No.04 すみクロ!
秋の細長い光が差し込む廊下を歩く。立ち止まり、ひとつの扉の前で小さく深呼吸をした。この教室に入る時、俺は自身を清め正す必要があるのだ。深い呼吸を繰り返し、心を落ち着かせて、凛とした緊張を全身に行き渡らせる。制服と眼鏡の位置を整えてると、一息に扉を開いた。
「お、新ちゃん」
間の抜けた声を、間の抜けた馬鹿が出しやがった。瞬間俺は、今日この日この時間に書道室へ来てしまったことを激しく後悔した。噛み締めた奥歯がぎりりと音を立てる。
「どうしてお前がいる」
尋ねておきながら声の刺々しさに少し驚く。他の誰かならこんな声にはならないのに。思うと、苛立ちがもう一段階大きくなったような気がした。
しかし、そんな俺の心境など、先に来ていた雨音はミジンコの脳みそほども理解していないのだろう。ころころと楽しそうな笑みを浮かべ、とてもご機嫌のようだ。んー、と小さく唸ると雨音は元気よく俺の質問に答えた。
「何だか今日は筆を持ちたくなったのだ」
同時に墨をたっぷり含んだ筆を目の前に突き出す。床に黒い雫が垂れて、ぽつりと小さな円が出来る。深く澱みに沈むような頭痛がして、俺は猛烈に帰りたくなった。
書道は静かだから好きなのだ。白い半紙に向かい、凪いだ水面のような気持ちで筆を持つと、ぴんと空気が張り詰めて落ち着いてきて。やがて清流の側で涼んでいるような清々しさに満たされて、嫌なことは全部吹き飛んでいく。そうして日々のストレスを発散させているのに。
今日は雨音がいる。俺が一番苦手とする女がいやがる。こんな状況で筆を手にして、静寂に満たされることが出来るだろうか。
出来るはずがない。
木曜日の書道は習慣だったのだ。誰もいない書道室で黙々と筆を運ぶのが至福の時だった。でも、今日だけは無理だ。結論付けて、俺は教室に一歩も踏み入らないままぐるりと回れ右をした。
「あれ。新ちゃん帰っちゃうの?」
背中に雨音の声がする。誰のせいだと思っているんだと少し腹が立った。
「ああ。気分が悪くなった」
つっけんどんに言い放った。すぐにでも立ち去りたかったのだ。
「あ、ちょっち待って」
なのに、声がしてぐいっと後ろに引っ張られる。遅かった。既に服を掴まれてしまっていた。舌打ちを堪えて振り返る。満面の笑みを浮かべた雨音が、残った方の掌に硬貨を乗せていた。
「はい」
軽い動作で手渡される。
「ミルクティー買ってきて。あったかいの。違うの買って来たら許さないかんね」
廊下をずんずん歩きながら、俺は猛烈にむかついていた。雨音がいたから帰ろうと思ったのに。指示を受けてしまったことがどうしても癪に障ったのだ。帰ると言ったのに。どうしてあいつはお使いなど頼むことが出来るのだろう。そもそも頼んでおいて許さないとは何事なんだ。自分勝手にも程がある。
「ほらよ」
思いながらも、急いで教室に戻り、机に荒々しくミルクティーを置くことでしか苛立ちは表せなかった。きょとんとして顔を上げる雨音は、そんな俺の心中になど考えも及ばないようで、にっこり笑ってありがとうと言った。
ますます腹の立つ!
「へへ。新ちゃんって本当いつも優しいよね」
言われて俺の中の何かが切れた。残る。残ってやる。今日は絶対に書いていく。空いた机に鞄を投げ出し、道具の準備を始めた。
「あれ、帰るんじゃなかったの?」
「気が変わった!」
吐き捨てるように返事をして硯に墨汁を注いだ。
こんな奴に負けてたまるか!
最後に出てきた真っ黒な泡は音もなく弾けた。
俺の学校の書道部は基本的に自堕落だ。週に一回しか部の活動はないし、入部する奴もそういったところに魅力を感じている奴らばかりだからほとんどサボる。加えて部の顧問も放任主義者のため、唯一の活動日である月曜日に教室に来るのは俺と雨音くらいだった。
そんなんだから、自然と俺と雨音は話すようになった。俺にとっては厄災の始まりに他ならなかったのだが。
と言うのも、この雨音という女は書道部に書道をしに来ていない。専らおしゃべりしかしないのである。それだけではない。菓子や飲み物、ゲームやDVDなんかを持ち込んで公然とくつろいでいくのだ。隣で俺が書に精を出しているにも関わらず。
正直たまったものではないのだ。何よりもまずうるさい。そしてうるさい。俺は生返事しかしないのに、雨音は嬉々として話し掛けてくる。集中もへったくれもあったもんじゃないのだ。折角の書道を俺はいつも邪魔されることになっている。
だから木曜日に一人で書道室に行くようにしたのだ。いや木曜日だけではない。ちょっとイライラした時や落ち着かない時など、一週間ほとんど毎日書道室には足を運んでいた。書道だけが俺の心を安らかにしてくれるのだ、当然のことだった。
なのに、今は雨音がいる。木曜日なのに雨音がいやがる。月曜日と同じく姦しく喋っている。
全く、たまったもんじゃない。どうしてこいつがここにいるんだ。雨音の声を何とか無視して筆を動かしていたら、そんなもう何度となく浮んだ思いが再び顔を持ち上げた。
「でね、あたしその猫を抱きしめようと思ったんだけどさ」
雨音は至極どうでもいいことを喋り続けている。ちらりと覗き見た半紙には、得意のお絵かきが描かれていた。
「こんな猫でね。もうほんっとうに可愛くさ。ね、聞いてる新ちゃん?」
「ああ、聞いてるよ」
聞いてるわけねえじゃねえか。
口と頭の中とで正反対の返事をしてから、俺はもう一度半紙に意識を戻す。邪魔されている場合ではないのだ。俺は心を落ち着かせるためにここへ来ているのだから。ならば何をすべきか。決まっている。書くのだ。
未だに要領を得ない猫との話を続ける雨音の声を意識の外に完全にシャットアウトして、俺は筆にしっとりと墨を蓄えた。
書はとてもシンプルに完成された芸術だ。脈絡と受け継げられてきた文字を、ただ書き取るだけの芸術。それ自体には意味などない文字を素直に書き表すだけのものだ。だが、それを墨と筆で表すことによって単なる記号は評価され得る美へとその姿を変える。
墨の黒と半紙の白。そこに表さるのは声とならない想いを伝える造形だ。線の太さ、筆の運び、墨の潤渇。その三点が全てを表現する。
息を殺して、始まりの一画に筆を下ろす。この一筆が作品の良し悪しを占うのだ。ゆっくりと慎重に、かつ鮮やかで大胆に。一画一画、筆を運んでいく。紙面に文字が生まれていく。どっしりと腰を据えた太いため。勢いと軽さを表す鋭いかすれ。繋いでいく内に、心は次第に真空になっていく。
全てが透明な凪いだ空気。この空気が好きなのだ。だから俺は書を続けている。かけがえのない至高の空間に浸るために。
だが忘れていた。今ここにはそんな空間をぶち破る奴がいるってことを。完全に失念してしまっていた。
最後の文字を書こうと筆を運んでいた時だった。
「ねえ、新ちゃん。これ食べる?」
声と共に視界の上からぬうっと掌が現れた。突然の変化に思わず筆が止まる。凪いでいた真空が、がさりと壊れていく。状況が掴めないまま見上げた先には、すっとぼけたように感情のない表情の雨音が首を傾げていた。突然のことすぎて何がなんだか分からない俺は、そのまま少しの間、雨音と見詰め合うことになった。
「ほれ。食べない? このグミね、かなり美味しいんだよ」
言って、雨音が俺の左手を広げさせてグミを乗せる。呆然としたままの俺は手の上のグミを見て、そのまま口の中に放り込んだ。グレープ味。噛み応えのあるグミ。
「って、違うだろうが!」
「ほえ?」
「ほえ、じゃねえよこの馬鹿!」
ようやく意識が状況に追いついて、俺は声を荒げた。
「ど、どったの新ちゃん。いきなり怒り出したりして」
「どうしたもこうしたもねえよ。もうちょっとで書けてたのに。途中で邪魔しやがって」
「ご、ごめん。新ちゃん、あんまりに真剣にやってるから何か食べたいかと思って」
どうしてそういう考えが浮ぶんだ!
沸点に達した感情のお陰で、とうとう声すら出なくなった。
本当にこのど阿呆は!
わなわなと震える怒りで両手が意味もなく宙をかく。煮えたぎる怒りをどこに向かわせたらいいのか、よく分からない。選べる選択肢が見つからない俺は、仕方がないので勢いよく椅子に座るしかなかった。目の前にあと一文字で完成だった半紙がある。ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた。
「あ。新ちゃん、もったいないよ。すごくうまかったのに」
だから、誰のせいだと思ってるんだ!
心の中で叫んで、俺は本当に何も書けなくなってしまった。
雨音は面白い奴だ。性格とか外見がどうこうという問題ではない。人間として、もっと言えば生物として面白い奴なのだ。なんとなく目を奪われてしまう。人ごみの中にいてもすぐに見つけることが出来る。とりわけ美人で目立ってるわけでも、体型に目がいくわけでもないのに。何と言うのだろう、オーラが違うと言えばいいのだろうか。雨音は他の人とは何かが違う。
例えば、雨音が書道部に入った理由だってなかなかに変わったものだった。
「美術部ではごてごての洋画しか描けなさそうだったから」
ある時尋ねた俺に雨音はそう答えた。事実、時折思い出したように筆手に取る雨音は、書道部にいるにも拘らず水墨画を描いた。ほんの数回だけだったけれど。
「水墨画にはどこかに運んでくれるような深みがある」
いつだったか雨音はそんなことを言った。いわく、「絵画は前面に押し出す迫力があるが、水墨画には吸い込まれるような深みがある」のだそうだ。何のことだか俺には未だによく理解できない発言である。
しかしながら、言うだけあって雨音の画はなるほど素晴らしいものに見えた。さらりと描いた動物をとっても、すらりと立つ植物の姿を見ても、素直にうまいなあと思えるのである。薄墨と濃墨。ひとつの黒から作り出されているはずなのに、そこには何色もの色が乗せてあるように見えるのだ。画はうまい。俺は雨音のそこだけは確かに認めている。
だが、ここは書道室なのだ。断じて水墨画を描く場所ではないのである。ましてや菓子を食う所でも、ジュースを飲む所でも、ゲームをする所でも、DVDを見る場所でもない。俺は雨音のことが嫌いなのである。うるさいから。
「ねえ、新ちゃん。悪かったよぅ。ごめんって」
先ほどから雨音は俺に謝り続けているが、そんなのはもちろん無視である。今までも腹を据えかねていたのだ。今回のでもう限界を超えた。絶対に許さん。机に頬杖を付いて、俺は雨音の謝罪を聞き流していた。
「うう、ごめんってー。知らなかったんだよぅ。新ちゃんがグミ嫌いだなんて」
「誰も嫌いなんて言ってねえだろう!」
思わず突っ込んでから、しまったと思った。無視するつもりだったのに。あまりにも的を外れた言動についつい口を開いてしまった。
「じゃあ、どうしてそんなに怒ってるの?」
机の下から眉を下げた雨音が覗き込むように見上げている。そんなの決まってるだろう、と喉まで昇ってきた声は、しかし結局出なかった。
「あーーーーっ、もういいよ、悪かった。俺が悪かった! これでいいんだろ」
頭を掻き毟って、荒々しく言い放つ。いつもそうなのだ。最終的に俺が折れるしかない。じゃないと、とんちんかんな雨音はいつまでたってもとんちんかんなことであれこれを心配してしまうから。
見上げる雨音はきょとんと目を瞬かせてから、ふにゃあと猫っぽく笑顔になった。
「ありがと、新ちゃん」
何が、「ありがと」なのか。ふざけやがって。心の中で愚痴りながら、俺は深いため息をつく。仕方がないのだ。そうするしかないのだから。ため息以外にどうやってこの虚脱感を昇華したらいいのか、俺には見当も付かないのだから。
「ねえ見てこの猫。結構可愛いでしょ。新ちゃんが頑張ってたからあたしも頑張ったんだよ」
言って急に元気になった雨音に渡された半紙には、丸まったまま健やかに瞳を閉じる仔猫が描かれていた。「ね、可愛いでしょ?」なんて言いながら、雨音は心底幸せそうにしている。
「…………」
本当に、こいつは嫌な奴だ。
思いっきり頭をぐしゃぐしゃしてやってから、一言、「うまいよ」と言ってやった。俺にはそうするしかないのだ。きっと、これからもずっと。
教室には光が伸びやかに差し込んでいて、ほんのりあったかかった。