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小舟は帰らず  作者: 霧雨ウルフ
蛇の牙
13/26

試練

 それから数日間、俺もデシデリオも特に脱走を練る二人組について触れることはなく、普段通りの生活を送った。

 相変わらず昼間から酒樽に頭を突っ込んでいるようなデシデリオが、本当にやつらについての調べを進めているのかと疑念も抱いたが、事態は俺の知らぬ間にころっと急転した。

 俺が警備の任務を終えて遅い夕飯をかきこんでいるところに、義足の友人は普段と何ら変わらない様子で近づいてきた。俺が冗談混じりの挨拶を投げかけると、やつは笑ってそれを受け流し、さりげなく顔を寄せて囁く。

「例の二人組、今日の朝方にとらえられたようだぜ」

 はじめは話がわからなくてきょとんとしたが、あの二人組のことが脳裏をよぎり、俺は一瞬固まった。

「そうか。おつかれさん」

 俺は微かに胸が痛み、水を喉に流し込んで気を紛らわせる。デシデリオは俺の心の揺らぎを感じたようで、しばらく俺の様子を伺ってからこう続けた。

「あの二人組の指導役だった下士官に話を通して、しばらく監視してもらったんだ。俺も色々と協力させてもらったが、裏をとるのは簡単だったぜ。焦りと不安のせいだろうな、問い詰めると、すぐに片方が泣き出して色々と暴露してくれた」

「へぇ、なるほどね。これで計画もおじゃんってわけか」

 存外この手の捜査に慣れた雰囲気のあるデシデリオに微かな驚きと畏敬を抱いたが、脱走を企てる者は蛇の牙には珍しくないんだろうし、デシデリオも仮に軍曹だ。部下の不祥事の処理は慣れてるんだろうな。

 俺はあの二人組の今後について考えてみた。お気楽な考えかもしれねぇが、と前置きし、デシデリオに言ってみる。

「けど、まだ脱走を実行したわけじゃねぇし、あくまで“砦から逃げ出したい”って願望の段階だろ? それなら、今後の更正次第でなんとかなりそうだし、きっついお灸はすえられるだろうが、大佐も命を奪うまでは……」

「いや、あの人ならやりかねんな。というより、やるだろう。一切の慈悲もなく」

 さっき腹に詰め込んだ食い物を戻しそうな気分になった。

 俺はそんなまさか、という表情でデシデリオを凝視したが、やつは残念そうに首を振るだけで、それ以上のことは言わなかった。

「考えついた段階で、殺されるのか? そんなのあんまりだろ。ここにいるやつは、誰だって大なり小なり恐怖や鬱憤を抱いてると思うし、たまには恐怖ですくむこともあるだろうよ。一時の気の迷いすら許されないってか?」

 内心の焦燥を隠そうとしながら、俺は早口で不満を垂れた。デシデリオは溜め息をつく。

「トワ、そういうことは口にするもんじゃない。特に、この砦ではな。なんにせよ、無断で砦から出ていくことは御法度だ。そういう決まりなんだ」

 俺の発言に忠告を返し、デシデリオは青い瞳でじっと俺を見つめた。

 失言だったとひやりとした。口の中が乾いて上手いこと言えないでいると、デシデリオは出し抜けにニッと笑い、安心させるように言った。

「心配すんな、お前が砦や大佐への不満を垂れてるってことは、誰にも言わないでおいてやるからさ。それに、そのくらいの愚痴は誰だって言ってる。俺だって、たまには大佐への文句くらいこぼすさ」

 胸を撫で下ろした俺に、やつはさらに続けた。

「だがな、これだけは言っとくぜ。ここでのしきたりに憤りややるせなさを感じてるんだとしても、大佐に歯向かおうとか、彼の鼻を明かしてやろうとか、そういうことは絶対に考えないように。考えても、口には出さないように。大佐は、兵士たちの心を恐怖で飲み込んで思想から戦いに染め上げる、そういう怖いお人だ。お前がここのルールに馴染めるかどうかはお前次第だが、仮に反発を抱いたとしても――」

 デシデリオは俺の肩をがっしりと掴んだ。指が食い込んで痛いくらいだったが、それだけ、やつが俺を案じてくれているのだとも感じた。

 俺は頷き、デシデリオの肩をぽんと叩いた。そうして互いの意志を通わせると、俺たちは二人して無言で頷く。

 と、デシデリオがなに食わぬ顔で予想だにしないことを言った。

「さて、そういうわけで、俺と一緒に大佐のとこに来てくれないか?」

 一瞬にして、頭が真っ白になる。

 ついぞ語った恐ろしい砦の主の元へ、とは、一体どういうことだ?

 俺が明らかに狼狽えていると、デシデリオは言いにくそうに告げた。

「実はな、お前、大佐に呼び出されてるんだよ。それで、俺が呼びに来たってわけだ」

「な、なんで俺が? まさか、お前……」

「違う、違うって。俺はお前のことはなにも話してない。だからどういう理由で呼ばれてるのかもわからん。ってわけで、こうして忠告も添えて知らせたんだ」

 デシデリオは本当にわからないって面をしてた。俺もまるでわからない。

 二人して困惑したが、バルビエからの呼び出しとあれば、行くより他はない。

「なんとなくだが、お前がライグ、アルガンと懇意にしてるのが理由じゃねぇかと思うんだ。他に理由もなさそうだし。お前も思い当たることはないんだろ?」

 デシデリオが放った言葉に驚愕し、俺はガタタッと席を立ち上がる。机上のコップが倒れて中の水が辺りに散ったが、構ってられなかった。

「それがどう関係あるんだ。確かにあの二人はちっと目立つかもしれねぇが、ただの新米兵士だぞ。勤務態度もいたって真面目で、けちのつけようがない立派な若手の鏡――」

 言いかけて、俺は気づいた。

 かつて、兵器の修理に明け暮れていたとき、ジャベリンがぽろっとこぼした言葉を思い出す。

 “なにか仕掛けてくるかもしれない”。

「……」

 俺が突然黙りこんだので、デシデリオは不思議そうにする。

 その間も、俺の頭の中はぐるぐるといろんな憶測や懸念が渦巻いていた。

「……行くしか、ないか」

 俺は腹を括った。バルビエが何をしかけてくるにしろ、それが俺の友人を危機に陥れる類いであるなら、無視はできない。

 共に死線をくぐるうち、俺のライグとアルガンに対する感情は、士官学校の頃抱いていたものよりも強く大きくなった。

 あの二人の存在は、自分の体の一部みたいに常に俺の意識の中にあって、いつも俺を支えていた。

 それが戦友ってもんだ。少なくとも、俺にとってはそうだった。

「……行こうぜ、デシデリオ。ここで怖じ気ついてても、仕方ねぇからな」

 俺はデシデリオと共に、バルビエが鎮座する上階へと向かうことにした。

 上階に続く薄暗い石造りの階段を初めて登り始めたときは、足がすくみそうだった。

 ここから先に、なにが待ち受けているのだろう。俺はどうなるんだろう。考えても考えても明確な答えは出なかったが、一つだけはっきりわかることがあった。

 バルビエを前にしたら、しっかり踏ん張ってねぇと腰が抜けちまうだろうって。




 居館の二階は、兵士たちが生活する一階とはまるで違って静寂に包まれていた。全くの無音ではなく、廊下に並ぶ扉のうち何枚かの奥からは人の気配や話し声もしたが、男臭い騒がしさは全くといっていいほどない。

 小さな窓から差し込む月明かりと、飾り気のない鼠色の壁面に備えられたランタンの灯が、廊下の突き当たりにある司令室の扉をぼんやり浮き上がらせている。鉄製の扉に施された蛇のレリーフが威圧的で、本来なら俺ごときが来るような場所じゃないのだと警告しているみたいだ。

 隣を歩くデシデリオが、小さく忠告する。

「たぶん、殺されるようなことはないはずだ。そんな感じの呼び出し方じゃあなかった。でも、さっき言ったこと忘れるなよ。ちゃんと敬意を払って接するんだぞ」

 やつにしては珍しく焦った雰囲気を感じた。バルビエが俺に何を求めているのかわからない以上、どう対応するべきかわからない不安もあったんだろう。

 もちろん俺も、ガッチガチに緊張してたさ。

 だが、心の底は冷えているような、微かに闘争心が燃えているような、妙な感覚だった。

 きっと、バルビエに屈したくないという思いと、友人が絡んでいるならひびってられない、という気持ちがあったんだろう。

 司令室にたどり着き、デシデリオが蝶番を鳴らし俺を連れてきた旨を報告する。

 曹長のジャベリンや軍曹のデシデリオは、時々報告のため二階に上がることがあって、こうしてバルビエの元に何度となく訪れているのだと思うと、職務のうちだとはいえ下士官も大変だな、とぼんやり思った。

 ややあって、扉越しにくぐもった返答があった。

「入れ」

 砦の主の命を受け、デシデリオが速やかに扉を開ける。俺は心臓がきゅっと縮まる思いをしながら、敬礼して部屋に踏み込んだ。

 すぐに、素早く眼球を動かし部屋の様相とバルビエの位置を確認した。

 あせた臙脂色の絨毯と、無造作に書類や筆記具が積まれた職務机。

 目立つのはその二つくらいだ。部屋の奥には天幕で仕切られた空間があり、恐らく、そこに寝台や衣類などの生活用品があるのだろう。バルビエの私室を兼ねる司令室は、存外こざっぱりしていて味気ない内装だった。

 この部屋の主である砦の独裁者は、窓辺に佇みパイプをふかしていた。

 帝都では、パイプ煙草は貴族や官僚などの嗜好品だが、城主であるバルビエが手にしていると、また違う暴力的な権威の香りを感じさせる。

 禿げ上がった頭と顔の半分を覆う髭面、という極めて陰険な顔をこちらに向け、バルビエは俺に視線を注いだ。淀んだ右目が、いつになく不気味だ。

「“初陣で見たとき”よりは、幾分か兵士の顔になったようだな。新兵トワ・ピトン」

 俺は頭を下げた。

「光栄であります、バルビエ大佐殿」

 しゃあしゃあと返してみせたが、ひそかに歯の根が合わなくなるのをこらえていた。しっかり顔と名前を覚えられ、挙げ句あのみっともない出会いまで記憶されているとは。

 バルビエは、デシデリオに手で追い払う仕草をした。デシデリオはちらっと横目で俺を見たあと、バルビエに敬礼して素早く退室した。

 義足特有の足音が遠ざかっていき、俺は、完全にバルビエの前に一人取り残されたと悟る。

 ここから先は、なんとか自力で乗り切るしかない。

「下らん御託は抜きにして、早速本題に移るが」

 バルビエは大儀そうに移動し、職務机に添えられた簡素な椅子にどさっと腰をおろした。

「ライグ・ダンバーとアルガン・ゴイス。この二人は、お前の士官学校時代からの友人らしいが、相違ないか?」

 俺は胸に沸いた数々の喫驚と疑問を抑え、慎重に、それでいて変に誤魔化そうとはせず、ゆっくりと口を開いた。

「ダンバーとゴイスとは、士官学校に通っていた頃から懇意にしています。二人が俺をどう思っているかは定かじゃありませんが、少なくとも、俺は二人を友だと思っています」

「ほう。えらくお利口な答えだな」

 バルビエはその返答を待っていたみたいににたにたと笑い、目にぎらついた光を宿した。

 俺は、やつがなぜ俺たちの関係に食いついたのかわからず、さらに警戒を強めた。

 バルビエは、顔の前で手を組み探るような眼差しを送ってくる。

「お前の友人、あれはどちらも近頃の若者には珍しい逸材だな」

 率直な称賛に、俺は驚き目を瞬いた。

「久方ぶりだ。俺の目を引くほど優れた若者を迎えるのは。恐れを知らぬ勇敢な戦士と、武具も兵器も鮮やかに修繕する生粋の技術者。思いがけずそのような人間を手に入れて、俺は……密かに歓喜しているのだ」

 “手に入れる”という発言に、ぞわりと鳥肌が立つ。

 まるで兵士を自分の駒や道具みたいに捉えているその感覚は、王様か何かみたいで不愉快だった。

「やつらの存在は、上手くいけば砦全体の支柱となるかもしれない。お前が知るところの、ティトルーズやコットのように」

 コットはロルダンの姓だ。多くの仲間から慕われるジャベリンならわかるが、ロルダンの名前まで出すとは思っていなかった。

 それ以前に、バルビエは砦の兵士たちのこと、そして俺たちのことを詳しく知りすぎていないか――?

 バルビエは俺の疑惧を見透かしたらしく、牽制するようにはっきり宣った。

「俺が、自分の指揮する軍団のことを何も知らないとでも思っていたのか? 残念ながら、蛇の牙における組織網、兵士たちの動向は、おおよそ把握している。兵士たちから信望を集める者、武と勇で戦況を動かす者、集団の輪を繋ぐ役割を担う者、そして、お前たちのように、なにかと目につく輩も……な」

 俺は何も言えずに宙に視線をさまよわせ、バルビエの視線が顔面に突き刺さる感覚を味わいながら、乾いた唇を引き結んだ。

 なるほど、確かにバルビエは蛇の牙をよくわかっている。兵士たちの状態や戦況に合わせ、実に上手く砦全体を回しているのは、こういったまめな内部調査のおかげだろう。

 容姿に反し、非常に賢しく抜け目ない男だ。

「……まさか、俺のような末端の兵士まで覚えてくださっているなんて、思ってもいませんでした。ありがとうございます」

 俺は無言の圧力に耐えられず、適当な世辞を絞り出した。今思えば、軽率だったが。

「ありがたいなんて微塵も思っていないくせによく言うな、この間抜け。お前の友人、ダンバーの愚直な物言いの方が、まだずっとましだ」

 俺はぎくりとして顔を上げる。

 バルビエは、横広い巨躯を揺らしながら俺に目前まで迫り、無情なまでに冷えきった金眼で威圧してきた。

 その破壊力は、俺が思わず半歩ほど後退りしてしまうほどだった。

「俺が、尤も嫌う人間がわかるか」

 これは、バルビエをまだよく知らない俺にもわかりそうな問いだ。

「臆病者、ですか」

「悪くない答えだ。だが、少し違うな」

 城主は俺の胸元を右手で掴み、軽く押し飛ばした。俺はよろめいたが、足を踏ん張り、腰が抜けないように耐える。

「俺がこの世で一番嫌いなものは、“卑怯者”だ」

 城主の目がぎらりと光る。「戦おうとせず、救おうとせず、自分の保身にばかりかまけているごみ溜めのカス共だ」

 バルビエは少し熱のこもった声音で吐き捨て、確信にも似た持論を述べ始めた。

「卑怯と賢いは違う。戦略的に賢いことと、ただ利己的なだけの輩は全くの別物だ。そして、卑怯なやつほど自分だけが楽をしよう、甘い蜜を吸おうと画策し、組織全体の秩序を狂わせる。そうやって、組織を、この国を内側から腐らせていく」やつは拳を机に叩きつけた。「なぜ、戦えるのに戦おうとしない! 無意味な安楽を望む! ただ生きているだけの生に、なんの価値があるというのか。誇りも信念もなく姑息に生き長らえ慾に執着するなら、それは動物と変わらない、いや、動物以下の醜悪だ!」

 俺は、バルビエの義憤の声に震えた。

 恐ろしいからというよりは、やつの確固たる信条とやらに完全に気圧されてしまっていた。

 やつの言い分が全て間違っているとは思わないさ。

 それでも、戦うことこそ栄誉と考える苛烈な性質は、時として類を見ない残酷に繋がる――瞬間的にそう危ぶむ。

 バルビエは長く息を吐き出した。

「さて、俺が問題視しているのは、アルガン・ゴイスのみっともない卑屈さだ。やつは体躯にも恵まれ、高度な技術も習得している。それなのに、なぜああも軟弱なんだ? 全くもって理解に苦しむな」

 バルビエの口からアルガンの名が飛び出し、俺は拳を強く握り締めた。

 やはり、バルビエはアルガンの性格に多大な苛立ちと不満を抱いているらしい。前々から感づいてはいたが、やつはアルガンの繊細な性分を心底疎んでいるんだろう。

 熊を思わせる風貌で筋骨隆々、過酷な労働にも耐えうる忍耐強く献身的な性質。アルガンは、軍人としての条件を立派に満たしている。

 それなのに、なぜ戦いを厭うのか――と。

 バルビエからすれば、きっとそれは“卑怯”と“臆病”以外の何物でもない。

 この禿げ頭は、アルガンの“優しさ”の真価を理解していないのだ。

 俺はしばらく唇を噛み締めていたが、意を決した。

 声が震えそうになるのを抑え、気丈にはっきりと言い放つ。

「僭越ながら申し上げますと、アルガンが敵兵を攻撃できないのは、ひとえにやつの温厚で心優しい性分ゆえだと思います。断じて、卑怯だからとか、そういった理由じゃないと思うんです。俺は、アルガンの寛容さに、幾度となく助けられてきましたから。それに、あいつの工兵としての技術力は、おおいに軍団の助けになっていると思われます」

 我ながら、バルビエ相手によく言ったもんだと誉めてやりたいね。

 しかし、当然俺の言葉なんて鼻で笑い飛ばされたよ。野郎ときたら、自分の価値観が絶対だと信じて疑わないんだからな。

「優しいから戦えない、だと? クハハ、なんと贅沢な苦悩よ。笑わせるな若造!」

 鋭い張り手が飛んできた。パァンという清々しい音を散らし、俺の頬に激烈な痛みが走る。

 脳が揺さぶられ、一瞬視界がぼやけたが、俺はなんとか意識をしっかり保ち、即座に顔を上げた。バルビエは俺の必死の踏ん張りを感じたのか、少しの間俺を見つめたあと、冷静に厳かに告げた。

「お前がいう優しさとやらは、他の仲間に負担を強いるものだ。ゴイスが、あの見かけ倒しの大男が戦おうとしないから、他の誰かがやつの分まで奮闘せねばならん。つまり、やつが戦場で勇んで武をふるうようになれば、その分砦の兵士たちも助けられるというわけだ。わかるだろう」

 理屈はわかる。アルガンが優秀な戦士であれば、とても頼もしかっただろう。

 だが、勇敢に敵兵を薙ぎ倒すアルガンなんてアルガンじゃない。そう思わないか?

 これまで隣でアルガンを見てきた俺は、やつの底無しの甘さは尊いものだとさえ思うようになっていた。

 戦争で、誰もが自分のことに手一杯になり、他者への労りや敬意を忘れそうになるご時世。そんな時代にあって、馬鹿みたいに実直で純粋な親切心を抱いてられるってのは、むしろすごいことなんじゃないかと思えてね。

 きっと、俺みたいに戦争に染まってどんどん残酷になって、平然と他者の命を奪うようになる方が、楽で妥当なんだ。他の軍人の多くもそうだろう。

 だからこそ、アルガンには変わらず優しいままでいてほしかった。

 戦えないことでときには仲間の足を引っ張るんだとしても、アルガンの工兵としての能力は素晴らしいものだし、それに、俺たちを支えてくれるあの打算なしの真心は、誰にでも真似できるわけじゃない。

 アルガンの温かさは、俺の心を救っている。大げさかもしれないが、ああいうやつがこの砦にも存在してるってだけで、人の心もまだ捨てたもんじゃないと思えるんだよ。

 恥ずかしながら、俺は少し涙ぐんでいた。

 これまでアルガンを散々見下してきた自分と、やつの密かな献身に気づくことができなかった自分が、とても不甲斐なく思えた。

 少しとろくさいところはあるが、そういうところも含めてやつらしさなんだと、あの瞬間――ついに受容した。

 黙って震えている俺を、砦の独裁者は冷ややかに眺めている。

 頭の中では色々な思いが渦巻いていたが、言葉が出てこなくて、俺はずっと口を閉ざしていた。

 やがて、バルビエは、俺の返答を待つのをやめてぼそりと言った。

「まぁ、良い。どのみち、俺はやつに試練を与えるつもりだった。あの小心さえ克服すれば、やつは立派な兵士として砦を支えてくれるはずだ。だからこそ、俺もやつには……お前たちには、大きな関心を注いでいるんだ」

 ――試練、だと?

 俺は意味がわからず、疑いの目をバルビエに向ける。

 不安がる俺を嘲笑うみたいに、バルビエは告げた。

「お前も、友が前進する手助けをしたいだろう。これから、やつが砦の戦士としての一歩を踏み出すのを、一緒に見届けようじゃないか」

 砦の主はそう言って、俺に向かって拳を構えた。

 俺がまずい――と思ったときにはもう遅く、バルビエの拳は俺の顎先をとらえていた。

 ロルダンにのされたときよりも鮮やかに、見事なほどあっけなく。

 俺の意識は、はるか彼方に吹っ飛んでいった。



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