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小舟は帰らず  作者: 霧雨ウルフ
蛇の牙
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Stay Strong



 オリンダ大尉と共に、砦を発つその日が訪れた。

 俺たちは静かに長旅の支度を終え、居館の外で大尉を待つ。

 すると、まだ薄暗い黎明の広場に一人の人物が現れた。

 すらりと背が高い男は、涼しげな顔に穏やかな笑みを浮かべ、俺たちに近づいてくる。

「いよいよ、このときが来たんだね」

「ああ。あんたには、長い間世話になったな……ジャベリン」

 俺の言葉に、ジャベリンことジャン・ティトルーズ曹長は破顔した。

「いつになく素直だね。別れを前に、先輩への敬意を思い出したのかな?」

 笑うとこかよ、と口を尖らせていると、ライグが律儀な言葉を送った。

「本当に感謝しているよ。貴方がいなければ、俺たちは今まで生きていたかわからない。貴方は、蛇の牙における皆の支柱であり、俺たちの恩師だ……ありがとう」

 俺も同意だ。ジャベリンは俺たち三人にとって、心強い先輩分であり、頼もしい友人だった。

 改めて砦の仲間たちとの別れを実感すると、俺は次第に気持ちが沈んできた。

 いずれ戻ってくるとは言ったものの、兵士という存在はいつまで息災かわからない。これが今生の別れになってしまう可能性だってある。

「まぁまぁ、そう重くとらえないで」

 俺の心境を察したのか、ジャベリンが柔らかく言う。

 ジャベリンによると、他の親しい面々は任務が入っているため、代表して自分が見送りに来たとのことだった。

「キャレは、お前たちならどこでもやれる、自信を持てと言っていた。できることなら、もう一度一緒に戦いたいとも。ゴーチエは、死なない程度に頑張れよって。ロルダンは……」

 槍士は苦笑する。

「特に君たちについて言及しなかったけど、おおかた俺たちと同じことを考えていると思うよ」

「ははっ、そうだといいな。俺もさらに腕を磨かないとな」

 ライグもつられて笑った。

 昨夜床を共にしたリースベトは、旅立ちを見送ると心を引きずられそうだからと言って、外には出てこなかった。俺たちが討伐軍に合流する話は公にはされていなかったのもあり、見送る人間は実質ジャベリンだけだったが、密かに旅立つ方が俺たちらしい気もした。

 ジャベリンと言葉を交わし、まだ静かな居館の方に目をやると、戸口の前に大尉の姿があった。俺たちが曹長と惜別の会話をしていると見て、気を遣ってくれたようだ。

 ジャベリンもそれには気づいていたらしく、ついに別れの言葉を口にする。

「……さて。名残惜しいけど、お喋りはここまでにしておこうか。大尉殿を待たせてしまっているからね」

 俺は黙って頷く。ジャベリンは静かに続けた。

「大丈夫、部下を見送るのは慣れてるんだ。君たちは生きて蛇の牙を発つんだから、これは悲しいお別れじゃない。祝福すべき旅立ちだ。

 ピトン、ライグ、アルガン……いずれまた会おう。討伐軍での、さらなる飛躍を期待しているよ」

 俺たちは順番にジャベリンと硬い握手を交わす。

 寂しさを感じながらも、ゆっくりジャベリンの側から離れた。

「……ありがとな。武運長久を祈るよ」

 俺は去り際に一言だけそう告げた。

 ジャベリンはふわりと微笑み、軽く敬礼してみせた。




「良き上司に恵まれたな」

 城門前へ移動したオリンダ大尉は、お世辞ではなく本心からそう言ったようだった。

 ちらりとジャベリンがいた場所を振り返ったが、やつは既に姿を消していた。俺たちが前に進むのを躊躇わないように、という配慮にも思えた。

 そうして、いよいよ出発かというそのとき、明らかに不服そうなどら声が飛んでくる。

「わざわざこんな辺境までご足労だったな、大尉。こんな若造三人しか手配してやれず、申し訳ない」

 蛇の牙の総司令官、バルビエ大佐だ。

 嫌味としか思えない語調だったが、大尉は爽やかに応対した。

「いえいえ。我が国の要塞の一つであり、屈指の猛者が集う蛇の牙の兵士というだけでも、私としては至極恭悦であります。烏滸がましいですが、討伐軍を代表して感謝の気持ちを送らせて頂きたい」

「ふん。俺が部下を他所へやるのを厭うと知っていながら、よく言うな。貴官の強かさには辟易するよ」

 緊張感漂う二人のやり取りに、俺は内心戦いていたが、バルビエが深々と溜め息をついたのを見て、やつはとっくに観念しているのだとわかった。

 大佐は旅立つ部下を自分の元へ呼びつけ、やや声を落として宣言した。

「いいか。今回貴様らを大尉と共に出征させると決めたのは、これが軍人として良い経験になると考えたからだ。決して、貴様らの全てをあの尉官に委ねるわけではない」

 バルビエは少し恨めしげな目線を大尉に向けたが、あからさまな非難はしなかった。

「粛清戦が終わり次第、元々の任地であるこの砦に戻るよう取り計らう予定だ。蛇の牙の戦士としての誇りを忘れることなく武功を示し、しっかり腕を磨いて戻ってくるように」

 やつは一番近くにいた俺の背を軽くはたき、さっさと来た道を戻って行った。

「君たちのことをいたく気にかけているようだな、大佐殿は」

 オリンダ大尉が苦笑いと共に言う。俺はまさか、と肩を竦めた。

「扱き倒された記憶はあれど、可愛がってもらった覚えはないですね。牢に放り込まれた経験だってあるんです。少なくとも、俺にとって彼は素敵な上官とは言えませんでした」

「随分はっきり言うんだな。しかし、同じく部下を指導する立場にある者として、私はバルビエ大佐を瞻仰(せんぎょう)しているぞ」

 真剣な表情で彼は言う。

「恐らく、あのお方にとっては、酷烈に厳格に振る舞うことこそが、兵士たちへの敬意であり愛情なのだ。過酷な戦場において、無力な者は生き残れないからな。戦争の現状を、兵士の在り方を伝えることで、彼は強靭な精神を持つ兵士たちを育て上げてきたのだと思う」

「愛情だって? あの残忍な刑罰が? 無情な采配が?」

 いよいよ大尉にねめつけられ、俺は決まり悪く目線を漂わせた。

「すみません、出過ぎた発言でした。確かに、俺も……バルビエ殿の鞭撻が、蛇の牙を不屈たらしめている理由だと思います」

「……ふ。それはわかっているか。だからといって、彼を敬愛しろとまでは言わないさ。若い君たちにとって、恐ろしい上官であったことは事実だろう」

「へぇ。貴方も、それはわかってくださるんですね」

 オリンダ大尉はじっと俺を見つめ、何事かを考えているようだった。

 また失言だったろうかと焦っていたら、彼は表情を緩めて息をつき、俺の肩にぽんと手をやる。

「私は君の打ち付けな物言いを好ましく思うが、討伐軍にはバルビエ大佐以上に手厳しい方もいるからな? うっかり生意気を言って、刎頸されないように気をつけたまえ」

「…………肝に命じておきます」

「これは長い遠足ではない。過酷な遠征の始まりだ。最強の戦闘民族と相対するのは、君たちが思う以上に戦慄する行為だろう。心しておくように」

 彼は俺だけでなく、近くに控えるライグとアルガンにも目線をくれた。

 ライグが咳払いしながら進み出て、俺に少し怒ったような目を向ける。

「お言葉ですが、大尉。俺はピトンよりは幾分か静粛でいるつもりです。こいつにもきちんと言い聞かせておきますから、今回は大目に見てやってください」

「気にするな。私は本気で怒っているわけじゃないぞ。若さゆえの愚行に走らぬよう、少し警告したまでさ」

 体格の良い上官はウィンクし、俺たちについてくるよう指示した。

「与太話はこのくらいにして、そろそろ討伐軍の召集地へ向かおうではないか。長い旅になるぞ。道中では君たちのことも聞きたいし、討伐軍の一員となる上での留意点も話しておきたい。なに、そこまで堅くならなくてもよろしい。私は、どちらかと言えば部下の輪に紛れる方が好きなたちでな」

 顔立ちや雰囲気は厳ついが、大尉の話ぶりはバルビエとは比にならないくらいフランクだった。

 俺はオリンダ大尉の後ろにつき、ライグ、アルガンと並ぶ。

(――待っていてくれ。俺は必ず、ここに戻ってくる)

 リースベトへの愛を、仲間たちへの敬意を、俺は心の中で誓った。

 そして、獰猛な一族が待ち構える新たな戦地に向けて、大きく一歩を踏み出した。

 ――しばしお別れだな。

 グレーデンを守り続けてきた血濡れの城塞。勇猛果敢な兵士たちの根城。

 猛き血潮が迸る――蛇の牙よ!













《エピローグ》




 沈鬱な気配が漂う山間の城塞とはほど遠い、帝国南部の乾いた大地。

 かつて、この地を中心に悪名を轟かせた一族がいた。

 彼らの名はニグミ族という。長年ベルギナ帝国の民を煩わせてきた、“黒曜の悪魔”と忌憚される者たちだ。

 ――時歴1656年の春。トワ・ピトンならびに彼の友人ライグ・ダンバーとアルガン・ゴイスが、共に仕官学校を卒業してから2年後のことだった。

 帝国軍は、南部を中心に略奪や人狩りを重ねるニグミ族を討伐するための軍団を編制し、その年の夏には、徹底的な武力制圧を掲げた作戦が実行に移されようとしていた。




「……あっついな。グレーデンの森とは大違いだ」

 一人の青年が、小高い岩場に足をかけ、太陽照りつける灼熱の地平を見下ろす。

 かつて蛇の牙に配属された頃より、いくらか髪が伸び大人びた雰囲気になっているが、どことなく気だるげな眼差しは変わらない。

「ピトン」

 後方から同期に呼びかけられ、トワ・ピトンは肩ごしに振り返った。

「そろそろ本陣に戻ろう。あまり油を売ると、クロフ軍曹に睨まれる」

 友人――ライグの尤もな意見に、ピトンは声を上げて笑った。

「違いねぇ。あの女軍曹ときたら、仕官学校の教官を上回る生真面目だからな」

「上官が仕事熱心なのは悪いことじゃない。そうだろ?」

 ライグは半ば強引にピトンを連行し、大柄な工兵が待つ平地へと向かった。

 二人が戻ってきたのを見て、彼らの心優しき友は頬を緩める。

「聞こえてたぞ。あんまりクロフ軍曹を悪く言うなよ。隊の皆からどつかれるぞ」

「へいへい。俺としては、ジャベリンくらい緩い上司の方が付き合いやすかったんだがねぇ。軍曹も大尉も、お堅いんだから」

 文句を垂れつつも、ピトンは二人と並んで歩き始めた。

 彼らの行く手には、どこまでも続く不毛の大地が広がっている。

 それでも――三人の足取りは、迷いなく、力強かった。




 Stay Strong.

 兵士よ、強く在れ。




《小舟は帰らず 蛇の牙・終》




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