地みたいだったよな」

 独り言のつもりで呟いたのだが、兄の笑い声が聞こえて思わず振り向いた。

「秘密基地ねえ。ま、お前は小さかったからそう見えただろうけどな」

 含みのある言い方にムッとして、兄に問い返す。

「じゃ、カズ兄ぃにはどう見えてたんだよ。誰にも邪魔されずに自分の好きなことにどっぷり浸れる空間を持ってるなんてさ、男としてはそれ憧れじゃん。俺は好きだったよ、あの暗室」

 今でも鼻腔に残る酢酸のにおい。絶対触るなと言われていた茶色い瓶。メジャーカップ。ホーローのバットの中でゆらゆらする印画紙。御影石の流し台の横で鎮座していた引き伸ばし器。赤いセーフライトが創る異空間……

「お前、『お座敷暗室』って知ってるか」

「はあ? なんだよそれ。めっさ昭和っぽいんですけど」

「ああ、そうだよ。昭和の話。俺だって直接見たわけじゃない、親父から聞いたんだ。座敷、つまり部屋の床にビニールシート敷くなりして写真の現像作業とかしてたらしい。ただ洗浄の作業だけは水が要るから、風呂場使ったりな」

 俺はすっかり目が冴えてしまって、兄の話に聞き入った。

「すげえな。じいちゃんもそれやってた?」

「らしいよ。でもだんだん機材に凝り始めて、ばあちゃんに内緒で引き伸ばし器まで買ったりしてさ。凝り性だったのがまずかったな……」

「まずいって、何が? やっぱどうせなら本格的にやってみたくなったったんじゃね? 俺だって今も暗室があったら自分でやってみたいもん」

「甘いな、お前。今と時代が違うだろ」

 兄はこちらを向いて苦い顔をした。

「マコト。親父がじいさんの趣味嫌ってたの、なぜだか知ってるか?」

「え……さあ」

 深く考えたことはないが、確かに父は、祖父の写真趣味も、俺や兄が暗室に出入りするのも嫌っていた。

「俺はさ。じいさんが暗室片付けるって言ったときの親父の顔が忘れられないよ。『今さら!』って怒鳴り始めたんだ、親父は。『止められるような趣味なら、なんでもっと早くに止めてくれなかったんだ、こんな機材やらカメラやらにつぎ込む金があれば、俺は昼間の大学に進学できたんだ!』ってさ」

 俺は言葉が出なかった。

 父が高校卒業後、働きながら夜間大学に通ったことはさんざん聞かされていたけど、オヤジの苦労自慢なんて、とまともに耳を貸したことはなかった。

「俺やマコトが無邪気に暗室に出入りしてた時、親父はどんな思いで見てたんだろうな。それにばあちゃんもさ」

「知るかよ!」

 俺は背を向けた。

 祖母は、父が成人してから家を出たと聞いている。だから、俺は全く面識がない。ただ、俺が小学五年の時、そう、最後に暗室作業を手伝った時に、初めて写真を見せられた。

 祖父との離婚後、再婚先で祖母が幸せだったかどうかは知らない。ただ、婚家から訃報を聞いた時の、祖父の顔は覚えている。

 慟哭するでもなく。静かに涙するでもなく。ただ、

「遺影はこちらで用意させてください。私には、それしか供養ができませんから」

 と電話口に告げる祖父の顔は、蒼白だった。

 そしていつものように暗室作業に取り掛かる祖父に、俺は何の考えも無く付いていった。

 そう、いつもの作業だと思って。

 けれどその日、祖父は大きな印画紙を用意していた。引き伸ばし器のレンズを下にではなく横に向けて、壁に照らし出された像は、初めて見る祖母の顔。何度か話に聞いて、優しげなイメージを思い浮かべていたその人は、もうこの世に居ない、そのことが俺を怖がらせた。

 ぞく、と背中が寒くなったのを覚えている。

 怖がっちゃいけない、この人はおばあちゃんなんだ、怖がっちゃ失礼だ、そう自分に言い聞かせた。幼いながらそれくらいの分別はあるつもりだった。けれど。

 結局泣き出してしまった俺のために、祖父は作業を中断せねばならなかった。

 そして、その日以来、俺が暗室に向かうことは無くなった……


 * * *

 

 館内アナウンスの声が静かに響き、親戚たちが動き始めた。これから遺骨を拾うという作業が始まる。

「逃げるなよ。最後くらい、ちゃんと見送ってやらないと」

 兄が小声で釘をさす。

「わぁってるよ。ばあちゃんの時みたいにガキじゃないんだから」

 俺はブレザーの裾をはたいて皆に続こうとした。ふと、横を見ると、タカシが困ったようにもじもじしている。

「じいちゃんの骨みるのが怖いか、タカシ」

「べ、別に」

 明らかに強がっているタカシの背中を、俺はポンと叩いてやった。

「いや、怖がったっていいんだ。けど、ちゃんとお別れはしてあげないとな。でないと、ずっと心の中にじいちゃんに済まない気持ちが残るぞ。儀式とか、決め事とか、めんどいけどさ。こういうのは生き残った者の気持ちの整理のためにこそあるんじゃね?」

 タカシは驚いたように俺を見上げ、わかった、と言って大人たちに紛れていった。

「よっく言うよな」

 兄が冷やかすように俺を見ている。

「ああ、言うよ。悪りい?」

 俺はニヤと笑って扉に向かった。

 そう。六年前、祖母の死をどう受け止めていいのかわからず、俺は喪の作業をすっぽかしてきたんだ。けど、もうそんなことはしない。静かに祖父を送り出してやろう――


** *


 季節が秋から冬に変わる日。

四十九日の法事が済んで、祖父の遺品は整理され、形見分けのために親戚たちが集まっていた。

形見といったってロクなものがあるわけじゃなく、遺された古本や家具類は業者に引き取ってもらうことになったのだが、その中でも膨大な数のネガフィルムの始末をどうするかで叔母たちが困惑していた。

「今どきこんな古い写真、どうしようもないわよ」

「誰もいらないだろうしねえ。思い切って処分するしか……」

 話している叔母たちの元へ、だだだ、と血相を変えて父が飛び込んできた。呆気に取られている叔母の手から、ネガフィルムの入った箱をひったくる。

「触るな、お前らに、この写真の意味が分かってたまるか!」

 そう叫ぶなり、父は箱を抱えてうずくまり、号泣しはじめた。

 六年前の祖母の葬儀でも、祖父の葬儀でも、涙を見せることが無かった父がだ。 

ああそうか、俺は父の背中を見ながら思った。父はとうに祖父を赦していたに違いない。自分が進学できなかった恨みつらみなんて、抱えて生きてきたわけじゃなかったんだ、と。


 季節が変わり、父は今、祖父の残したネガフィルムを、ぼつぼつと焼いている。

「おかしいでしょ、そんなのスキャナで取り込んで保存しとけば、って言ってるのに、貸し暗室まで借りて、自分で焼いたりしてるのよ」

 母は笑いながら電話で兄に伝えている。

 父の気持ちは分かる気がする。おそらくその貸し暗室で、フィルムに遺された祖父の心と向かい合っているに違いない。。

 それは、きっと暗室という異世界の中でしかできない、父なりの喪の作業なのかもしれない。

(了)





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