南国の女
その日、俺とライグとアルガンは非番で、久しぶりに砦の清掃をする予定を立てていた。蛇の牙はいつ敵に襲撃されるかわからないという前提があり、哨戒任務や戦闘の備えは重大だが、戦況が膠着状態だとわりと自由に過ごせる。もちろん急襲があれば即座に戦闘に出なきゃならないが、特に問題もない非番の日は、それぞれ思い思いに休みを過ごしていた。
はじめの頃は、厳しいバルビエのことだから、スパルタ式の訓練や予行演習などを常にさせそうなものだと思っていた。しかし、やつは砦の状況はしっかり把握していて、兵士たちの様子を見ながら訓練頻度を増減したり、休息を与えたり、なかなか上手く砦全体を統制していた。
長年蛇の牙に居座っていただけはある。力を蓄えるときと力を振るうときの区別は、きちんとわかっているんだろう。
その日、俺たちが休みを潰して清掃に乗り出したのにはわけがあった。俺たちが初めて訪れた時期ほどではなかったにしろ、遺体が放置されたり、汚物の処理が疎かになったりしている箇所が増えてきたからだ。
死者と怪我が絶えない蛇の牙では、どうしてもこうした対処が追いつかなくなるときがある。手の空いた人間や非戦闘要員が清掃活動にあたっていたが、可能な限り衛生的な状態を好むライグは、率先して砦内の雑務を手伝っていた。
俺が呑気にカードで遊んでいる傍らで、友人がせっせと砦の秩序に貢献しているのは気まずく感じられたし、俺も仕方なくライグとアルガンに協力することにした。
俺たちは杜撰な状態の戦死者をちゃんと埋葬し、医療品の廃棄や新調を手伝ったりして、真面目な勤務態度を周囲に見せつけた。
このときも、俺たちの協力に回る人間と俺たちに冷ややかな視線を送ってくる人間にわかれた。俺たちの働きぶりにやっかみをつける輩もいたが、後方支援の女たちの間では俺たちの株は上昇したようだ。女にできるだけ良い顔をしたい俺としては、この結果はとても喜ばしかった。
蛇の牙における男女の割合は九対一くらいで、男たちのほとんどは数少ない女たちに多少なりとも興味や下心を抱いていた。
考えてみてほしい。野郎だらけのむさ苦しい空間で、汗と泥にまみれて命懸けの任務をこなし、いつ敵襲がくるかわからない恐怖と不安に耐えながら戦闘の備えをする――そんな生活を続ける男たちにとって、手当や世話に当たってくれる非戦闘員の女たちは女神以外の何者でもないんだ。
少しばかり下品な話になるが、俺はここ最近の欲求不満を発散したい衝動が強まっていてね。砦には俺みたいな欲情を抱える男はたくさんいたし、正直に言うなら、誰もが女と接触する機会を伺っていた。
言い方は悪いが、兵舎なんてみんなそんなもんだ。一時の慰めに、女体のありがたみを授かりたくなるもんなのさ。
だけど、ここで問題なのは、大抵の女たちは既に誰かのものだっていう事実だ。
実は、前述した実技演習、あれは女の所有権を決める決闘の舞台でもあるんだ。
同じ女を欲する男同士で試合に臨み、勝利した方が彼女は俺の女だと宣言し手元に囲う権利を得る、ということが砦ではよくあるらしい。なるほど、だから大勢が本気で参加するのか、と納得したよ。
もちろん男の庇護に入らず逞しく生きる女軍人もいることにはいたが、彼女たちも女同士の結束で男を寄せ付けないようにしたり、自分の身を守る努力をしていた。男まみれの砦は、女にとっては非常に危険と言わざるを得ない環境だったからな。
俺は無理矢理女に迫るなんて無粋な真似はしないつもりだが、砦には弱い立場にある者に乱暴しそうな連中も少なからずいたし、実際その手の快くない事件を耳にすることも時々あった。
男たちは強さを求め、女たちは強い男を求め、男は女の身を守り、代わりに女は男に尽くす。砦の男女の多くは、ギブアンドテイクの関係でお互いを支えてきた。
しかし、悲しいことに、俺みたいな若くて無名な兵士には、そうそう女と仲良くする機会はない。せいぜい、給仕係の女と短いおしゃべりを交わす程度だ。
だからこそ、その日、居館裏の木陰でシーツや衣類を桶洗いしている俺に女が声をかけてきたときは、信じられない気持ちでいっぱいになった。
「あなた、トワ・ピトン君でしょ? 今年の春先に、軍人になったばかりっていう」
俺に呼びかけてきた女は、背が高く浅黒い肌をしていた。フレーザー一族じゃないのは確かだ。黒目がちな目と小ぶりな唇はどこか艶っぽく、胸ぐりの開いた黒いチュニックワンピースと相まって色気を感じさせた。
彼女は治療師の制服でもなく、軍服でもなく、役割のはっきりしない出で立ちをしていた。蛇の牙にいる以上は何らかの仕事があるはずだが、どうも不埒な臭いがする。
俺は帝都時代に培った女に対する嗅覚を発揮し、しばらく様子見をしようという結論に行き着いた。
「俺の名前を知ってるなんて嬉しいよ。それで、どういったご用件で?」
砦で働く女たちと会話する機会はたびたびあったが、どれもさっぱりしたものばかりだったし、この女の視線はあからさまな媚を感じさせた。俺は少しばかり緊張し、澄ました表情を繕って立ち上がった。
女はハハッとハスキーな笑い声を上げ、長い赤毛をかき上げながら俺に近づいてきた。
「そんな仕事は女たちに任せていればいいのに」
「男らしくないと笑いにきたのか? それとも、俺の仕事を手伝ってくれるのか?」
俺はどちらでもないだろうと思いつつも投げかけた。案の定、女は不敵な笑みを浮かべたまま俺の目の前に来て、声を落として囁いた。
「あなたがお友だちと一緒に色々とがんばってるとこ、しばらく見ていたの。あなたみたいな人は嫌いじゃないわ」
女は俺にウインクし、水商売特有の慣れた仕草で俺の肩を優しく撫で上げる。
女が躊躇いなく距離を詰めてきた時点で、俺は、彼女はいわゆる“娼婦”なのだろうと察していた。
こういう場には、身売りを生業とする女がいるのは珍しくない。むしろ、多くの男たちに必要とされる仕事場だ。経緯はどうあれ、彼女はここで男たちを慰める役目を負っているんだろう。
俺は、今まで蛇の牙にこの手合いの女がいる可能性をすっかり失念していた自分に驚きながら、ライグに倣って真面目に働いて良かった、と、心の底から友人に感謝した。
「声をかけるなら、俺じゃなくてライグやアルガンにした方が良かったんじゃないか? あの二人は俺よりずっと体格も立派だし、ライグは若手の中じゃ勇敢で慕われてる。そういう頼りになる男の方が、女から人気があると思ってたんだけどな」
そう言いつつも、俺は女の手に自分の手を重ね、彼女の手の甲をそっと指の腹で擦っていた。彼女の誘いを受ける気があるという表明だ。
自慢してるわけじゃないが、少なくとも、俺はライグやアルガンよりはるかに女に積極的だという自覚がある。帝都育ちの俺は、士官学校に入る前には既に女遊びを始めていたからな。
「あたしの手を離す気はなさそうだけど」
女は俺の反応を楽しみつつ、からかいの目を向けてきた。
「もちろんだ。お前も、その方がいいんだろ?」
俺は歯を見せて笑い、女の腰に軽く手を回してみた。
久しぶりに触れる女体は、控えめに言っても最高だったぜ。
赤毛の女は、まんざらでもなさげに俺の頬に触れて笑った。笑うと口角がくっと上がり、やんちゃな表情になるのがかわいらしい。
「あたしはリースベトよ。普段は居館で厨房の仕事を手伝ってるの。尤も、本職は“こっち”みたいなものだけどね」
俺とリースベトの出逢いは、こんな感じで、唐突に、偶然に訪れた。
リースベトという女は、異国の香りを漂わせたエキゾチックな美人で、彼女の慈悲に多くの男が救われているだろうことはその日のうちにわかった。
あからさまな話はしないように気を付けよう。しかし、リースベトはなかなかの手練れだった。
俺は我を忘れて溺れ、翌日は昼下がりまで寝こけていた。目を覚ますと、リースベトは既に身支度をすませており、また相手が必要であれば気軽に声をかけてくれと微笑みながら厨房での仕事へ向かっていった。
ああいう女たちは本当にタフだと思わないか? 俺は、いつも彼女たちの逞しさと強かさに感心する。
リースベトはどうやら借金を抱えているようで、返済のために砦で身売りをしているらしかった。
そういった理由で娼婦とならざるを得ない女は少なくない社会だが、リースベト自身はとっくに諦念しているのか、返済が終わるまでは砦で働くと決めていると言う。
なぜ危険な城塞で商売するのかと聞くと、そういう契約だから、とあっさり笑って流された。
「私みたいな訳有り女には、あまり深く関わらないことね」
そう言いつつも、彼女自身に嘆くそぶりはなく、俺はその強さに驚いたりもした。
リースベトと何度か交流するうち、俺はさっぱりしたこの女に好感を抱くようになった。
俺と行動することが多かったライグとアルガンは、すぐに俺とリースベトの関係に気づき、夜は気を遣って二人きりになれる空間や時間をそれとなく作ってくれたりしたよ。
ライグが一度、神妙な面持ちで「隠れて行うとはいえ、大勢と共同生活する場で、よくそんな行為に臨めるな」と言ってきた。
だが、俺はライグと違って、ひたすら戦いと任務に打ち込めるほど堅実で強い男ではない。女のぬくもりが欲しい気持ちは、否定できなかった。
リースベトと出逢ってからは、砦での生活にも張り合いが増した。
リースベトが他の男の元にいるときはつまらなかったが、そういう仕事なのだから仕方ない。彼女も、顧客同士のトラブルを避けるため、俺といる間は他の男の影をちらつかせないようにしていた。俺も彼女の立場を考えて、できるだけ大人に対応しようとしたが、次第にあの女に惹かれていく気持ちは否定できなかった。
「あたしの故郷は砂漠にあるの。オアシスを中心に栄えた、音楽と舞踊の都だったのよ」
ある晩、俺の隣に寝転んだリースベトがぽつりと言った。
「うだるような熱さは嫌いだったけど、私にとってここは寒すぎる。時々、あの燃える日差しが恋しくなるわ」
帝国南部出身のリースベトは、ときおりこうしてふるさとの話を俺に聞かせた。
彼女の唇で語られる砂とオアシスの世界は、いつもどこか童話的で美しい。俺は、望郷の念を感じさせる娼婦の切ない眼差しが、密かに好きだった。
「どうしてこんな場所に流れついちゃったのかしらね。今さら後悔しても遅いし、今は今でそれなりにやってるけど、自分がここにいる事実を未だに不思議に思ったりするの」
「それは俺も同じだな」
俺は、自分の腕にできた無数の傷跡に目を落とした。
「なんで軍人になったんだろうって、これまでずっと考えてきたよ。どんなに生活が苦しくても、帝都に留まって他の仕事を探していれば、少なくとも戦地で殺し合ったり、敵襲に怯えたりすることはなかったのに」
帝国は今のところ志願制を採用しているので、軍人以外の道もあったはずだ。なのにここにいるのは、周囲の言葉や時勢に俺が怖じ気ついて、決断を他人に委ねてきたからに他ならない。
帝国では、俺たちが兵士になる十数年前までは無情な強制徴募が行われていた。しかし、生活の軸である男手を奪われては地方も大都市も回らなくなってしまうということで、一度大規模な抵抗運動が生じ、無差別な徴兵制度はひとまず廃された。
しかし、志願制となったことで軍人が得る利益は増大され、己の意志で軍属となる者が増えてきた。軍人自体の質と社会的地位を高めようと軍隊教育が見直され、民の戦争への関心を促すプロパガンダが催されてきた結果だ。
そして、多くの若者が軍人としての成功を夢見て、士官学校の門を叩くことになる。
俺も、そんな風潮に乗せられ軍人となった身だ。
「俺は昔、軍人になれば周囲から尊敬されると……、俺を蔑ろにしてきた兄たちを見返してやれると思ってた」
俺は不思議と、リースベトの前では素直に弱音を吐けた。「だけど、実際はこんな帝国最西端の激戦地に送りつけられて、死に物狂いで戦わされてる。まったく、人生が虚しくなるね。地味でもいいから、もっと平和で穏やかな生活を送りたかったよ」
俺が自分自身の人生を悲観的にぼやくと、リースベトは陽気な笑顔で俺の肩に頭を預けてきた。
「でも、蛇の牙に来たからあたしと会えたのよ? あたしは、あなたに逢えて良かったと思ってる。だから、あなたも喜んでほしいの」
率直に言って、照れと喜びで死にそうになった。
「お前にそう言われたら、そう思えるかもな。ほんとに良い女だよ、お前は」
「ありがとう。あなたも充分良い男よ、トワ」
彼女はいわゆる娼婦だが、それでも、この女を砦から連れ出して一緒に家庭を築けたら幸せだろう……と、何度となく妄想したりもした。
「いつか、二人で砦を出て、お前の故郷まで一緒に行こうって言ったら……どうする?」
俺は、思わず訊く。
「夢みたいね。期待していいの?」
リースベトは微笑み、俺の頬に音高くキスをした。
以降も、俺たちはたびたびこんなやり取りをした。実のところ、俺は心の奥で密かに本気にしていたし、リースベトも、時おり冗談と期待が混ざる声で俺に連れ出してほしいと言っていた。
こういったやり取りが、どれほど俺の心を救っていたかわかるだろうか?
俺は、ライグみたいに強靭じゃないし、アルガンみたいに純真でもない。だからこそ、慰め寄り添ってくれる相手が、未来に夢を抱かせてくれる約束が、必要だったんだ。
リースベトが、俺の中で大きな存在になるまで、そう時間はかからなかったよ。




