No.10 黒髪と日傘
彼女について語る時、寂寥と後悔にも似た感情が僕の中に満たされる。そうして漠然とした悲哀と傷みが、懐かしさを伴って込み上げてくる。
背を流れる、真っ直ぐな黒髪。吸い込まれそうな漆黒の瞳。雰囲気はどこか、無機質で儚げで、人形めいていた。そしてなぜかいつも日傘を差している――僕が知る彼女は、そんな感じだ。
白いレースの生地が眩しいそれを、彼女は常に差していて、艶めく髪と対比するような色合いを見せる。絹を織り込んだ肌に、黒ダイヤの髪色がさらりと流れる。薄い唇をちょっと尖らせて、日傘を差して佇む姿は浮世離れしてさえいた。
容姿だけでなく、才気にも恵まれていて、公立にしか進めなかった僕と違い、彼女は有名私立に通っていた。僕とは根本的に種類の違う人間だ。
それが、どういうわけか僕の従姉妹なのだから世の中というのは分からない。
その彼女が、三年振りに訪ねて来た。
お願いがある、と言う彼女に僕は正直戸惑いを隠せなかった。幼い頃から優秀で、何をやってもそつなくこなす。天は二物を与えずなんて言葉の虚構性を裏付けるには充分過ぎるほど多才で、忌々しいほど皆に愛された彼女が、落ちこぼれの代表みたいな僕に「お願い」と来たものだから。どういうことか、と訊くと彼女はなぜか、少し俯き加減に言った。
「絵、描いているのよね」
長い睫が揺れていて、透明な肌に朱が差してゆくのに、目のやり場に困った。確かに描いているけどそれがなんなの。そう言った声が、少し裏返ってしまった。彼女はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように言った。
「私を、描いてもらいたいの」
その一言だけでは、理解出来なかった、と思う。
彼女の差す日傘は、彼女が私立に合格した時に叔父夫婦に買ってもらったものだ。
優秀な彼女は叔父一家の自慢だった。母は何かにつけて僕と彼女を比べて「マユちゃんはスゴイね」という。マユ、というのは彼女の名前だが、その名を口にしたあとは「それに引き換え」と続く。そんな風に育ったので、僕がコンプレックスの塊を抱え込んだのも無理からぬ話だろう。当時、僕が彼女に抱いていた感情は、一言で言えば「嫌な奴」だった。容姿端麗で秀才、誰にでも優しく、気立てが良い。そんな彼女の前に立てば、僕の存在は霞んでしまう。だから、僕は彼女のことを快く思ってはいなかった。
何をやっても上手くいかない自分を、彼女のせいにしていた節もあった。きっとあいつが、僕の分の幸運だとか才覚だとか、全部持っていってしまったんだ。だから僕は、こんな惨めな思いをするのだ、と。一つ年下の従姉妹に追い抜かれるということは、子供ながらに屈辱的で堪えがたいことだった。祖父も祖母も、優秀な彼女の方を可愛がった。盆や正月に親戚が一同に介するときも、彼女ばかりが持てはやされる。別に可愛がられたかったわけじゃないが、彼女といると自分がひどく情け無く思えた。自分の無能さが浮き彫りになって、僕という人間がなんとちっぽけなものかと思い知らされる。彼女は一族の誇りであって、僕はどこまで行っても落ちこぼれだった。
そんな僕が中学に入って、初めて絵画の世界と出会った。最初は、絵筆の種類も分からず色の塗り方も分からなかったが、教えられていくうちに段々と美術の世界にのめりこんでいった。最初、デッサンもままならなかったのだが、どうやら僕には合っていたらしい。真っ白なカンバスに色を重ねて、一つの像を作り出すことに夢中になって、気がつけば朝になっていたということもあった。
初めて没頭できるものを見つけて、カンバスに向かっている間は彼女のことも忘れられた。ただ、そんな僕を両親はやはり、快く思ってはいなかったようだった。絵ばっかり描いていないで、少しは勉強しなさい、マユちゃんは全国で一位だって、生徒会長にもなっているって、マユちゃんを見習って、などなど。
両親からすれば、絵なんて何の役にも立たない。それよりも、もっと実用的なことをしろということだった。どこまでいっても、僕は彼女と対比される。彼女よりも劣った存在とされる。自分の卑小さを、指摘されるのが嫌で、僕は一人でカンバスに向かう時間が多くなった。 絵画は僕の心のよりどころであると同時に、彼女へのコンプレックスの裏返しだった。絵を描いてさえいれば、少なくとも彼女がどれだけ優秀で、僕がどれだけダメなやつなのかとか意識しないで済んだ。彼女から逃げる口実にもなった。今度のコンクールに出すから、とかもう少しで完成するから、とかそういう理由をつければ親戚と会わなくて済む。いつしか、親戚の集いでも僕は顔を見せなくなった。
そこにいけば、彼女がいるから。顔を合わせたくはなかった。
その彼女が、目の前にいて絵を描いて欲しいとせがむ。今まで彼女から逃げていたというのに、彼女の方から近寄ってきた。どうして、と訊くと彼女は
「あなたが絵を描いている、ってこと。折角だから見ておきたいの。それで、見るだけじゃなくて私を描いて欲しいって。ダメ?」
上目遣いに訊いてこられても困る。ダメということは……特に断る理由は思いつかなかった。彼女は更に言った。
「時間がないの」
なし崩し的に彼女をモデルに、絵を描くことになってしまった。
日傘を差して、彼女がちょこんと、ソファに腰掛ける。こうして見ると本当に人形だな、と思った。その日傘差すの、と訊くと彼女はいけないかしらと言った。
「気に入っているの」
そう、でも僕は余り好きじゃないな。僕の言葉に、彼女は不思議そうな顔をした。どうしてと訊かれるが、彼女に言うわけにもいかなかった。あの日傘は、僕が最初に彼女に敗北した象徴みたいなものだったのだが、まあいいや。悔しいことに、その日傘は彼女の髪に良く映えていたから。
少し傾けてと言うと、彼女はそれに従った。布地の下から、夜を散りばめた黒と、木漏れ日の白が、よりはっきりした輪郭を伴う。
色の一切を廃しているような佇まい。
けれど、良く見ると頬には赤みが差し、瞳に揺れる光は青や金色を湛えている。
ガラス細工のようだ、と思った。何重にも重ねられた肌色、如何にして透明感を与えるかということは、思っていたよりも難しい。真っ白なカンバスに宝石のような彼女の髪を重ね合わせた。
「正月も会えなかったね」
彼女が口を開いた。僕はというと、カンバスに描いたイメージ通りに色を重ねるのに夢中で、上の空で答えた。
「それどころか、ずっと私を避けていたね」
そうだっけ、と曖昧な返事をした。うまく誤魔化したつもりだったのだが、やはり気取られたのだろうか。彼女はさらに言った。
「昔はよく遊んだのに、いつのまにか会わなくなって」
そりゃ、そうだろう。
君はもっとも輝いていて、僕は落ちこぼれ。何もかも違い過ぎる。
「違わないよ」
と彼女が言った。
「何も違わない。ううん、違うけど、でも何と言うか優れているとか劣っているか、そんなことはないはず」
あるんだよ。この世には、それが存在する。
壊れ易い器を指先で包みこむような繊細さ、彼女の細い線を表現するには、絵筆を持つ僕自身も繊細にならなければならない。彼女の息遣いすら感じられるほどに、神経が鋭敏になっていった。
「もし、優劣があるならば……」
彼女は、それだけ言うと唇を噛んで俯いた。長い睫が、ふるふると揺れるのが見て取れた。じっとして、と僕は色を重ねる。
きっと君には分からないだろうね、と僕は思った。君の名が出るたびに、その日傘を見るたびに。僕がとても矮小で、取るに足らない人間であるということを自覚させられてしまう。君は悪くない、でも世間がそう見るんだ。羨望が嫉妬に変わって、嫉妬が憎悪に変わる前に、僕はもう君とは会わないと決めた。でも君の方から訪ねてきた。だからもう、これきりにしよう。僕と君とでは――
もう直ぐ終る、というとき。突然、彼女の息が乱れた。ソファからずり落ちて、細い茎が折れてしまうようにあっけなく、床に倒れこんだ。
彼女の肌に髪がまとわりついて、その肌は青白く染まっていた。
彼女はすぐさま病院に搬送された。両親は、僕が彼女に何かやらかしたのではないかと邪推したが、駆けつけた叔父が彼女の体について、僕ら家族に説明した。
それによると、彼女はもう長くはないということだった。生まれながらに彼女は、重い病を抱えていた。二十歳までは生きられないだろう、ということだったが親戚に心配掛けたくないがために黙っていたということだった。あの日傘も、その病気のせいで日の光に弱い体質だったため。子供っぽい嫉妬心で、彼女に敗北した象徴だなんていって、彼女にとって、あれは生命線だったのだ。
どうしていってくれなかったの、と叔父に問い詰めると叔父は悲痛な顔をして言った。
「あいつには、固く口止めされていてなあ。特にお前さんには」
何故。
「邪魔しちゃ悪いってよ。お前は……その絵の才能が開花して、いつか世界に羽ばたく人間だから、私なんかのために気を揉ませてはいけないって」
彼女の言葉が、蘇る。時間がない、といっていた。その時間とは、彼女の命そのものだった。
「ただ、最後にお前に会っておきたいってなあ。もう、自分が長くないって分かっていたんだな」
叔父の言葉を最後まで聞き終わらぬうちに、僕は走った。後ろから母親が何か言うのも、耳に入らなかった。あの絵は未完成だ。あの子の、たった一度だけの我儘。自分の命を削ってでも、描いて欲しかったあの絵を。
自宅に戻って、すぐさま絵に対する。筆を取り、絵の具を重ねる。純白の肌、白すぎるほどだ。確かに日の光にも弱くなるよな、あれじゃあ。日傘でも差さなければ。
馬鹿だ僕は。大馬鹿だ。どうして気づかなかったのだろう。勝手な思い込み、引け目を感じて、嫉妬で目が曇っていたのだ。あの子の苦しみも、理解せず。しようともせず。
下らない感情で、彼女を避けて。どんな思いであの子は……。
イメージのまま筆を走らせた。華奢な首筋、細い肩。薄く朱が差す頬の輪郭をぼかして、髪色のひとつひとつを描き出す。無我夢中だった。彼女を描き上げることが、僕に与えられた使命だった。いや、義務とかそんなんじゃない。彼女を描きたい、そう思った。
絵が完成した頃には、夜が開けていた。絵の具が乾くのも待たず、僕は家を飛び出した。
病室に駆け込むと、彼女はいくつかの管につながれていた。僕はベッドに駆け寄った。彼女の名を呼ぶ。彼女が薄く目を開けた。
絵が完成したんだ。君自身が、ここにいる。彼女は呼吸器越しにいった。弱々しい、声だった。
手を伸ばすのに、その手を取った。驚くほど細い手指だった。
「私はあなたが羨ましかった」
羨ましい? 僕のことが?
「才能に溢れていて」
そんなこと、あるわけない。僕はいつも、君を羨んでいた。憧れであって、決して届かない存在だ。それに比べて、僕なんか余りに小さい。余りに幼く、余りに卑しい――
「あなたはきっと、私なんかが及ばない……ほど……きっと、あなたは」
段々と、彼女の手から力が抜けていく。強く握り締めた。
「もっと自信を持って。あなたの絵は、最高なんだから。だから、描いて……」
それが、最後だった。
静かに瞼を閉じる彼女に、僕はもう一度だけ名を呼んだ
あれから幾月経っただろうか。高校を卒業した後、僕は美大へと進んだ。両親は、絵画で身を立てていくのは難しい、というが生憎そんなことを考える頭はない。だって落ちこぼれだし。
それに、彼女との約束だし。最後の瞬間、彼女がいった言葉が僕の中で日ごとに大きくなっていった。
おそらく、僕はずっと君には追いつけないまま。追いつけないけど、君が望むならば――君のために、僕はこれからも描き続ける。
振り返ると、純白の日傘と雪のような肌に対比させるような、深き漆黒、黒ダイヤの輝き。カンバスの中で、彼女は笑っていた。君がそうして笑ってくれるなら、僕はどこまでも行ける。だからそこから見ていてくれよ。
かつてもっとも憎み、そして今もっとも愛しい君よ。