No.03 黒をつれて、君をつれて
『理由? お前が温かいなんて言うからさ』
気が付けば俺は、緩やかな鼓動と共に来る記憶を飛んでいた。俺はもう一度だけ羽を伸ばし……。
暗い、どこまでも暗い空を飛んでいた。
太陽は厚い黒雲に隠れ、空気は全身から温かさを奪い去るように冷え切った塊として存在している。この冷たい空気に俺は慣れていた。黒い翼を精一杯に広げ、風に乗り、空気を切り、自由自在にこの空を翔れる。
人は俺を鴉≪カラス≫と呼ぶ。皆が忌み嫌い、距離を置こうとする。蔑み、暴力を振るう。俺が何をしたのかと疑問に思ったこともある。不当で、理不尽で、一方的な力になす術もないと絶望した時もあった。
だが今は理解している。俺には『黒』が見えた。一つの生命が終焉の時を迎えた瞬間に『黒』はやって来るのだ。俺はそれを見届けることが出来た。だから忌み嫌われる。皆『黒』を恐れている。だから足掻き逃げるのだ。
『死を貪る邪悪な鳥』
俺は鴉。俺は『黒』など恐れない。『黒』は常に隣り合わせで存在しているから。
気が付けば俺は下へ下へと飛んでいた。黒雲は遠くなり、変わりに灰色の、ビルと呼ばれる人々の巣が眼前へ広がり始めていた。冷えた空気は濁った塊となり、俺は蟻の列のようにも見える人の流れに沿って飛んだ。この都市には多くの『黒』が存在している。蜘蛛の巣のように張り巡らされた道と呼ばれる場所。ビルという巣の頂上。他にも多くの場所に『黒』が存在した。
不思議に思うこともあった。この都市に存在する『黒』は、なぜか人に受け入れられて存在することが多いのだ。どうして忌み嫌われている俺のような鴉ではない人が、恐れている存在を受け入れるのか。俺には理解できないことだった。
俺はさらに都市を飛び続け、特に『黒』の集中している場所へ向かった。人はこの場所を病院と呼ぶ。最も人に忌み嫌われている場所で、俺が気に入っている場所だ。
ここでは皆が『黒』と向き合い、戦い、足掻きながら最後の時を遅らせている。俺は『黒』に向き合う者が好きだった。だからよく病院に舞い降りては『黒』を見届けた。
俺はいつものように病院の上空を旋回しながら、建物の中ほどまで伸びたイチョウの枝先へと下りた。羽が冷気にあてられ凍えている。そろそろ黒雲は白い結晶を降らせるころだろう。もう間も無く空からも拒絶される。俺は凍てつく空気に翼を奪われ飛べなくなる。いくら俺が空を翔れる鴉でも、白い世界を飛べば『黒』が確実に命を持っていく。
俺はバカじゃない。『黒』を見れるのは、それだけ回避も容易だということさ。今年も飛ぶのは最後になるだろう。だから俺はここに来た。
俺は病院を見渡した。どこか寒気を避けれる場所を探さねばならない。屋上にある給水等か、あるいは建物の空気を通す管にでも開いてはいないか。入念に見た。
ふと目に留まったのはイチョウの木と同じ高さにある窓だった。この寒さにも関わらず窓は開かれ、半透明の布が風になびいていた。
普段であれば開いた窓など気にも留めない。そこへノコノコと入っていけば、俺はいわれの無い暴力を受ける。だが俺にはどうしてもその窓から視線をそらせられない理由があった。なぜならば『黒』もそこに居たのだ。
ゆっくりと俺は羽を伸ばし、その窓に近い枝へ移動し、窓の中を見た。
そこには十代くらいの、若い女性が座っていた。白くて長い箱のような物の上におり、白い布を足まで隠している。風に肩まである髪をなびかせ、視線をずっと遠い空へと向けている。
何故空を見ているのか、俺には分からなかった。分かっているのは彼女が限りなく『黒』に近づいているという事ぐらいだ。俺は『黒』を見ていたのか、彼女を見ていたのか、分からなかった。気が付けば彼女は空を見ておらず、俺を見つめていた。
彼女は笑っていた。嫌われ者の俺を見て優しく笑っていた。それは生まれて初めてのことだった。敵意のない視線に、俺はその場を飛び立つことさえ忘れていた。
彼女は窓越しに言った。
「カラスさんおいで。ここにおいしいクッキーがあるの、一緒に食べよう」
俺はバカだった。警戒心が俺を生かしていたのに、『黒』が見えることが全てだったのに。俺は彼女に近づいてしまった。
彼女は上半身を伸ばしてカーテンをたたみ、俺はそこへ向かって羽ばたいてしまった。窓には手すりがあり、俺は降りた。
「こんにちはカラスさん。いい所に来てくれたわ。もう誰も私の所に来てくれないから、扉を見ることをやめていたのよ。代わりに窓の外を見ていたんだけど……きっと最後に神様があなたを遣わしてくれたのね」
彼女は美しいほど青白い肌にシワを作って笑った。
確かに最後なのだろう。俺に見えている『黒』は確かに彼女を絡め取ろうとしていた。おそらく太陽が沈み、また昇るころに彼女はもういない。それが分かっていた。おそらく彼女も分かっているのだろう。彼女は『黒』を受け入れている。
彼女はなおも笑っていたが、次第に彼女は笑みを薄め、悲しみを携えるようになった。何が悲しいのだろう。俺には分からない。
彼女は言った。
「カラスさん。あなた、なんでそんなに悲しい瞳をしているの? 何か辛いことがあるのね。可哀想に。こっちにおいで」
華奢で白い彼女の手が俺の黒い羽にさわり、ゆっくり撫でながら俺の体を包んだ。
「温かいねキミは。それにとても綺麗な羽をしてる。何て優しい色をしているんだろう。カラスさんは全然悲しむことなんかないよ。こんなに素晴らしい物をいくつも持っているんだから」
温かい? 綺麗? 優しい色。どれもあまりに似つかわしくないじゃないか。彼女には俺が見えていないだろうか。
「わたしはね、もうすぐ死んでしまう。なんだかとても体が重いんだ。力も余り入らないし、どんどん体が冷たくなっていくのがわかるわ。だからキミがとても温かい」
俺は必死にもがいて彼女の手から飛び立たねばならなかった。それなのにどうしてか羽に力が入らず、飛ぶ気にはなれなかった。彼女は腕を伸ばして俺を手すりに乗せてくれた。そしてクッキーを細かく砕いて俺に差し出してきた。困惑しながらも俺はそのクッキーを食べ、彼女を見続けた。
「ごめんね。キミが何で悲しいのかわたしにはわかっちゃった。でもキミの悲しさを取り除いてはあげられないみたい。ずっと一人で寂しかったんだよね? つらいよね。今ね、わたしも悲しいの。一人で死んでいくのがすごく悲しくて、怖い」
寂しくなんかないさ。俺は嫌われ者の鴉だ。一人で居ることが当然なんだ。お前と一緒にするな。
「でも、キミが来てくれた。だからわたしは凄くうれしい。でね、お礼がどうしてもしたいんだ。だからキミに名前をあげる。キミは今日からクロム。空気中で、寒い空でも決して錆びない銀白に輝く名前だよ。そしてわたしはのぞみって言う名前なの。お願いだから……忘れないでね」
クロム。俺は鴉だ。お前は、のぞみはなんで俺に名前なんかくれるんだ。お前はもう『黒』に近づきすぎているじゃないか。名前なんか誰も呼びはしなくなる。
「ねえクロム? わたしね、今とってもうれしいの。クロムが私のところに来てくれたから。だからもっとクロムと話しがしたい。もっとクロムを見ていたい。だからね……もう少しだけ生きたい」
のぞみは泣いていた。俺を優しく見つめながら、涙を拭くこともなく優しく微笑んでいた。
俺は『黒』が見える。それは俺が嫌われ者の証であり、同時にいつしか俺の誇りとなっていた。でも、それは誇りでもなんでもないことに気が付いてしまった。それは俺の壁に過ぎなかった。全て『黒』のせいにして逃げていただけだった。今は、『黒』が見えてしまうのが辛すぎた。
俺はのぞみが泣きやむのを待って、近くのイチョウの木まで戻った。のぞみは何度も自身の部屋に呼ぶか、せめて暖の取れる場所へと言っていたが、のぞみを覆う『黒』は見ていられないが、離れる気にもなれない。
俺はそこでずっと『黒』に語りかけていた。
『黒、まだのぞみは連れて行くな。のぞみの終焉は今じゃないぞ』
それから太陽は沈み、また昇った。辺りは黒雲につつまれ、太陽が出ているとは思えなかった。だが閉められていた窓は開いてくれた。俺は窓が開くまでずっと枝に居て、そして開いたと同時にのぞみの元へ飛んだ。
のぞみは今にも消え入りそうな笑みで迎えてくれた。
「ごめんね。ずっと居てくれたんだよね。でももうお別れみたいだ。なんかとっても眠いんだ。残念だなー。最後にね、クロムが青空の中を飛んでいる所が見たいと思って頑張ったんだけど。なんか雪が降りそうなくらいだね」
俺にはもう分かっていた。のぞみには時間がない。『黒』とずっと付き合ってきた俺の願いでも、一晩時間を与えてやることしか出来なかった。俺は自分が情けなくて悲しくて、どうしても鳴かずにはいられなかった。
「ありがとう……クロム。もう行っていいんだよ。ごめんね。また一人になっちゃうね。でも、頑張って生きてね。さあ……行って」
俺はもう一回だけ大きく鳴き。そして温かいと言ってくれた羽を最大限にのばし、一気に羽ばたいた。
『黒、俺はどこまでも飛ぶぞ。たとえ羽が凍り付いこうが、命が尽きるまで飛んでやる。俺はずっとお前を見てきたんだ。人間に学んだんだ。自分でお前を受け入れれば、お前は間違いなく包み込むって事をな。さあ付いて来い。この黒雲が晴れて、青空をのぞみが見るまでは俺に付き合ってもらうぞ』
俺は凍えるような空気と包み込むような黒雲へ向かって一気に急上昇をした。何度も羽を動かし、黒雲が切れるところを目指してひたすら風を切り続けた。
「やめなさい。そんなことをすればわたしはあなたを連れて行かないといけなくなる」
『そうさ。俺を連れて行けばいい。だが俺は簡単には捕まらない。この冷たい空を俺は生きてきたんだ』
俺はなおも飛び続けた。『黒』は確かに俺を追ってきている。それでいい。
やがて黒雲は白銀の結晶を生み始め、世界が銀色に輝き始める。さらに空気は重い壁となったが、俺にはなんともなかった。だが『黒』は焦っていた。
「このままでは本当に力尽きてしまう。今すぐ降下して体を休めないと! こんな雪の降る空を飛び続けられるわけがない」
『いいや飛べるさ。俺は鴉じゃないいだ。俺は『クロム』だ。どんなに冷たい空気の中でも錆びないんだ。それに俺だって白銀に輝けるんだ。こんな小さな粒には負けないさ』
やがて俺は感覚を失い、ほとんど視界も見えなくなっていった。それでも羽だけは動かし続けた。気が付けば黒雲は段々と薄くなり、辺りには木漏れ日が差し始めていた。俺には空よりも地上の方が黒雲のように見えていた。まるで巨大な『黒』に包まれているかのように。だから俺は、さらに空を切って雲を昇ろうと思った。
そして、俺はようやく雲を突き抜けて、広く、美しく輝く青い大空を飛ぶ事が出来た。俺はその中をゆっくりと旋回し、意識が薄れていくのを感じた。
気が付けば俺は、緩やか鼓動の中で、記憶の空から大空へと帰ってきていた。
『黒』は言った
「なんで、こんなことをしたの? ここは病院よりもずっと遠くだから、きっと空なんて見えていないのに……なぜ?」
だが、俺には全て分かっていた。
『理由? お前が温かいなんて言うからさ。なあ黒、なあのぞみ』
『黒』は、のぞみは俺に語りかけた。
「……わかってたんだねクロム。わたしが一緒に来てたの」
『当然さ。俺は誰よりも『黒』をよく知ってるんだ』
俺はゆっくりと羽ばたくのを止めて、ゆっくり地上へと落ちていった。
「ごめんねクロム。本当にごめん、わたしが無理に、あんな、こと、言った、から」
俺の体を『黒』がゆっくり包むのを感じた。
『いいんだのぞみ。俺も一緒に行きたいんだ』
『黒』はとても温かく、優しく、俺を向かい容れてくれた。俺は薄れ行く意識の中で、もう少しだけのぞみと居られる時間が欲しいと思った。