表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

No.01 黒への遊離

 『ユウリが消えた』

 『きっとさらわれたに決まってる』

 『だから、一人で外を出歩くのはおよし。特に、日が落ちてからはね』


 当時はよくそんなことを言われたものだった。母さんも、学校の先生も、塾の先生も、口を開けば二言目には警告めいた言葉を発した。あの頃は集団下校が当たり前だったし、ランドセルに防犯ブザーを付けることが半ば義務化していた。ユウリの失踪は僕を含めたクラスメイト全員にとって、とてもショッキングな出来事だった。ユウリが帰ってきますように。みんな、そんな願いを込めて休み時間には折り鶴を折ったんだったっけ。小学四年生の幼い僕らは校庭で鬼ごっこをしたり、体育館でドッジボールをしたりすることを放棄し、ただユウリのためにむっつりと自分の席で休み時間を潰したのだ。


 不器用な僕が、折り鶴だけは綺麗に折れるのはきっとそのせいだ。ユウリとはそこまで仲よしではなかったけれど、僕が強烈に惹かれていたのは事実。ユウリには人の心を捉えて離さない何かがあった。愛嬌のある口の形や、少し細めの優しそうな目。背は僕と同じくらいだったし、口を開けばおっとりとした声で話した。薫るように溢れ出るその魅力は、がり勉君だった僕にも劇的に作用した。「シュウ君」とクラスでただ一人僕のことを名前で呼んでくれる、そんなことがすごく嬉しかった。図書室の背の高い本棚の間や、静けさに満ちた朝の教室、兎小屋の錆びた金網のそば。そんな所で不意に二人きりになったときは、どきどきと心が昂ぶったものだった。


 え、ユウリは見つかったのかって?


 結局、ユウリがふたたび現れることはなかった。消えた原因も全く不明のまま。四年生が終わる頃、ユウリのお母さんがユウリの私物を引き取るために教室に来てたっけ。それを見て、「あーあ、もう本当にユウリは戻ってこないのだな」と実感し、泣きたくなったのを覚えている。思えば、それは僕の人生で初めての絶望だった気がする。あの、胸の奥がキリキリうずく感じ。心の中で何度も叫んだ声はとうとう口には出せなかった。ユウリに会いたい。ねえ、ユウリはどこへ行っちゃったの……?



 心臓の辺りがキリキリする。ああ、もうやってらんないっての。


 いよいよ夏休みも終わり、高校入試に向けて本気を出さなければいけないこの時期。一日一日が大事だって塾の先生は口をすっぱくして言う。親は少しでもランクの高い高校へ行くことが将来にとって重要だとうるさい。分かってる、分かってるってば。ほっといて。


 ただでさえ毎日いらいらしてるっていうのに、今日の気分は普段に増して悪い。というのも、塾でのテスト順位がまた大幅に下がったからだ。毎日毎日、朝の早くから夜遅くまで頑張ってるのになんなんだよ、と叫びたくなる。勉強って究極的なところまでいくと結局才能がものをいうのかねえ。また帰ったら親がうるさくがなり立ててきそう。それを思うとすごく憂鬱。


 というわけで、僕はいつものようにまっすぐに塾から家へと帰るのをやめにした。コンビニで肉まんを買い、それを食べながら少し遠回りをして帰ることに決定。受験生にだって、そのくらいの自由はあったっていいはずだよね。一目散に帰って、テストを解答と照らし合わせないと学力が上がらないってことは分かっちゃいるんだけど。


 肉まんの温かさを両の手のひらで楽しみながら、家とは反対の方向に向かって歩き出す。大通りから外れているせいか、辺りには人っ子一人いない。不思議と車も通らない。空には月も星も見えないけれど、街灯や家々の灯りのおかげで道はそんなに暗くない。ときどき夕餉の匂いが漂ってきて、僕の鼻腔をいたずらにくすぐってはすぐ消える。あの家のどれかには、僕よりテストでいい点をとった奴がいるのかな。そいつは夕食の後、すぐに机に向かうに違いない……って、こんなこと、考えたくないのに。


 ぬるくなった肉まんを頬張る頃には、気の向くままでたらめに角を曲がっていた。でも、今まで一度も通ったことの無い界隈に足を踏み入れる勇気は沸かなかった。知らない場所に行ってみたいという気持ちは、現実的に後先を考えるもう一人の自分の前ではなりを潜めてしまう。それを痛感し、僕はさめざめとした気分で食べ終えた肉まんの袋を鞄に突っ込んだ。口の中が妙にカラカラで、もはや味は思い出せない。


 『ユウリが消えた』

 『きっとさらわれたに決まってる』

 『だから、一人で外を出歩くのはおよし。特に、日が落ちてからはね』


 おや。突然、昔聞いた大人たちの小言が頭をよぎった。そうか、ここはあの頃の通学路だ。急に思い出したのはそのせいかもしれない。このまま行けば、思い出の詰まった小学校の校舎が見える。


 ユウリ……か。懐かしい名前だ。ふと、そんなことを思う。今でもときたま夢に出てくる幼い顔。きれいさっぱり忘れたいような、永遠に記憶に留めておきたいようなあの笑顔。


 そろそろ帰ろうかな。でも、せっかくだから校舎を見てから引き返そう。僕はそう心に決めて足を速めた。もう結構な時間のはずだ。それに、どこを歩いても人が全くいないことがだんだん不気味になってきた。おかしい。こんなに家が建ち並んでいるのに、どうしてこうもがらんとした感じなのだろう。


 昔よく使った近道を思い出し、広い公園を突っ切ることにする。そこで、なぜか走り出している自分に気づいてとまどった。なんでこんなに焦ってるんだろう、僕は。額に手をやると、じんわりと汗が滲んでいて冷たかった。公園内には電灯が一、二本しかないので今まで通ってきた道よりうんと暗い。隅の方は完全に闇に溶けてしまっている。暗がりのせいか、僕が成長したせいか、遊具はどれも記憶の中のものよりちっぽけに見えた。


 突然、近くに人の気配を感じた。僕以外の誰かがこの公園にいる。今まで無人の道を歩いてきたから、そういうものに敏感になっているのだろう。なんとなくゾッとしたけれど、とにかく走るのをやめて静かに歩いてみる。今更遅すぎるだろうか。もう公園の中ほどまで来ている。行くも戻るも同じことだ。


 「シュウ君」


 突然、呼びかけられたので思わず飛び上がった。足を止めて素早く辺りに視線を走らせる。と、そう遠くないブランコの上、かすかな光に照らされたその場所に人の姿を見つけた。そして、その人物と目が合ったとき、僕は愕然とした。


 「ユ、ユウリ?」


 そう、そうなのだ。僕と同じくらいの年に見えるその人物は、もしあのユウリが生きていたらこうなっていただろう、という容姿をしていたのだ。さっきの声だってそうだ。ユウリが僕を呼ぶ声からは、いつもあんなふうに優しさと親しさが滲み出ていたではないか。


 「ユウリ! ね、ほんとにユウリなの?」


 僕は一瞬、何もかもを忘れてブランコへと走った。そして、そこに静かに座るユウリの肩を掴もうとして、我に返った。あの頃、大人たちは必死にユウリの行方を探していた。あのとき見つからなかったのに、どうして今急にここに現れるのだろう。そんなことってあるだろうか。こんなことって……。


 目の前のユウリは真っ黒な服を着ていた。コートだろうか、マントだろうか。とにかく、長い長いそれはとても非現実的な衣装だった。それの前を掻き合わせて、にっこり笑って僕を見上げる。翳ってはいるけれど間違いない。記憶の中のあの懐かしい笑顔だ。心が震えた。


 「覚えていてくれたの。嬉しい」

 「忘れるもんか。みんなどれほど心配して、どんなに悲しかったか。ああ、もう……」


 僕は塾の鞄を、忌まわしい結果の入った鞄を投げ捨てた。もう、どうしていいやら分からない。泣きたい気分だ。思えば、ユウリは僕にとって、あの頃の楽しい思い出のシンボルみたいなものだ。あの、難しいことは何も考えず、毎日をどきどきしながら過ごしていた日々。そのときめきの中心にいたのがユウリだった。


 ユウリが消えてからは、心の中でほっこりと灯っていた明かりがひとつ消え、ふたつ消え、中学に入るとほとんど無くなった。今は何も残っていない。けれど、そんな哀しさを口に出すことなんてできやしない。大人には「まだ中学生のくせに。社会に出ればもっとつらいことがたくさんある」、友達には「何きもいこと言ってんの」と笑われてしまうのがおちだ。自分の中だけで感情をコントロールしようとし、けれどやっぱり誰かの肯定にすがりつきたくなる。その連鎖に取り込まれてしまったら最後、苦しさは日に日に増すばかりだ。


 ユウリはすっくと立ち上がった。その背は僕より小さい。再び目が合う。ブランコがキイィーとひそやかな音を立てた。


 「シュウ君、見て」


 そう言ってユウリはゆっくりとマントともコートともつかない黒衣の前を開いた。僕は言われるがままにそちらを見つめる。はじめは自分の目が何を映しているのか分からなかったけど、徐々に驚きの波が押し寄せてきた。自分が何を見ているのかを理解した瞬間、背筋が寒くなった。


 黒衣の中に手足や胴体は無かった。

 いや、何も無かった。

 あるのは黒々とした虚無のみ。

 黒い奈落が僕の前で口を開けている。


 「ひィッ」


 僕はザッと音を立てて後ずさった。ばけものだ。人間じゃない、こんなの。目の前にいるユウリは……ああ。


 ユウリは暗がりでもよく光るその瞳で依然こちらを見ている。僕はそれから目を逸らすように目の前の虚無を見た。そこには本当に何もない。けれどその中に、あの頃ユウリが纏っていた空気があるような気がするのは一体どうしてなんだろう。もしかすると、これは楽しかったあの時期への入り口なのかもしれない。ユウリ、この虚無は君とずっと一緒にいられる世界へと続いているのかな。模試もテストも無いどこか。灰色の毎日が繰り返されない世界。この闇が誘うのは、見たこともない素晴らしい夜明け……。


 「おいでよ」


 甘美な声が僕を誘う。真っ黒な空、真っ黒な闇。そんなものに囲まれ、僕は硬直したように体を強張らせている。そして、狂い出しそうな心をなだめることもせずに、ただ黒い虚無をウットリした気持ちで見つめている。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
覆面小説家になろう
企画サイトです。レビュー、作者推理、イラスト大歓迎!

投票ページ
気に入った作品がありましたら、こちらのページから該当作への投票をお願いいたします。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ