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小舟は帰らず  作者: 霧雨ウルフ
蛇の牙
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蛇の牙

 グレーデンの砦、通称蛇の牙に到着したのは、辺りが夕闇に染まりゆく日没前だった。

 血のように赤い西日が稜線にそって濃い影を作り出し、城塞全体が深い影に覆われている様は、遠目から見るとさながら冥府の城だ。薄暗い森の中に漂う陰鬱な空気と仄かな死臭は、不安だらけの俺たちの心をざわつかせた。

 砦は木々の間に寂寥感たっぷりに佇んでおり、砦を囲う森を西に抜けた先は宿敵である皇国の領土だ。

 かつて蛇の牙は数回皇国軍に占拠されたことがあり、その事実からも分かるだろうが、ここではたびたび激しい陣取り合戦が繰り広げられ、凄惨な殺戮劇が展開されている。

 俺たちを砦に運んできた馬車は、大きな跳ね橋を渡り城門をくぐった。

 多くの戦闘の痕跡が残る石造りの堅牢な城壁と側塔、兵士たちの詰所と化している居館、一際大きな存在感を放つ蛇のレリーフが施された尖塔。

 蛇の牙は元々名のある貴族の山城だったらしい。今は帝国軍の城塞の一つとして、戦線の要として、帝国の国境際を守っていた。

 ここから砦周辺の詳細な説明に入るが、何せグロテスクな話が続く。聞きたくなければ耳を塞いでくれ。

 まず、砦に近づくにつれ俺が感じたのは異様な臭いだ。この臭いは森の中でも時々感じられたもので、砦に近づくにつれひどくなった。そして、城門をくぐり抜けたとたん臭気は急激に強まった。

 臭いの発生源は兵士たちの亡骸――端的に言うなら、死体が発する腐敗臭だ。

 城塞内の至るところに死体や腐り落ちた四肢がぽつぽつと転がっており、ところによっては無造作に山積みにされていた。山積みにされたそれらの下の方はもはや原型をとどめておらず、これが元々人間だったのかと目を疑う有り様だったよ。

 砦内の広場で馬車を降りるように促された新米兵たちは、唐突に突きつけられた現実に狼狽え、おぼつかない足取りで現場の指揮官の元に集った。既にすすり泣いて家に帰りたがる者もいた。

 死体は帝国兵のものだけじゃなく、皇国軍の象徴である青と白の軍服をまとう死人が、いたるところに吊るされたり串刺しにされたりしていた。

 俺はあくまで平静を装っていたが、内心どうかなりそうだったね。

 指揮官は砦の有り様については一言も触れることなく、俺たちの前で腕組みして口を閉ざしていた。蟻を睥睨するような顔つきの指揮官に生理的な嫌悪感を抱いていると、俺の隣にいたアルガンが呻き声を上げてふらふらと後方に下がり、膝をついて地面に吐いた。

 俺はその場を動けず呆然と友の背を見守ったが、ライグが即座にアルガンの元に駆け寄り優しく背中をさすった。馬車ではげぇげぇ言ってたくせに、地上に降りたら頼もしいやつだ。

「図体のわりに骨のないやつだ。それでは剣も振れないのではないか? 腰抜けめ」

 指揮官は冷ややかな笑みを浮かべ、アルガンに嘲りの言葉を投げかけた。指揮官の取り巻きとおぼしき軍人たちが、クスクスと笑った。

「お言葉ですが、指揮官。戦死者の遺体は適正に処理するよう軍事法で義務付けられています。この兵士たちの扱いはあまりに杜撰です。早急に然るべき対応をお願いしたい」

 そんな状況の中、ライグがしっかりした口調で宣言した。

 ライグは喧嘩っ早いというより命知らずだ。初任務で初対面の上官にいきなりこんなことを言っちまうとは、勇敢すぎてついていけない。

 周囲に緊張が広がる中、上官は穴が開くほどライグを見つめた。面食らっているのか、ライグを品定めしているのかはわからなかったが、やつは髭面に不敵な笑みを浮かべた。

 俺は嫌な予感がした。

 禿げ頭の上官は近くに落ちていた死体へ近づき、腐りかけた腕を引きちぎって、ライグに向かって躊躇いなく投げつけた。

 ライグはとっさに腕で顔を覆い防いだが、軍服には肉片と血が付着した。腐蝕した腕が地面にぼとりと落ちる音と、激しい怒りで燃えるライグの金色の目が、今も強烈に記憶に刻まれている。

「そう思うならお前たちが弔ってやれ。生憎、今この砦にはそんな気力がある者はおらん。やりたければ勝手にやればいい。だが、皇国軍が動けば……お前らも容赦なく戦場に放り出すからな」

 捨て台詞を残し、上官は居館に向かって歩き始めた。若手の兵士たちの中にはライグを不安げにちらちらと見守る者もいたが、俺とライグとアルガン以外は、全員上官についてぞろぞろと居館に向かっていった。

 俺は唇を引き結んで立っているライグの側にのろのろ歩を進め、沈痛な面持ちでいる友の背中を軽くぽんと叩いた。なんと声をかければ良いかわからなかったし、何を言っても慰めにならないと思ったんだ。

 アルガンが絞り出すような声で言った。涙目になっていた。昔からこいつは泣き虫なんだ。

「ごめん、おれが臆病者だから。ライグにも辛い思いさせちまったな。本当にごめん……」

「お前は悪くない。俺だって胸糞悪いさ、こんな光景」

 ライグは汚れを落としながら、服についた臭いに顔をしかめた。平気そうな顔をしていたが、きっと腹の中ではぐつぐつと怒りが渦巻いていたんだろう。

「とりあえず居館に行こう。あいつ頭悪そうだったし、さっきのこともしばらくしたら忘れるさ。今はここでの生活に慣れるしかねぇよ」

 俺はさりげなく上官を罵りつつ、ライグたちと一緒に歩き始めた。いきなり目をつけられて食いっぱぐれたり処分されたりするのはやはり怖かったから、本人に向かって言う勇気はなかったけどな。

 ライグは一度死体の山を振り返ると、顎に手を当てて沈思していた。俺はライグが本当に死体を処理すると言い出すんじゃないかと心配したが、ひとまずそのときは大人しくしていた。

 居館に入ってみると、内部はいくつかの大部屋にわかれていることがわかった。

 それぞれの広間には、虚ろな目で武具の手入れをする者、貯蔵庫に腐るほどあるビールを飲みながら騒ぐ者、呻きながら床に敷き詰められた布の上で身をよじる負傷者がごった返している。

 控えめに言っても無法地帯だ。居館の中から感じた騒々しさはこの無秩序が元かと俺は呆れ返り、そして絶望感に襲われた。

 だって、こんな砦で、こんな兵隊たちに囲まれて、精神を健全に保ったままやっていけると思うか?

 一週間もせず頭がいかれそうだと嘆きたくなったが、そもそも一週間後自分が生きているかも定かではないと気づき、俺はその場に身を横たえ物言わぬ石になりたくなった。

 増援として送り込まれた新米兵たちはあまり期待されていないようで、というのも五日後に到着する予定の別の部隊が増強戦力の本命で、現場の管理者の俺たちへの対応は本当に素っ気ないものだった。一枚の薄い布団と一枚のパン切れが与えられ、戦闘は各自持参してきた武器で行えとのことだった。

 新米兵のほとんどが、士官学校を卒業した証に頂戴したなまくら剣しか所持していなかった。刃を手で握ってもなかなか切れないような玩具まがいの剣だ。こんなので一体どうやって敵兵を殺せというのか、正直撲殺くらいしか方法が思いつかなかったね。

 俺は考えるのも嫌になり、長旅で疲れていたというのもあって、その日は適当に空いた空間を見つけ、ライグ、アルガンと並んでわびしい食事を済ませ早々に横になった。

 砦の夜は予想以上に冷え込んだ。ぺらぺらの布切れだけでは寒さがつらく、俺たちは貧しい子どもみたいに身を寄せ合って初めての晩を過ごした。




 俺は翌朝、士官学校の起床時間よりも少し早い四時頃に覚醒した。帝都は春を迎える頃だというのに、砦はまだ寒くて凍え死にそうだったからな。

 俺は並んで寝ていたはずのライグの姿が見当たらないと気づき、横で熟睡しているアルガンを起こさないよう気をつけて立ち上がり、まだ暗い居館を散策することにした。

 広間内部は、天井から吊るした垂れ幕で所々区切られている。俺が垂れ幕をくぐりランタンの明かりがこぼれる方に出ると、早朝から酒を煽る者や、夜通しカードゲームで遊んでいたと思われる集団も見受けられた。

 基本的にはみんな若造には無関心で、俺がこそこそしてるのを気に留める者はいなかった。

 澱んだ空気の中を一人でうろうろするのはあまり楽しくないし、早くライグを見つけて帰りたい。居館の中にはいないようだと思い、俺はまさかと思いつつ広場へ足を向ける。

 俺はライグの姿を見つけると、つい苦笑してしまった。そのまさかだったからだ。

 やつはクソ寒い中、錆びたシャベルや鍬やらをどこからか引っ張り出してきて、広場の端にせっせと穴を掘っていた。何のために穴を掘っているかは明白だ。

 俺は朝霧に霞む友の背中に近づき、しばらくライグの働きぶりを見ていた。

「ピトン、悪いが手伝ってくれないか。できるだけ多く埋葬してやりたいんだ。もっと大きな穴を作りたい」

 人の気配に気づいたライグは、肩越しに俺を確認すると、なんでもなさそうにしれっと言ってみせた。

「庭に穴掘りやがったってあのおっさんが怒らなきゃいいけどな」

「そう言われたら、砦の外に埋めればいい」

 俺は吹き出し、ゲラゲラ笑いながら手頃なシャベルを手に取った。ライグは少し照れ臭そうに笑うと、真剣に言った。

「死体に害虫がたかったり、腐った死体から疫病が発生したり、そういう危険を少しでも減らしたいんだ。それに、亡くなった仲間たちを無残な姿のまま晒すのは嫌だったからな。形だけではあるが、せめて人の手で葬ってやりたい」

 ライグはやはり気丈な男で、俺はこれから先も幾度となくやつの精神を見習ったよ。

 俺たちは無言で、静かな充足感を覚えながら作業を続けた。

 しばらくすると、人がちらほら表に出てきて、俺たちがせっせと穴を掘っているのを観察する者が現れた。空が明るみ始めた頃、アルガンも俺たちの側に寄ってきて、驚きと感心がない交ぜになった表情で仕事を手伝い始めた。

 昨日の夜はひどく不気味で恐ろしかった遺体も、光の元で見れば哀れで悲しい存在に思えた。

 俺たちに影響されたのか、他のやつらにも動きがあった。一部の比較的良心的そうな兵士たちが近寄ってきて、埋葬を手伝おうと申し出てくれたよ。

 俺は「勝った!」と思ったね。あのクソ上官を少しでも見返してやれたと思ったんだ。

 しかし、俺たちの試みはそう簡単には進行しなかった。

 心の貧しい野郎たちがわざとらしく死体の山を蹴散らしたり、死人の頭を使ってボール遊びのようなことを始めたからだ。

 暇人どもが、と罵りたくなったが、そんなやつらでも階級は俺たちより上で、下手に突っかかれば手酷い目に遭わされる可能性もあったので、俺たちはできるだけ気にしていないそぶりで無視することにした。

 問題はまだあった。場内にある死体の多くは砦内で力尽きた負傷者の成れの果てだが、砦を囲う堀にも戦士者の遺体が放置されて、同様にひどい臭いを発していたんだ。

 昨日は暗かったし馬車で通り過ぎたので気づかなかったが、跳ね橋の周囲もむごい有り様だった。死体は森の中にも点々と打ち捨てられており、周囲の哨戒をしている最中にも半分白骨化した遺体をたびたび目にした。

 ともかく課題は山積みだったわけだが、戦況が動く前にできるだけのことはしたくて、俺たちは丸々一日シャベルや鍬を振り続けた。

 死体を穴に放り込む作業は強烈な腐敗臭と生理的嫌悪感との戦いになったが、すでにこの臭いに慣れている軍人たちは手際よく作業を進めてくれた。結局墓穴は一つじゃ足りなかったので、城壁の外にも穴を堀り手分けして埋めることにした。

 昼前になると、あの腹立たしい上官が――モーリス・バルビエその人が、どことなく不機嫌な様子で現れ、葬斂をしていた俺たちの間に緊張が走った。

「こんなふざけたことを始めたのはどこの馬鹿だ?」

「俺です」

 ライグは迷うことなく応えると、ゆっくりバルビエの前に進み出た。

 こういうときのライグは嫌に落ち着いているし豪胆になる。俺は友人がいつ叩き斬られるかと不安でしょうがなくて、対峙する二人をアルガンと一緒に見守った。

 そのときようやくまじまじとバルビエを見た俺は、この恰幅の良い軍人は片目があまり見えていないらしいと感づいた。左目は典型的なフレーザー一族らしく金眼だが、右目はもやがかかったように白く半透明に濁っている。恐らく戦傷の影響だろう。

 ライグは俺よりも気長だが、不義理な輩を前にすると挑発的になる嫌いがあった。俺の友はしゃあしゃあと上官に言ってのけた。

「ふざけていますか? 遺体の処理をすれば戦病死の危険を格段に下げることができると思います。それに、兵たちの士気も上がるのでは? こんな陰惨な環境にいては誰も心休まらないでしょう。俺たちが今していることは、回り回って帝国軍の為に――」

「戦場もろくに知らない餓鬼が舐めた口を利くな!! これは見せしめなんだよ!!」

 バルビエがライグの胸ぐらを掴み、乱暴に突き飛ばした。ライグはあやうく墓穴に突き落とされそうになったが、作業を手伝っていた軍人の一人が慌てて俺の友人を支え事なきを得た。

 上官は、塔から吊り下げた皇国兵や、無惨に串刺しにされた帝国軍人の死体を指し示し、唾を吐き散らしながら吼える。

「憎き皇国兵を無残な姿で晒すことで味方の士気を上げ敵の戦意を喪失させる、敵前逃亡しようとした仲間を見せしめとすることで仲間を奮い立たせる、結果これは蛇の牙の戦力に繋がっている! そんなこともわからないお子様は皇国兵にぶっ殺されろ、それが嫌なら帝都に逃げ帰って母親の乳でも吸ってるんだな!」

 痛烈な嫌味だ。俺が面と向かって言われていたら、冷静に対応できたかわからない。

 ライグは言い返さず、目を瞑り拳を握り締めていた。

 そういうときのライグは何かとんでもないことを言う可能性があるので、俺は本当に肝を冷やしたぜ。

 しかし、俺の予想に反し、ライグは静かに息をつき少し柔らかな声音で言った。

「……わかりました。この砦の総司令官は貴方です、バルビエ大佐。俺は貴方のやり方に反抗しようというわけではありません。ですが……せめて、何の罪もなく戦いに散った帝国の仲間だけは、俺たちの手で葬らせてくれませんか?」

 バルビエはライグが妥協したことに少し驚いたのか、しばらく様子を窺うようにねめつけていた。

「……良いだろう。ただし、俺が埋葬して良いと言ったやつらだけだ。俺もお前たちの仕事を監視する。敵兵や裏切者を埋葬したら、お前もあそこに吊るされてる死体と同じ運命を辿らせるからな」

 バルビエは執念深いというか、とにかくねちっこい野郎だった。やつは憎々しげな顔で死体を片付ける俺たちの間を行ったり来たりし、気に入らないことがあるとすぐにどついたり蹴りつけたりしてきた。

 俺はやつが離れた隙を窺い、こそこそとライグに近寄り耳元で囁いた。

「お前が妥協するなんて珍しいな。だが、今回ばかりは正解だよ。あのまま反発してたら、たぶん殺されてたぜ」

 ライグは穏やかでない顔で頷く。

「本当は全員土に還してやりたかったが、バルビエが言うことも確かに一理あると思ったんだ。俺は彼が言う通り、現場を知らない素人軍人だ。皇国兵の死体を晒すことで、少しでもやつらに恐怖心を植え付けられるのだとすれば、ああやって見せしめに吊し上げるのも有効なのかもしれない」

 平時は倫理観を重んじるライグが予想外の発言をしたため、俺は思わず瞠目した。ライグは眉尻を下げ、少し困った顔で弁明した。

「いや、むごいことだとはわかっている。だが俺は、なんとしてでもこの国を守りたいんだ。帝国を守るためなら、いくらでも残酷になってやろうと思っている。誉められたことではないかもしれないが、俺は軍人としてやっていくために、残酷になる覚悟もしたんだ」

「悪いことだとは思わねぇよ。……むしろ、お前の覚悟を見習いたいな」

 同じ年でありながら、俺よりもずっと真剣に覚悟を決めているライグには「負けた」と思った。俺みたいに、生半可な、中途半端な覚悟とは到底違うんだって自覚した。

 悔しいというよりは、理想も信念もなく流されてこんな場所にたどり着いた、俺自身の浅はかさと弱さが惨めに思えたよ。

 俺たちは、それからもよいせよいせと穴に放り込み続けた。日が暮れてくると、残りは後日こなすことにして作業を切り上げ、朝から一緒に働いていたやつらと互いを労りながら居館に戻った。

 水場で汚れを落とし、夜はライグとアルガンと一緒にビールでささやかに乾杯した。

 グレーデンはビールの産地で、食糧は不足しているが酒だけはたらふく飲めるという笑える状況だったからな。




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